第6話 鉄爪の申立て
申立番号 F-0071(T-0034の複本)
件名 依頼D-1132の査定に対する不服申立て
申立人 「鉄爪」隊長 ガルド・ベルン
受理 本日六つ半
書面は掲示板の中央に貼られていた。
紙は上等で、ギルドの備品ではない。字は誰かの代筆らしく、行の頭がきれいに揃っている。墨も濃い。支部の帳場で使う薄墨ではなく、乾いたあとで艶の残る、値の張るほうの墨だ。ガルドの三本爪の判の隣に、支部の受理印が押してあった。
わたしは五行目まで読んだ。
——査定官ノーラ・ハーヴェイの判断は、番鑑定において該当なしと判じられた者によるものであり、獣の気配を測る資格を欠く。
六行目から下は同じことの言い換えだった。言い回しを三度変えて、同じ一行を繰り返してある。
「破っていい?」
シャノンが隣に来ていた。糊の壺を持っていて、剥がす気なのか、貼り直す気なのか、どちらにも見えた。
「破ると複本が三枚出ます」
「三枚とも破るわよ」
「そのあと九枚になります」
シャノンは壺を石畳に置いて、爪の先で貼り紙の角を弾いた。
前庭に朝の光が伸びていて、掲示板の斜め後ろ、扉の右側の柱一本ぶん離れたところに、灰色の背中があった。グレンは貼り紙を見ていない。読める位置に立って、こちらだけを見ていた。
「あれ、いつまで立ってんの」
「開店までです」
「入ればいいのに」
「開店前だから、と」
シャノンは何か言いかけて、やめた。かわりに貼り紙の右下を、指の先で示した。
「代筆ね。この判、見たことあるわ。王都の代書屋よ」
「王都ですか」
「あの熊が自分で王都まで出向いたとは思えないでしょ。誰かが取り次いだのよ」
わたしはもう一度、紙を見た。厚みがあって、裏から光を当てても、字が透けない。触れば指の腹に、織り目の詰まった手ざわりが残る。支部の申請用紙の三倍はする紙だ。
誰かが金を出している。
九つ。支部長室。
「受理は取り消せない」
ヴェンツェル支部長は机の上に規定集を開いたまま、そう言った。挟んである付箋はわたしのものではなく、もっと古い、色の褪せた紙だ。
「申立ては様式さえ整っていれば受理する。中身は問わない。問うのは審理の側だ」
「審理はいつですか」
「二日後の九つ。二階の会議室。本部からは来ない。支部内審理だ」
「出席は」
「支部長、査定官、申立人。それと証人。証人は双方が一名ずつ立てられる」
支部長は指で行をなぞった。なぞらなくても読めているのに、なぞる人だ。
「君は、まずいと思わないのか」
「思います」
わたしは机の上の規定集を見たまま、続けた。
「ですが、都合のいい面もあります。審理では査定票が読み上げられます。D-1132の遭遇記録二件が、そこで公式に綴じられます」
支部長の指が止まった。
「……そういう読み方をする者は、久しぶりだ」
「以前にもいましたか」
彼は答えなかった。抽斗を少し開けて、また閉める。中身は見えず、紙の束の背だけが見えた。名簿のような綴じ方をした、ずいぶん古いものだ。
「ハーヴェイ君。この支部は本部から見れば小さい。査定権を返上しろという話は、二十年で四度来ている」
「四度とも断られたのですか」
「断った」
「支部長は、本部の審理手続きにずいぶんお詳しいのですね」
「二十年もいれば覚える」
「その付箋は、支部長のものですか」
彼は開いた頁に目を落とした。褪せた紙が挟んであるのは第十四条のあたりで、わたしが三年前に読んだ条文と、同じ場所だった。
「古いものだ。気にするな」
支部長は面倒事の前では先に謝る人で、二十年ずっとそうだった。その人がいまは謝らない。
「他は何でも渡す。人も予算も倉庫の鍵も渡した。差し止めだけは渡さん」
