14: アンフィサと天秤
夜。ロアネイン侯爵が密書を隠している部屋に、再び魔族が現れる。
ただし、今回はアルディスの使者ではない。
黒い天秤を携えた魔族――マルキゼルが、侯爵の向かいに座っている。
「あなたはまだ迷っている」
「当然だ。魔王に味方すれば王家を敵に回す」
「では、王家に密書を渡せば?」
侯爵が黙り込む。
マルキゼルは黒い天秤をテーブルに置く。
左右の皿には何も載っていない。
それでも、天秤はゆっくりと揺れ始めた。
王家への忠誠。
ロアネイン家の繁栄。
公爵位への渇望。
娘アンフィサの将来。
そして、魔王への恐怖。
侯爵の胸の内を映すように、天秤が揺れ続ける。
そしてマルキゼルは告げる。
「さて、天秤はどちらへ傾くかな?」
マルキゼルは天秤に触らない。
「三百年前から我が家は勝者に仕えてきた。今回も同じだ」
侯爵がそう簡単に屈しないことに、マルキゼルは満足げに笑った。
「だからこそ、あなたには価値がある」
侯爵はマルキゼルに問いかける。
「三百年前にも、魔王軍は我が家を必要としたのか?」
マルキゼルは骨ばった指で顎髭を撫でながら、答えた。
「必要だった。あなた方は勇者にも魔王にも武器と食料を送った」
「その通りだ」
侯爵は否定しない。
そのうえで重要な事実を口にした。
「ロアネイン家は単なる日和見ではなかった。三百年前、戦況を正確に把握し、どちらが勝っても王国を支配できるように情報と物資を集めていた」
侯爵は立ち上がり、壁一面に広げられた王国の地図へ歩み寄る。
「つまり、ロアネイン家は勝者に従う家ではなく、勝者が誰になるか見極め、その勝者が必要とする家になる。それで生き残ったのだ」
侯爵はマルキゼルを振り返った。
「我が家は魔王にも勇者にも忠誠を誓ってはいない」
「では、何に忠誠を?」
「ロアネイン家そのものだ」
初めて、マルキゼルが声を上げて笑った。
「なるほど、だからおもしろい」
その後、二人は細かな条件を詰めていった。
やがて話が終わると、マルキゼルは霧のように姿を消した。
翌朝。侯爵はアンフィサにマルキゼルとの交渉について話した。
アンフィサは紅茶を飲みながら、黙って父の話を聞いている。
やがてティーカップを置くと、穏やかな声で言った。
「では、魔王側にも条件を指示しましょう」
侯爵が驚いて席から身を乗り出す。
「何?」
「わたくしたちが協力する代わりに、証拠をくださいませ」
アンフィサは淡々と続けた。
「本当に魔王が王国を滅ぼせるのであれば、わたくしたちが危険を冒す必要はありませんもの」
「つまり魔王に利用されるのではなく、魔王を利用しようというのか」
「そうですわ」
侯爵は娘を見つめた。
「おまえは本当の私の娘なのか?」
苦笑する父に、アンフィサは微笑むだけだった。
*
一方、学院では。
エリカはアンフィサの周囲に感じた違和感が気になっていた。
『境界の瞳』を使っても、怪異ではない、魔族ではない、呪いではないと判明したが、釈然としない。
エリカはフィンに相談してみた。
「アンフィサ·ロアネインは敵なの?」
「まだわからないわ」
「なら、調べればいい」
「調べる?」
エリカが驚く。
以前の自分なら、怪しい相手には近づかないようにしていた。
けれど、相手を観察し、確かめる。
そうすれば、何か手がかりが掴めるかもしれない。
「でも、アンフィサさんとは学科が違うし、どうやって近づけばいいのかしら」
「いい機会がある」
「え?」
フィンは掲示板に貼られたポスターを指さした。
「創立記念日、ですか」
「学院の創立者ルナ·ラヴォリアを偲ぶ会を口実にした、ダンスパーティーだよ」
「それなら、アンフィサさんに近付くことができますね」
「ああ、でも……」
フィンは憂鬱そうに口を閉ざす。
