第26話 番ではありませんが
書式番号 G-11
件名 冒険者登録 身元および緊急連絡
登録者 グレン・ヴォルガード(S級)
連絡先欄 空欄(登録より六年)
六つ。角を曲がった。
扉の右側。柱一本ぶん離れたところに、彼は立っていた。四か月ぶん、この位置は動いていない。
「グレン様」
「グレンでいい」
「グレン様」
わたしは繰り返した。前にもこうやって繰り返したことがあるのは、そうしないと最後まで言えないからだ。
「監査会に、来ないでいただけますか」
彼は包みを持ったまま、下ろさなかった。前は下ろしたが、今日は下ろさない。
「理由を」
「提出者を、わたし一人の名前にします」
わたしは提出書式の第一面を見せた。名前を書く欄は一つしかなく、昨夜、支部長とアシェ様の名を消して、消したところに紙の毛羽が立っている。
「広間にヴォルガードの名が二つ並ぶと、監査会は金の話をやめます。本家の次男が支部の受付に肩入れした、という話になります。そうなれば八人は、金貨十八枚で死んだのではなく、家の揉め事で死んだことにされます」
「それは、あんたの推測か」
「同じことが、もう二度起きています」
わたしは自分の手を見たが、震えていない。事実を並べているあいだは、震えない。
「不服申立てのときも、公開の再鑑定のときもそうでした。査定の中身ではなく、査定官が誰と親しいかが先に書かれました。書かれた瞬間に、査定の話は終わります」
「終わらせない」
「終わります。書く側が決めることですので」
パン屋の窓の灯りが、朝の色に負けはじめていて、前庭にはまだ誰もいない。
「グレン様。わたしは、あなたを巻き込みます」
言い終わってから、息を吸った。
「あなたはご自分の家を敵に回します。八人のご遺族の前にも、立てなくなります。わたしはそれを承知で書類を出す人間です。……ですから、広間の外にいてください」
彼はしばらく黙っていて、それから、包みを受付台の縁に置いて、こちらへ一歩出た。柱から離れるとき、この人はいつも一歩だけ出る。
「黙ってた理由を言う」
「はい」
「三年前、本家へ届けを出した。等級の改定を調べてくれと書いた」
彼の耳が一度だけ動いた。
「返事は分家から来た。触るな、と一行だけだった」
わたしは何も言えなかった。
「そこから先は、俺の家の話だ。あんたに背負わせたくなかった。……三年、それで黙ってた」
「では、なおさら」
「違う」
彼は首を振った。
「三年前、俺は決めなかった。決めたのは隊長だ。俺は票を拾って、引き返しただけだ」
「引き返したのは、あなたの判断です」
「あれは逃げた判断だ」
彼はそう言って、それから、いつもの短さで言い切った。
「今度は俺が決める」
「グレン様」
「巻き込まれるんじゃない。俺が行く」
わたしは提出書式を胸に抱えた。抱えても、抱える理由が薄くなっていくのが分かった。
「……わたしは、番ではありません」
言うつもりのなかった言葉だった。
「あなたに何かを頼める立場ではありません。番の証がありません。獣人の方は香を分けて証にすると聞きました。わたしには分ける香がない。並んで立つ理由が、どこの書式にも無いんです」
彼はわたしを見た。灰色の耳が、まっすぐこちらを向いている。
「番じゃない。選んだんだ」
風が石畳を渡っていった。
わたしはその一文を、頭の中でもう一度並べ直した。番じゃない。選んだんだ。並べ直しても、短くならなかった。三年前の坑口から今朝までの全部が、その後ろに入っている。
「……理由の書けない書式は、通りません」
わたしは言ったが、声が変なところで揺れた。
「そうか」
彼はうなずいて、腰の袋から折り畳んだ紙を出した。ギルドの登録書式で、角がすり切れている。
「その欄、六年空いてた」
G-11、冒険者登録の身元および緊急連絡。第二面のいちばん下に、連絡先を書く欄がある。事故のときに誰へ報せるかを書く欄だ。空欄のまま登録されている冒険者は珍しくなく、身寄りのない人も、家と切れた人もいる。わたしは三年で、その欄が空いた書式を何百枚も受け取ってきた。
「埋める」
彼は受付台に紙を置いて、羽根ペンを取り上げた。
わたしは職員で、書式の受け取りは仕事だから、そこで止めなかった。止めなかったのは、たぶん仕事だからではなかった。
書かれた字は大きくて、罫からはみ出していた。
ノーラ・ハーヴェイ。
わたしは自分の抽斗から職員の身元書を出すと、引受人の欄が空いていて、両親が死んでからずっと空欄で、埋めろと言われたこともなかった。
羽根ペンを受け取るとき、指が一度だけ触れて、それだけだった。
グレン・ヴォルガード。
書いてから、朱印を出した。角がひとつ欠けている。押した。赤が紙に残って、右上の角だけが白く抜けた。
「番ではありませんが」
わたしは言った。
「これで、手続きは通ります」
「ああ」
開門の少し前に、シャノンが板を上げに降りてきた。二枚の書式を見て、それから、受理印を持ってきた。
「はい、受理。二件」
彼女は日付を入れて、印を押した。押してから、ひとつ息を吐いた。
「おめでとう、とは言わないわよ。書類だもの」
「書類です」
「そうよ。……あんた、笑ってるじゃない」
わたしは口を押さえた。押さえたのが遅かったのは、知っている。
九つに、メリルが支部へ来たが、今日は綴りを持っていない。持っているのは院の様式の紙が一枚だけだった。
「ハーヴェイさん。先に申し上げておきます」
彼女は受付台の前に立って、姿勢を正した。
「鑑定は変わりません。あなたに対の候補はない。それは十七人も同じです。院がどれだけ書き換えても、水晶は光りません」
「はい」
「覆せません。わたしにも、あなたにも」
「覆さなくていいです」
わたしは受理済みの二枚を綴じ紐に通した。
「わたしが要るのは、判定ではなく手続きでしたので」
メリルは何か言いかけて、やめた。やめた代わりに、少しだけ頭を下げた。頭を下げるところを、わたしは初めて見た。
その紙を、彼女は受付台に置いた。院の様式で、鑑定士の署名がある。
「監査会に、鑑定院の立会人として出ます。範囲は、わたしが決めます」
昼過ぎ、本部の早馬が来た。
封の印は赤く、周りが二重の輪になっていて、掲示板に貼られたのは一枚きりだった。
監査会。十日後の九つ、当支部一階の広間にて。議長、本部監査官ボルス・ヴォルガード。議題、当支部における依頼査定業務の適否。証拠の提出は前日の夕方まで。
議長の欄を、わたしは二度読んだ。
台帳を書き換えた人が、書き換えを審理する席に座るが、書式のうえでは何も間違っていない。間違っていないから、こちらは紙で行くしかない。
告示の前から動かないでいると、後ろに影が来た。
「十日だな」
「十日です」
わたしは振り返らずに答えた。答えてから、呼び方を変えるのに少し間がいった。
「……グレン」
「ああ」
返事は、いつもと同じ長さだった。
十日後の九つ。その前の夜、この支部の灯りは一つも消えません。




