第8話 猫の同僚は毒を吐く
依頼番号 D-1150
依頼名 北の水路 側溝の魔物駆除
申請等級 E
申請者 三番通り町内会
朝、角を曲がると包みが二つになっていた。通りはまだ半分が影で、パン屋の煙突から出た煙が、まっすぐ上に伸びている。
「二つですか」
「昼のぶんだ」
グレンは扉の右側の柱一本ぶん離れた位置から、動かない。片手に包み、もう片手にも包み。大きな手に小さな包みが二つあると、少し困っているように見える。
「中身は」
「胡桃」
「両方ともですか」
「訊いたら、両方でいいと言われた」
「どなたに」
「決められなかったから、訊いた」
両手で受け取ると、包み紙の下がまだ温かくて、焼きたてなのが分かる。S級の冒険者が焼き菓子の数を店先で人に相談している場面を想像しようとして、途中でやめた。
「グレンさん」
「ああ」
「明日は、一つで足ります」
「そうか」
彼は少し考えて、言い直した。
「一つと半分は」
「二つになります」
「そうか」
納得した顔ではなかったが、それでもうなずいた。剣を提げて坑へ入る人が、菓子の数だけ決められない。それが可笑しいのに、可笑しいと言いにくい。
六つ半。開門。
板を上げると、前庭の光が受付台の木目まで届いた。列は五人。E等級の依頼が一件と、装備の等級照会が三件と、報酬の受け取りが一人。
「北の水路の駆除ですね」
「そう。洗濯場の下の水路。夜に音がするって苦情が出てて」
町内会の書記は一昨日と同じ人で、取り下げた依頼を、また持ってきた。
「……先日は、その」
「取り下げは正当な権利です。あらためて受理します」
わたしは遭遇記録を見た。北の水路は三年で二件、どちらも小型で、季節はどちらも今ごろだ。水がぬるむと、下から上がってくる。E等級で妥当だが、受注者には夜間の単独を避けるよう、備考に書いておく。
側溝の依頼は報酬が安い。安いから若い冒険者が受ける。若い者が受ける依頼ほど、備考の行が長くなる。三年書いていると、そういう癖がつく。
判を押した。
「これ、俺が行こうか」
列の三番目に並んでいた男が、そう言った。B級の斧使いで、名前だけは知っている。
「E等級ですよ。報酬は銀貨です」
「知ってる。うちの若いのが今月ぜんぶ食っちまってな。飯を」
「それは駆除できません」
「だよなあ」
列が少し笑った。この窓口で笑いが起きるのは、三日ぶりだ。
四人目は装備の等級照会で、胸当てを板の上に置いた。
「この胸当て、Cで通るか」
「留め金が鉄です。Dで登録されています」
「銀に替えたら」
「留め金の材質は等級に関係しません」
「関係ねえのかよ」
「見た目は上がります」
男は少し考えて、替えないことにしたようだった。胸当てを抱え直して、うしろの人に場所を空ける。
五人目が板の前に立ったとき、空気が変わった。
中年の男で、革のよく手入れされた外套を着ている。冒険者ではなく、商会の使いだ。板の上に手袋を置く音が、やけに大きかった。
「査定官はあんたか」
「はい」
「うちは第三迷宮の素材を扱っててね。等級が上がると仕入れの値が動く。あんたの一筆で店が一つ潰れることもあるんだ。分かってるかい」
「分かっています」
「分かってて、番も無しに——」
「はいはい、そちら空いてるわよ」
シャノンが横から手を伸ばして、男の書類を取り上げた。取り上げて、そのまま自分の窓口の板の上に置いた。
「うちの査定官は今日、字を書きすぎて手が死んでるの。あたしが承ります。あ、等級の話はできないけど」
「できないなら意味がないだろう」
「じゃあ明日いらして。明日も同じ人が座ってるけど」
男は舌打ちをして帰り、シャノンは書類を揃えて、わたしの台に戻す。角を二度叩いてから。
「庇ってないわよ。声が大きいのが嫌いなだけ」
「はい」
「はい、じゃないでしょ」
シャノンの尻尾が、板の下で一度だけ大きく振れた。怒っているときの振り方だ。
昼。休憩は交代で取る。わたしは受付台の内側で立ったまま、台帳を繰っていた。
「食べなさいよ」
シャノンが目の前に皿を置いた。パンと豆の煮たのと、それから胡桃の焼き菓子が一つ。
「これはわたしのです」
「知ってるわよ。半分もらったから返してるの」
「返ってきていません。減っています」
「利子よ」
シャノンは自分の皿を持って、わたしの隣に座った。座ると、耳の先の黒いところが窓の光に入る。
「あんた昨日、水しか飲んでないでしょ」