「なぜですか」
彼は答えなかった。規定集を閉じて、表紙の埃を手のひらで払う。埃はほとんど無かった。
「二日後の九つだ。遅れるな」
わたしはその言い方を覚えておくことにして、理由は訊き直さなかった。訊いても、この人は書類の話に戻すだろう。
昼を過ぎて、窓口に来る人の数が減った。
減ったというより、並ぶ位置が変わった。列がシャノンの側に寄っているが、今日は彼女が流したのではない。誰も流していない。
窓口の仕事は列の長さでは測れず、人が減れば、そのぶん一人にかかる時間が延びる。誰も急がなくなるからだ。急がない人は、板の向こうからこちらの顔を見る。挨拶をして、書類の話をして、それから、耳のあたりで目が止まる。
午後に一件、申請の取り下げがあった。E等級の側溝の駆除で、申請者は三番通りの町内会の書記だった。理由を訊くと、書記は掲示板のほうを見て、それから床を見た。
「……あの、査定の件が片づいてからにしようかと」
「承知しました。取り下げの控えをお渡しします」
「あの、片づいたら、そちらから」
「お知らせします。ただ、水路の件は季節ものです。遅れると等級が上がります」
「上がると、払いも上がるので?」
「上がります。今ならE等級で、報酬は銀貨です」
「……悩みますね」
「悩んでください。悩んだぶんは記録に残しません」
わたしは控えを書いて、判を押した。角の欠けた朱印が、紙に落ちる。書記はそれを受け取り、二度頭を下げて帰っていった。
シャノンが隣で伸びをした。
「一件減ったわね」
「一件です」
「二日後には何件になると思う?」
「数えます」
「数えないでよ、そういうとこ」
その日から二日、わたしは受理簿を数えた。
受理簿は隊ごとではなく、日付順に綴じてある。隊の顔ぶれの移り変わりを調べるには、三年ぶんの頁を頭から繰るしかない。加入と離脱の届けは別の綴りにあり、負傷の届けはさらに別だ。三つの綴りを机に並べて、名前を写し、突き合わせていく。
灯りの油が二晩で一壺なくなって、指の側面に、鉛筆の粉が黒く残った。二日目の夜に、写した名前が三十を超えた。同じ名前が二度出てくることもあれば、一度出てきて、そのあと一度も出てこない名前もある。
二日目の朝、シャノンが板を上げながら言った。
「あんた、寝てる?」
「寝ています」
「何刻」
「……二刻ほど」
「馬鹿なの」
彼女はそれ以上何も言わずに、わたしの窓口の列を自分の側へ流した。今日は理由も付けなかった。
二日目の夕方の六つ。
板を下ろして鍵をかけると、扉の外にグレンがいた。柱一本ぶん。位置は昨日と同じだった。
「終わったか」
「はい。……お待ちでしたか」
「通りかかった」
通り道ではない。彼の宿はギルドの通りの反対側だと、いつだったかシャノンが言っていた。
鍵の鉄が手のひらに冷たい。わたしはそれを握ったまま、石畳へ出た。
「明日、審理があります」
「知ってる」
「わたしが証言に立ちます」
彼は少し黙って、それから訊いた。
「何を訊かれる」
「たぶん、匂いのことです」
言ってしまってから、余計なことを言ったと思った。彼は何も言わない。柱から一歩も動かないまま、わたしが通りを横切るのを、ただ見ていた。角を曲がるまで、背中に視線が残った。
下宿に戻ると、扉の隙間に支部の封筒が挟まっていた。
審理出席通知。明日、九つ、二階会議室。
母の形見の鏡台の上で、封を切った。鏡には受付の制服のままのわたしが映っている。二日ぶんの紙の粉が、袖口に白く残っていた。
証人の欄に、わたしの名前があった。
その下に、もう一行あった。
——申立人側証人、追って通知。




