第28話 匂いで測れないもの
議題 受付職員 ノーラ・ハーヴェイの職務適格
開催 本日 九つ 支部一階の広間
立会 ギルド本部 書記 二名
議長 ギルド本部 監査官 ボルス・ヴォルガード
九つ。広間はいっぱいだった。冒険者が壁際に立って、職員が机の後ろに並んで、入りきらない人が前庭から扉越しに覗いている。窓を全部開けてあるのは、この人数では半刻で息が悪くなるからだ。長机の正面には本部の書記が二人、羽根ペンを構えたまま、まだ一文字も書いていない。
わたしは受付台から椅子を一つ運んで、机の手前に置いたが、座らなかった。座ると、台帳に手が届かない。
ボルス・ヴォルガードは、刻限ちょうどに入ってきた。四十九。狼の獣人。毛は黒に近い灰で、耳の形がグレンとよく似ていて、似ているのは耳だけだった。この人は歩きながら、誰の顔も見ない。見る必要が無いからだと、あとで分かった。
「始める」
声は大きくないのに、広間の端まで通った。
「監査とは数字を整えることだ。感情の入る余地はない。第一号、受付職員ノーラ・ハーヴェイの職務適格」
彼は一枚を取り上げて、読み上げた。
「王立番鑑定院、第七〇二号。ノーラ・ハーヴェイ。獣人と人族の混血。番鑑定、十八歳——該当なし。二十一歳——該当なし」
広間が動いた。音ではない、首の向きだ。獣人の多い部屋で香の話が出ると、みんな一度だけ鼻を上げる。悪気は無い、習い性だ。壁際の何人かがそうして、それからきまり悪そうに目を伏せた。伏せられるほうが、こたえる。
「母、兎の獣人。父、人族。いずれも故人。本人に香は無い」
それから、彼は初めてわたしを見た。
「獣人の職能は匂いで危険を測ることにある。香を持たぬ者が、坑の危険をどう測る」
わたしは、三秒だけ黙った。三秒あれば、たいていのことは呑み込めて、呑み込めないものだけが、そのあと残る。
残った。
広間の後ろで椅子が鳴り、壁の右側、柱一本ぶん離れた場所に灰色の耳が見えて、グレンが動きかけている。わたしは彼のほうを見ずに、手のひらを一度だけ下げた。彼は止まった。止まったのが背中で分かった。この人はわたしの言うことを聞く。それなら、ここはわたしが払う場所だ。
「お答えします」
わたしは一歩前に出た。手には何も持っていないが、数字は覚えているし、覚えていない査定官はいない。
「三年二か月のあいだに、わたしが査定した依頼は二千三百十四件です」
書記の羽根ペンが動いて、二人とも同じ速さで書いている。数字は書きやすくて、書きやすいものは記録に残る。
「そのうち差し止めたのが六十二件。差し止めた依頼のうち、後になって上位個体か落盤が確認されたものが五十八件。……外れたものが四件あります」
「外れた、と」
「はい。四件です。等級を上げたせいで報酬の割りが悪くなって、依頼そのものが流れました。四件ぶん、わたしは冒険者の稼ぎを減らしています。台帳の何頁目かも申し上げられます」
ボルスの指が机を一度叩いた。
「自分の失点を先に出すのか」
「査定票は悪いほうから書きます。良いほうは後から足せますので」
「では答えよ。香の無い者が、なぜ五十八件を当てた」
「匂いで測っていないからです」
広間が静かになった。わたしは自分の声の高さを確かめながら、続けた。喉が渇いていて、渇きを気にすると声が細くなるので、依頼票を読み上げるときの高さに合わせた。
「坑の匂いはその日の風で変わります。獣の気配は、疲れている人ほど強く感じます。わたしはそれを知りません。知らないので記録を読みます。先月の遭遇記録と、隊の年齢と、装備の申告と、入坑の刻限を並べます。並べると、危ない依頼はいつも同じ形をしています」
「紙の話だ」
「はい。紙の話です」
わたしは息を吸った。
「わたしは番の該当なしです。香が出ません。ですので匂いで人を選びません。依頼も匂いでは選びません。……欠けているのではなく、そういう作りなのだと、今は思っています」
「思っている、で人が死ぬ」
「ですから記録を出しました。思っていることは票に書きません」
壁際で誰かが低く笑って、笑いは広がらずに消えた。自分の口から出た言葉が、思ったより広間の奥まで届いていた。三年ぶん、わたしは同じことを窓口で小声で言ってきた。番の話は査定票には関係ありません、と。関係ないと言い続けるより、何で測っているかを先に言うほうが早くて、それに気づくのに三年かかった。
書記の羽根ペンが追いついて、それから止まった。二人とも顔を上げて、こちらを見ている。
「支部長」ボルスが顔を向けずに言った。「香を持たぬ者を査定の窓口に置いたのは貴殿の判断か」
「私の判断です」
ヴェンツェル支部長が立つと、窓からの光が頭の上のほうに当たった。
「二十年前、私は匂いで測る隊長でした。よく当たりました。当たらなかった日に、六人が戻りませんでした」
支部長は座った。それだけだった。前庭のほうで、誰かが洟をすする音がした。
広間の隅で灰色の外套が立ち上がった。
「補足してよろしいですか。王立番鑑定院、メリル・アシェです」
「鑑定院の証人は呼んでいない」
「呼ばれておりません。持ってまいりました」
彼女は鑑定簿を胸の高さに掲げると、表紙の紋を外した跡が、こちらからも見えた。
「該当なしの判定は十一年で十七件。うち十四人が鑑定院の東分館へ移され、十一人が院の記録課付になっています。偶然にしては、就いた職が揃いすぎています」
「関係がない」
「関係があるかどうかは本部がお決めになります。わたしは記録をお渡しするだけです」
書記の一人が鑑定簿を受け取ったが、ボルスは止めなかった。止めれば止めた理由を書かれるし、この人が避けているのは書かれることだけだ。
隣でシャノンが小さく言った。
「毛並みだけは立派ね、あの人。中身は台帳と同じで書き換え済み」
「シャノンさん」
「聞こえてないわよ。……あ、耳が動いた。聞こえてたわ」
ボルスは書記のほうへ顎を向けた。
「第一号は保留する。適格の判断は本部が下す。第二号、支部の査定制度の適否に移る」
「はい」
「ハーヴェイ。君の査定が正しいかどうかは支部の依頼台帳で見る。台帳と君の判断が食い違えば、君の判断が誤りだ」
「承知しました」
「私的な手帳は受理しない。昨夜そう通告した」
「はい。出しません。出す必要がありませんので」
ボルスの耳が、初めてわずかに動いた。この人は台帳で勝つつもりだ。台帳は本部の正式な記録で、わたしの手帳は自費で買った革表紙にすぎない。どちらが強いかは、はじめから決まっている。
決まっているから、わたしは台帳のほうで行く。
わたしは扉のほうへ手を上げた。
車輪の軋む音が、広間の端から端まで届いた。




