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26:「呪いと因縁」



 地下最深部。

 巨大な境界の中央で、銀色の紋章が真っ二つに割れた。

 音はしなかった。

 だが、その瞬間、学院中の明かりが一斉に消えた。


「え?」


「やだ」


「何?」


 暗闇の中で、生徒たちの声が重なる。

 窓ガラスがガタガタと震える。

 どこか遠くで、何かが倒れた。

 続いて、ドン! と建物の奥から、鈍い衝撃音が伝わってくる。

 怪異学科の避難所でも、誰も触れていない机が一つだけ、ゆっくりと倒れた。

 ミリーが周囲を見回す。


「今の、何?」


 エリカは答えなかった。

 すでに『境界の瞳』を開いている。

 しかし、


「地下が、見えません」


「えっ!」


 昨日まで見えていた銀色の亀裂も、地下最深部も、まるで黒い布を被せられたように見えない。

 代わりに、学院のあちこちから細い銀色の線が伸びていた。

 一本、二本、三本、やがて五本と。


「境界が動いています」


「そうか」


 グレイの表情が険しくなる。


「全員、勝手に動くな。避難できていない生徒と教師の確認を優先する」


「はい!」


 皆が動き始めた。

 その中で、カイルだけが立ち止まった。

 鼻をひくつかせる。


「変な匂いがする」


「なんのですか?」


 エリカが尋ねるが、カイルは答えなかった。

 獣耳が、ぴくりと動く。

 もう一度、鼻を鳴らす。


「血だ」


 その声から、いつもの軽さが消えた。


「しかも――」


 カイルは学院裏手へ顔を向ける。


「俺が知っているやつの匂いだ」


 焼け焦げた木々の間を、カイルは走っていた。

 血、湿った土、焼けた瓦礫、微かに混じる魔力、そして獣の体臭。

 一つ一つを嗅ぎ分ける。

 匂いは、旧校舎の裏へ続いている。

 カイルが足を止めた。


「やっぱり」


 焼け跡の向こう、巨大な影が立っていた。

 四本の足、四本の目、盛り上がった肩、人間なら丸ごと飲み込めそうな顎。

 黒い毛並みの隙間から、鋭い牙が覗いている。

 バルガーンだ。


「来たか」


 低い声が響く。

 カイルが構える。


「バルガーン」


 巨狼が牙を剥いた。


「今度は逃げるなよ、小僧」


「そっちこそ」


 カイルがナイフを抜く。


「俺を追いかけ回したこと、後悔させてやる」


「ふん」


 バルガーンが鼻で笑った。

 次の瞬間、大地が爆ぜた。


「――ッ!」


 巨体が消える。

 カイルは反射的に横へ跳んだ。

 ズガァンッ! と巨大な爪が地面を抉った。

 土と石が弾け跳ぶ。

 カイルが転がりながら立ち上がる。


「でかすぎだろ!」


 バルガーンが振り返った。

 その巨体からは想像もつかないほど、動きが速い。

 前足が沈む。

 肩がわずかに下がる。

 カイルは身を低くした。

 次の瞬間、爪が頭上を通り過ぎた。

 風圧で髪が舞う。

 カイルは地面を蹴り、バルガーンの横腹へ回り込み、ナイフを振り抜く。

 しかし、

 ガキィンッ!

