13: 新しい結界
王立ラヴォリア魔導学院に、新しい結界が張られいる。
ヤミネーシュが壁に耳を当てる。
床を指で叩く。
天井を見上げる。
学院全体を歩き回って、魔力を流して確認する。
「今日は覗かれてへんな」
学院長も満足げに頷く。
「これで少なくとも、学院内の会話は守られる」
しかし、エリカだけは安心できない。
「向こうから見られないのなら、アルディスは別の方法を使うわ」
沈んだ顔つきのエリカを、フィンが励ます。
「きみは呪いに触れられた。ミリーは盾を乗り越えた。カイルも一人で戦うのをやめた。ヤミネーシュは見ての通り。だから大丈夫」
「……そうね。私たちは強くなった」
エリカはフィンの言葉を心強いと思った。
*
ロアネイン侯爵家のタウンハウスでは、侯爵と秘書が先日アルディスの使者からもらった密書を巡って意見が対立している。
「王家へ提出しましょう」
「いや」
秘書は懇願するが、侯爵は保留しようとする。
アンフィサが紅茶を飲みながら言う。
「魔王は試しているだけですわ」
侯爵と秘書が驚く。
「どういう意味だ?」
アンフィサはティーカップをテーブルに置くと、淀みなく言った。
「本気なら使者ではなく、軍勢を送ります」
事態を想像した侯爵と秘書の顔色が優れない。
「つまり、忠誠を測っておりますの」
それもそうだと納得した時、廊下から扉をノックする音がした。
侍女が扉を開けると、品のある貴婦人が侍女を伴って入ってきた。
「あなた、アンフィサ、ごきげんよう」
部屋の重苦しい空気など気づかず、明るい声で話しかけてくる。
「あ、ああ」
「どうなさいましたの、お母様?」
侯爵は少し動揺したが、アンフィサは微笑を浮かべて母を出迎えた。
「王家から使者が来ると思ったのに、来なかったのよ」
「……」
アンフィサは侯爵と顔を見合わせる。
「ほら、レオン殿下が例の令嬢と婚約破棄なさったし、もうそろそろ来ると思っていたんですけど」
「来るとは、何が?」
アンフィサはわざととぼけるが、母はそれに気づくことはなかった。
「王家との婚姻以上に大切なことなどありますの?」
困惑しているのは母だけで、侯爵とアンフィサは冷めた顔つきである。
気が付いた秘書だけが、おろおろしている。
「ねえ、みんなでお城に行きましょう。そうすれば王家も無視できないわ」
侯爵とアンフィサが黙っていると、母はいかにも名案であるようにこう言った。
「お兄様も呼びましょう。ガラネイン家の力添えがあれば、すぐに返答をもらうことができるわ」
「イリーナ、差し出がましい真似はよせ」
ガラネイン家の名を出したことが侯爵の癇に障った。
「そんな。わたくしはお家のことを考えて、最良の選択を勧めただけですわ」
母は娘が味方するのを当然と思ってアンフィサを見るが、彼女は冷静だった。
「お母様は余計なことをしないで」
「な、なんですって。わたくしは最良の縁談をあなたに」
「王家にガラネイン家の血を入れることしか考えてないくせに」
「それの何が悪いの? わたくしは元は公爵家の出身よ」
侯爵が机を叩いた音に、母はびくっとする。
「イリーナには療養が必要だ。今日中に領地に戻れ」
「な、なぜですか?」
「失礼します」
秘書が母を部屋から連れ出した。
母の侍女たちも、主人である侯爵に逆らわなかった。
アンフィサの侍女が扉を閉めると、侯爵が苛立ちを吐き出す。
「十八年間何を言っても、あれは変わらなかった」
「仕方ないですわ。温室育ちのお母様に大局は見えません」
「……そうだな」
侯爵とアンフィサは相談ごとを再開した。
とてもじゃないが、王家を純粋に信じる母には聞かせられないものだった。
*
グレイが教師として告げる。
「外から侵入する敵を防げ」
怪異学科の授業は、今日は結界の実戦だ。
すると、学院中の結界に何者かが触れる。
ボオッ! と炎が結界を這い回り、学院の壁を一周する。
炎が昼間でも辺りを明るく照らす。
「来よった!」
炎が走った箇所があると、エリカたちは一斉にヤミネーシュを見た。
「敵はどうしたと思う?」
「逃げましたね」
「ちょっと焦げ臭いよねー」
笑いそうな皆にグレイが忠告する。
「使い魔だ。敵も行動を買えてきた」
はっとしたエリカたちは、いつもより熱を入れて授業を受けた。
*
一方その頃、レオンは生徒たちと挨拶を交わしたあと、ダーマがさりげなく近寄ってきた。
従者であるダーマがレオンと話すことは別段珍しくはない。彼はそれを利用して囁いた。
「報告が上がっております」
レオンは眉一つ動かさず報告を聞く。
「ロアネイン侯爵家の馬車が、三日連続で領地方面へ向かいました」
ロアネインという名前を聞いただけで、レオンは気を引き締めた。
「調べろ」
「はっ」
ダーマはごく自然に離れていった。
従者が主君に挨拶したようにしか見えない、さりげない一時だった。
レオンは窓から空を見上げる。
(この空は怪異学科に繋がっている。エリカ……)
レオンは感情を表に出さないように気を張った。
*
アンフィサが学院に戻ると、ほとんどの生徒が、
「聖女様!」
先を争って挨拶してくる。
同じ聖職科の女子など、誇らしげに取り巻きを勤める。
アンフィサは飽くまで親しみやすい聖女を演じるが、満更でもなさそうだ。
しかし、エリカだけは違和感を覚える。
(『境界の瞳』が反応するなんて)
アンフィサの周囲だけ色がおかしい。
周囲の景色だけ歪んで見えて、足元だけ影が揺れる。
(人じゃない。怪異じゃない。魔族でもない。でも、何かを隠している、そんな色)
取り巻きと喋るアンフィサが微笑むが、それだけで空気が凍る。
(ここは嫌……)
エリカは逃げ出すように寮へと急ぎ帰った。
*
魔界に変化が起こった。
ロアネイン家へ密書を運んだ使者が帰ってきたのだ。
彼は早速、玉座の間に参上した。
「どうだった?」
「密書は受け取らせました」
「侯爵は?」
使者は眉をひそめて首を振る。
「まだ決めておりません」
アルディスは人の悪い笑みを浮かべる。
「それでいい」
バルガーンが尋ねる。
「信用しておらぬのか?」
「人間は欲で動く」
アルディスはさらに続ける。
「だから操りやすい」
その時、別の魔族が現れる。
黒い天秤を持ち、フードの付いたローブをまとっている。
黒い天秤の片皿には黄金、もう片方には心臓が乗っていた。
「次は私の役目ですかな」
アルディスが鷹揚に頷く。
「交渉を始めろ」
「はっ。黒秤のマルキゼルにお任せを」
マルキゼルが霧のように姿を消した。
ついに政治戦が始まったことを、エリカはまだ知らない。
「どう翻弄されるか。『境界の瞳』よ」
アルディスは、人間など欲であやつれると信じている。
だが政治戦と言う一手こそ、自ら眠れる獅子の尾を踏む愚策だったと思い知るのは、もう少し先のことである。




