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6: 黒い影



 古井戸の怪異が赤黒く脈動し、黒い霧が学院じゅうに広がる。 

 その中心に、角を持つ黒い影の男が立っている。


「エリカに近づくな!」


 フィン、ミリー、カイル、ヤミネーシュが武器を構える。

 フィンがエリカに言った。


「エリカ、下がれ」


 しかし、影の男は誰にも興味を示さない。


「彼が見ているのは……私だけ!」


 エリカは思わず生唾を飲み込む。

 だが、仲間たちには黒い霧しか見えない。

 エリカは確かに霧の向こうに見た。

 蒼銀の髪が風に揺れる。

 整いすぎた顔立ちは、息を呑むほど美しい。

 だが、その美貌を見つめた次の瞬間、エリカは身体を震わせた。

 紅い瞳の中央に、魔族の証ともいえる縦に裂けた瞳孔が静かに細められていた。

 人を惹きつける美しさと、人ならざる冷たさが同居している。

 その口元には獲物を見つけた者だけが浮かべる、余裕に満ちた微笑がある。

 彼は自信に裏打ちされた声で言った。


「見つけたからには、絶対逃さない」


「……」


 エリカが睨み返すと、男は愉快そうに口の端を吊り上げた。


「エリカ!」


 フィンの左の掌から剣が出現し、影の男を斬りつけるが、剣がすり抜ける。


「な、何?」


 狼狽する間もなく、カイルの打撃もヤミネーシュの戒火も霧に吸いこまれるように消えた。


「エリカ!」


「フィン!」


 カイルとヤミネーシュの懸念が当たり、ミリーの結界も一撃で壊される。


「なんなの、あいつ?」


 ミリーが叫んだのを目の当たりにしたエリカも冷や汗をかく。


「今までの敵とは、格が違う」


 フィンは一番前という危険な場所にいるだけに危機感を募らせた。

 影の男がつまらなそうに言った。


「人間には見えないか?」


「あなたは誰?」


「名前など忘れた」


 あんまりな答えにエリカは唖然とした。

 影の男は腰に手を当てて言いのけた。


「だが、昔は魔王の息子と呼ばれていた」


「なんですって!」


「なんだと?」


 エリカたちが驚愕したあと、後方からグレイと学院長が駆けつけた。


「馬鹿な」


「三百年前に討たれたはすだ」


 影の男は笑う。


「父は死んだ。勇者どものせいで」


 そして告発した。


「三百年前、勇者、聖女、賢者、騎士、魔導師の五人が魔王を討った。その中にはラキュネイン家とセルヴァネイン家の先祖もいた」


 エリカは衝撃を受ける。


「父は世界を欲した。だが、余は違う」


 安心していいのか。

 全員が考える。

 しかし、影の男の角が強い魔力を帯びる。


「勇者の血だけを絶やす!」


 空気が凍る。

 勇者の血を引く家は四つ。

 王家のセルヴァネイン家。

 聖女のラキュネイン家。

 騎士のオルネイン家。

 賢者のガラネイン家。

 ラキュネイン家、オルネイン家、ガラネイン家は三百年間王家と婚姻を重ね、その血縁関係は複雑だ。

 王国の王家と婚姻できるうえに公爵位を持っている貴族は、この三家のみだ。

 とにかく、今の王家とそれに連なるエリカ、レオン、ダーマの家系をことごとく滅ぼすと言っているのだ。


「正気の沙汰じゃないわ」


「くく……どうかな? 人類の寿命に限りはあるが、余には永遠に等しい命がある」


「なっ……!」


 影の男の本気を見せつけられたエリカたちは、しばし言葉を失う。

 彼は人生をかけてセルヴァネイン王家、ラキュネイン家、オルネイン家、ガラネイン家の末裔を滅ぼし尽くす気概がある。

 影の男が一歩踏み出すと、エリカは一歩後退した。

 急にラッパの音が広く鳴り渡り、続いて太鼓の勇ましいリズムも打ち鳴らされる。

 はっとしたエリカがラッパが聞こえてきた方角を見やると、色鮮やかな金髪の青年がダーマを含む騎士団を率いてやって来た。


「レオン殿下……」


 レオンは朧気ながらも、影の男の正体が見えるようだ。

 黒い霧をまっすぐ見据え、剣を抜く。

 レオンを認めた影の男が呟く。


「やはり来たか」


 影の男から笑みが消えた。


「勇者の末裔、待っていたぞ」


 二人は先祖同士の因縁が背負って向き合う。


「私に続け!」


「言われなくても!」


 レオンとフィンが共闘する。

 レオンの剣が届くが、影の男は避けもしない。

 指先で剣を受け止めた。


「そんな」


 次の瞬間、レオンの身体が数十メートルは吹き飛ばされた。

 フィンは全速力で影の男に肉薄するが、やはり回避すらされず、影の男に突き飛ばされた。


「フィン!」


「レオン様!」


 エリカとダーマが叫んだが、 レオンとフィンは手振りで二人に来るなと示した。

 レオンが押されると騎士団が色めき立つが、彼は「手出し無用!」と命令した。


「フィン!」


 カイルや怪異学科の皆も助けたいが助けられない。

 あんなに頼もしかったフィンたちや、一流の剣士であるレオンでもまったく歯が立たない。

 エリカが初めて、


「勝てないかもしれない」


 と感じて肝が冷えた。

 フィンとレオンが倒され、影の男がエリカに近づく。


「嫌……」


 誰も止められない。

 そして男は耳元で囁く。


「その眼は最後まで大事にするといい」


 足が動かない。

 声も出ない。

 心臓だけが、嫌になるほど鳴っていた。

 エリカの恐怖心を見透かしたように、影の男は名乗った。


「余はアルディス·ノクシア。死ぬまでの短い間だが、覚えておけ」


 アルディスは黒い霧になって消える。 

 彼が消えた直後から、鳥の鳴き声や風が吹く音が聞こえてきた。

 重圧感がなくなった今、人間たちはようやくまともに呼吸できる気がする。

 ――黒い霧は消えたが、人間の仕事はまだ終わっていない。

 辺りを調査する者、警備する者、そして因縁ある相手と対峙した者がいる。


「三百年前と同じ戦いが始まる」


 学院長の独り言のような言葉にエリカは反応する。


「どういうことですか? 学院長は何かご存知なのですか?」


「……私に構っている暇はないだろう」


 学院長が身を引くと、エリカはレオンと対面する。


「……」


「……」


 今更話すことなどあるだろうか。


「王子様」


「あにゃた、どういうつもり?」


 入学式の婚約破棄など、事情を知っているミリーたちはレオンを睨んでいる。

 フィンが険しい顔でレオンに言った。


「指一本触れさせない」


 エリカの前に立つフィンは、彼女を守ろうとしているだけだ。

 それでエリカは気付いた。


(もうレオン殿下を見ても何も思わない)


 レオンのことは、すでに過去になった。

 それは少しずつ歩み寄ったフィンのおかげである。 

 エリカは自分が変わったと確信すると、冷静にレオンを見つめ返した。


「二度と間違えない」


 レオンはそう言うと、静かに立ち去った。

 ダーマが彼に付き従う。

 エリカはまだ知らない。

 『境界の瞳』が、三百年前の戦いの鍵でもあったことを。



  

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