 爪で弾かれた。


「くっ!」


 バルガーンの顎が迫る。

 カイルはうしろへ跳んだ。

 牙が空を噛む。


「今のを避けるか」


「見えてたからな」


「嘘をつけ」


 バルガーンの耳が伏せる。

 カイルの目が細くなった。

 来る。

 そう思った瞬間――何も起こらなかった。


「……?」


 バルガーンが一本下がる。

 そして逆方向へ跳んだ。


「フェイントか!」


 カイルが追う。

 しかし、バルガーンは振り向きもしない。


「逃がすか!」


 カイルが二本目のナイフを投げる。

 バルガーンが首を傾げた。

 ナイフが毛をかすめて地面に突き刺さる。

 その刹那だった。

 巨狼が急旋回した。


「なっ――」


 目の前には牙がある。

 カイルは咄嗟に腕を顎に差し込んだ。

 ガキン! と牙が腕をかすめる。

 痛みより先に、身体が吹き飛んだ。


「ぐっ!」


 背中から地面に落ちる。

 肺から空気が抜けた。

 バルガーンがゆっくり近づいてくる。


「耳だけで読めるほど、俺は単純ではない」


 カイルは口元の血を拭った。


「そうみたいだな」


 立ち上がる。

 その刹那、バルガーンの姿が消えた。


「はっ!」


 背後、カイルは振り返らなかった。

 身体を横に倒す。

 巨大な爪が、鼻先をかすめる。

 カイルは転がりながら笑った。


「見えてないけどな」


「なぜよけられる?」


「匂いだ」


 バルガーンの四つ目が細くなる。

 カイルは挑発的に言った。


「おまえ、隠しきれてないぞ」


 バルガーンが地面を蹴った。

 カイルも同時の走る。

 二つの影が正面からぶつかった。

 爪、

 ナイフ、

 牙、

 拳。

 一撃ごとに土が跳ね上がる。

 バルガーンの爪が肩を裂く。

 巨狼が唸り、しっぽで薙ぎ払う。

 着地した瞬間、バルガーンが口を開く。


「終わりだ!」


 巨大な顎が迫り来る。

 カイルは逃げなかった。

 むしろ、深く踏み込んだ。


「何っ!」


 牙の間へからだを滑り込ませる。

 バルガーンが噛み締めるより速く、カイルは懐へ潜り込んだ。


「ここだ!」


 鉄拳を叩き込むと、ドゴォ! とのめり込む音が響いた。

 巨狼の身体が横へ吹き飛んだ。

 地面を何度も転がり、焼け跡の壁に激突する。


「……!」


 バルガーンが立ち上がる。

 四本の目に、初めて明確な警戒が浮かんだ。


「なるほど」


 低い声が響く。


「おまえは獲物を見ているのではない」


 カイルは黙って構える。


「獣を見ているのか」


「さあな」


 カイルが豪気に笑う。


「俺も獣だから、わかるだけかもしれない」

 