「飲みました」
「水を」
「……水を」
「馬鹿なの」
彼女はそう言って、豆をすくった。
「あの熊ね、宿を替えたって」
「なぜですか」
「元の宿の女将が例の数字を聞いたからよ。三年で十九人ってやつ。聞いた宿には泊まれないでしょ。脳みそまで毛皮でも、そこは分かるみたい」
「あの数字は審理の記録です。貼り出していません」
「貼ってなくても回るのよ、こういうのは」
シャノンは豆をもう一口食べて、それから言った。
「あんた、あの子に礼を言った?」
「トビさんにですか。……言っていません」
「言わなくていいわよ。言うと、あの子が自分のやったことを小さく思うから」
わたしは彼女を見たが、彼女は皿を見ていた。
「シャノンさんは、そういうことをよくご存じですね」
「知らないわよ。適当」
午後、列がまた片側に寄った。今度はこちら側で、斧使いが最初に来て、そのあと三人が続いた。
「差し止めの写し、窓口で出るって聞いたんだが」
「出します。一枚一銀貨です」
「高えな」
「紙代です」
「もらうよ」
夕方までに出た写しは、十一枚になった。控えを書きながら、指の関節が痛むのに気づいた。三日ぶんの字を、今日で書いている。右手の中指の第一関節に、筆だこの上からもう一つ、赤い腫れができていた。
六つ。閉店。
シャノンが板を下ろす音がして、それから、彼女が屋根へ上がる音がした。この人は疲れると、屋根に行く。猫だからではなく、たぶん、人に見られたくないからだ。
わたしは裏の階段を上がった。手すりの塗りが剥げていて、握ると手のひらに木の粉がつく。
支部の屋根は西側だけ低くて、増築したときに合わなかったのだと、古い職員が言っていた。低い側の瓦は日が落ちても、まだ温かい。
シャノンが膝を抱えて座っていた。通りの向こうには鐘楼が見えて、その先は王都のほうの街道だ。荷馬車のランプが二つ、ゆっくり離れていくところだった。
「上がってこないでよ。落ちるわよ」
「落ちません」
軒の縁に腰を下ろすと、瓦の熱が、服の下から膝の裏へ伝わってくる。石畳の上で、ランプが一つずつ点いていく。
「ねえ、ノーラ」
「はい」
「あんた、審理で番の話をされて平気だった?」
「平気ではありません」
「そう」
シャノンは膝に顎を乗せた。
「あたし、十二で家を出たの」
わたしは黙った。
「出たんじゃないわね。出されたの。木札が上がってさ。該当あり、って」
彼女の耳が一度、後ろへ倒れた。
「めでたいでしょう。うち、祝いの膳まで出たのよ。鯛が乗ってた」
鐘楼の鐘が鳴った。夜の八つには、まだ早い。鐘の数を勝手に数えているのは、職業病だ。
「うちは兄が三人いてね。誰も札が上がらなかったの。あたしだけ上がった。上がった日から、あたしは家の子じゃなくて、家の運になったのよ」
街道のランプがもう一つ増えて、三つになる。シャノンはそれを追わずに、足元の瓦の割れ目を、爪の先でなぞっていた。
「……それから」
「それから、っていうのは、まだ言わない」
シャノンは立ち上がって、瓦を二歩だけ歩いた。足の運びに音がない。
「あんたね、あたしが毒を吐くのは聞き流しなさい。あたしが黙ったときだけ気にすればいいの」
「では、いま気にします」
「うるさいわね」
彼女は屋根から降りた。手をつかずに、雨樋の縁を一度だけ蹴って降りる。降り方が異様に上手い。
その夜、わたしは人事の綴りを片づけた。職員台帳の管理は受付の仕事で、片づけのついでだった。ついでだと自分に言いながら、頁の繰り方が普段より遅いのは分かっていた。
シャノン・ルー。採用は十年前。出身欄は「東の郡」とだけある。郡の名は書いていない。前職の欄には一行あって、その一行が黒く塗り潰されている。身元保証人の欄には、彼女自身の名前が書いてあった。
職員の綴りで保証人が本人になっている例を、わたしは他に知らない。規定では認められている。認められているだけで、誰も使わない。
わたしは綴じを閉じて、板を下ろした。
扉を出ると、通りの向かいの柱に灰色の影があった。柱一本ぶん。
「まだいらしたんですか」
「通りかかった」
「今日は二度目です」
「そうか」
彼は否定しなかった。
並んで歩くとき、この人は必ず半歩うしろに落ちる。急いでいないのだと、それで分かる。
わたしは通りを二本歩きながら、あの黒い一行のことを考えていた。塗り潰してある墨は、乾き方が新しくて、支部の備品のものではなかった。