理由が分からないエリカは不思議そうにする。
やがて彼女はポスターに記された名前を見つける。
ルナ·ラヴォリア。
三百年前、勇者一行に加わっていた大魔導師の名だ。
そして、
「きみをダンスに誘いたいんだけど、いいかな?」
勇者の子孫であるレオンも、創立記念日のパーティーに参加することが決まっている。
「あっ……」
ようやく意味に気付いたエリカの頬が赤くなる。
それでも、これだけはきちんと答えた。
「喜んで。当日はお待ちしていますわ」
「う、うん!」
見ている方がくすぐったくなるような、初々しい二人だった。
現に覗き見していたミリー、ガイル、ヤミネーシュは、もうお腹一杯だと言わんばかりの顔をしている。
*
その日の午後。
学費の手続きのため教員室へ向かったエリカは偶然、アンフィサが一人になるところを目撃する。
なぜアンフィサは、新校舎から遠く離れた教員室の近くまで来ているのだろう。
不思議に思いながらあとを追うと、アンフィサは誰もいない洗面所の前で足を止めた。
「疲れますわ」
いつもの柔らかな笑顔はない。
エリカは咄嗟に『境界の瞳』を使った。
世界の色が銀色に染まる。
すると、アンフィサの身体には異常がない。
だが、床に落ちた「影」だけが、本人とは違う形をしている。
黒い花のようなものが「影」の中で静かに咲いている。
「……!」
エリカは思わず息を呑んだ。
その瞬間、アンフィサが振り返った。
「どなた?」
エリカ葉瞬間的に近くの物音へ身を滑り込ませた。
扉を閉め、息を殺す。
「わたくし、相当疲れてますのね」
アンフィサは鏡を見ながら呟いた。
やがて足音が遠ざかる。
エリカはしばらく動けなかった。
埃っぽい物置の中で、胸に手を当てる。
(あれは何?)
『境界の瞳』に映った、黒い花。
あれだけはなんなのか、まったくわからなかった。
*
誰もが寝静まった深夜、マルキゼルが再びロアネイン家に現れた。
今度は、アンフィサも父の隣に座っている。
マルキゼルはアンフィサを見た。
その瞬間、黒い天秤が、初めて大きく揺れた。
「これは……」
アンフィサが優雅に微笑む。
「何か?」
マルキゼルが興味深そうに彼女を見つめた。
「あなたの天秤だけ、重さが測れない」
アンフィサの笑顔が一瞬消えた。
しかし、父は気づかなかった。
マルキゼルは本気で問いかける。
「あなたは何を隠しているのか?」
アンフィサは少しだけ目を細める。
「それを知りたいのは、わたくしも同じですわ」
マルキゼルはその答えを気に入ったらしい。
「はは………」
やがて声を出して笑った。
*
魔界。
厳かな雰囲気の玉座の間に、マルキゼルが戻ってきた。
玉座に座るアルディスへ、深々と頭を下げる。
「ロアネイン家は簡単には動きません」
「そうか」
「ですが、妙な娘がおります」
アルディスが顔を上げる。
「アンフィサか」
「左様でございます」
マルキゼルが告げた。
「私の天秤で、あの娘だけは重さを測れませんでした」
アルディスはしばらく黙っていた。
マルキゼルも、主君の返答を待ち続ける。
「なるほど」
その口元に笑みが浮かぶ。
「エリカだけではなかったのか」
そして笑う。
「陛下?」
アルディスは答えを聞きたいマルキゼルを見て、楽しそうに言った。
「おもしろい。ならば、あの娘も盤上に乗せよう」
マルキゼルは一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐに恭しく頭を垂れる。
「御意に」
こうして、王立ラヴォリア魔導学院の創立記念日を目前にして、新たな駒が盤上へ置かれた。
エリカ。
アンフィサ。
そして――魔王の息子アルディス。
三者の思惑が交差する舞台が、静かに幕を開けようとしていた。