 バルガーンが牙を剥いた。


「ならば、獣同士。最後までやるか」


 巨狼が突進すると、カイルも走った。

 だが、バルガーンはカイルの目の前で急停止した。


「………………!」


 そして、カイルの横をすり抜ける。


「何を?」


 バルガーンは学院へ向かって走って行った。

 カイルが動揺する。


「待て!」


 バルガーンは振り返らない。


「気づいたか、小僧」


「まさか?」


「そうだ」


 巨狼が足を止める。


「俺へ、おまえと戦うために来たのではない」


 カイルが拳を握る。


「じゃあ、なんのために?」


 バルガーンが学院を見た。


「時間稼ぎだ」


「そんな……」


 カイルが振り返る。

 その一瞬を狙って、バルガーンが飛びかかった。

 巨大な顎がカイルの首を狙う。

 だが、カイルは振り向きざま、全身を捻った。


「悪いな!」


 拳が巨狼の鼻面を捉える。

 バルガーンが地面に叩きつけられると、ドォン! と重い音が響いた。

 しかしカイルは追撃しなかった。


「俺はおまえを倒すより――」


 怪異学科の方角を見る。


「仲間のところへ戻るほうが大事なんだ」


 バルガーンはしばらくカイルを見つめた。

 やがて、低く笑う。


「次は逃さん」


 バルガーンの身体が黒い霧へ変わっていく。


「勝負は預けるぞ」


「覚えとくよ」


 黒い霧が消えた。

 カイルはナイフを拾い上げる。


「時間稼ぎか」


 胸騒ぎが消えない。


「急がないと」


 怪異学科の避難所にカイルが戻ってくると、グレイが眉間を押さえた。


「どこへ行っていた?」


「バルガーンが来ていた」


「戦ったのですか?」


 エリカがぎょっとする。


「ああ」


「勝った?」


 ミリーが尋ねる。

 カイルほ少し考えた。


「引き分け」


「えー!」


「でも、あいつ逃げてったぞ。だから引き分けだ」


 ミリーが笑う。


「カイル、やるじゃん!」


「おまえに言われてもな」


「なんでよ!」


 ほんの少しだけ、焼け落ちた学院に、いつもの空気が戻った。

 だが、フィンだけは笑わなかった。

 エリカが気付く。


「フィン?」


「なんでもない」


 フィンは顔に作り笑いを浮かべる。

 けれど、その手は震えていた。

 その夜。

 フィンは自室へ戻ると、扉を閉めた。

 鍵をかけると、カチャリ、と音が鳴った。

 鍵を二重にかける。

 そして、その場に崩れ落ちた。


「うっ!」


 喉を押さえる。

 息を吸えない。


「はぁ……はぁ……」


 喉の奥が熱い。

 身体の中を、何かが這い回っている。

 制服の袖を捲くる。

 皮膚の下を、黒い筋が走っていた。

 まるで黒い血管が、身体の内側から皮膚を押し広げているようだ。


「まだ」


 フィンは歯を食いしばる。


「まだ、大丈夫だ」


 自分に言い聞かせる。

 だが、頭の中に声が響いた。


『血が欲しい』


「違う」


『もっと』


「違うっ!」


 爪が腕に食い込むと、血がにじむ。

 それでも声は止まらない。

 ――目の前にいる。


「……!」


 フィンの呼吸が止まった。

 扉の向こうに誰かいる。


「フィン?」


 エリカだった。

 フィンは顔を上げる。


「来るな」


「え?」


「今は、来ないでくれ」


「どうしたの?」


「いいから!」


 扉の向こうで、エリカが黙る。

 フィンは必死に呼吸を整える。


「僕は、大丈夫だから」


 嘘だった。

 黒い筋が首まで伸びている。

 牙が疼く。


「フィン」


 エリカの声がする。

 その声を聞いた瞬間、理性が、ぐらりと揺れた。


「……エリカ」


 声が低くなる。


「僕が、僕じゃなくなる前に――」


 フィンが扉に手をつく。

 爪がオーク材へ食い込んだ。


「離れて」


「フィン、『境界の瞳』を」


「開けるな!」


 ドンッ!

 衝撃音のあとに扉が大きくへこんだ。

 エリカが息を呑む。


「フィン!」


「来るな!」


 次の瞬間、扉が吹き飛んだ。

 エリカの横をオーク材の木片が飛んでいく。

 その奥に、フィンが立っていた。

 赤い目、伸びた牙、黒い魔力。

 そして、普段のフィンから考えられないほど険しい表情になっている。


「逃げろ!」


 一瞬だけ、理性が戻っていた。

 しかし次の瞬間にはフィンが消えた。


「え?」


 目の前、エリカの手首を掴む。


「あっ……」


 引き寄せられ、牙が首筋へ近づく。


「フィン!」


 エリカは『境界の瞳』を開いた。

 銀色の世界の中でエリカは見た。

 フィンの身体の中を、黒い鎖が埋め尽くしている。

 鎖は何十にも重なっていた。

 一本一本が、フィンの心臓へ食い込んでいる。

 そしてその奥で、見覚えのない黒い核が、脈打っていた。


「こんなに……」


 フィンの身体が震える。


「見ないで」


「フィン」


「僕を……」


 フィンが必死に顔を背ける。


「殺して」


「……っ!」


 エリカの目が見開かれる。


「僕が、僕じゃなくなる前に」


 フィンの瞳から、赤い光が消えた。

 身体から力が抜ける。


「フィン!」


 エリカが抱き留める。

 その直後、


「フィン!」


「エリカ!」


 カイルとミリーが駆け込んできた。

 ヤミネーシュも顔色を変える。


「これは……」


 グレイが教師用の杖を構えた。


「全員、下がれ」


 フィンの身体から黒い魔力が流れ出す。

 ヤミネーシュのこめかみから汗が流れ落ちた。


「ただの呪いの暴走やない」


「どういうことです?」


「呪いが――」


 ヤミネーシュが床の下へ目を向けた。


「何かに反応しとる」


 その瞬間、学院の地下から轟音が響いた。

 


 ドォォオォォン――!



 床が震える。

 壁に銀色の光が走る。

 エリカが振り返った。

 『境界の瞳』の向こう、地下深くで五つの紋章が光っている。

 そして中央に真っ二つに割れていたはずの銀色の紋章が、ゆっくりと動き始めていた。


「境界が……」


 エリカが呟く。

 その横で、フィンが顔を上げる。

 赤い目が、エリカを捉えた。


「逃げろ!」


 声だけは、まだフィンだった。


「エリカっ……!」


 次の瞬間、地下から、巨大な銀色の光が噴き上がった。

 学院全体が白銀に染まる。

 そして、フィンの身体を覆っていた黒い呪いが、銀色の光へ向かって一斉に伸びた。

 まるで、何かを探しているように。








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