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番失格の受付嬢ですが、獣人冒険者様が毎朝ギルドへ迎えに来ます  作者: 雪平なずな


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24/30

第24話 迎えに来る理由(後編)

 差し止め票 控

 依頼番号 D-0417

 査定   差し止め

 朱印   右上の角 欠け一箇所


 鏡台を壁から引き離したのは、夜の八つを過ぎてからだった。


 母の形見で、天板に鏡がついていて、裏板は塗りが剥げている。剥げたところの下に、彫った字が出る。子どものころに一度だけ見て、それきり見なかったのは、読めなかったからだ。


 マイカ・ルーン。


 母は五年前に死んだ。兎の獣人で、香が薄い人だった。うちにその話は無く、番の話も鑑定の話も、母は一度もしなかった。父は人族で、そういうものは分からないと言って笑うだけの人だ。


 わたしは名簿の写しを膝に置いて、朝まで座っていた。座っているあいだ、事実を三つ数えた。母は該当なしだった。母は保護預かりになった。母の現況の欄は空白だ。


 空白は、行き先が無いという意味ではなく、書いた人が書けなかったという意味だ。


 六つ。角を曲がった。


 扉の右側。柱一本ぶん離れたところに、グレンが立っていた。


「顔が」


「眠っていません」


 わたしは写しを差し出すと、彼は受け取って、灯りのある側へ紙を傾けた。読む速さが遅くて、読み飛ばさない人の速さだ。


「母の名前です。嫁ぐ前の名前が、鑑定院の名簿にありました」


「該当なし、と書いてある」


「はい。わたしと同じです」


 彼は紙を返さなかった。返す代わりに、二度読んだ。


 それから胸当ての内側に手を入れた。いつかの朝、留め金のあたりまで上がって、そこで止まって、下りた手だ。今度は下りなかった。


 折り畳んだ紙を、彼は受付台の上で開いた。


 四つ折りの跡が深く、紙は一度水を吸って乾いていて、下半分が茶色く変わっている。上半分の罫は読めた。ギルドの差し止め票の様式で、三年ぶん見てきたから、様式は目で分かる。


 署名の欄は落ちていて、墨が滲んで、輪郭も残っていない。


 右下に、朱の印が押してあった。


 印影の右上の角が、ひとつ欠けている。


「これ、あんたのだろう」


 わたしは、三秒だけ黙った。


 三秒あれば、たいていのことは呑み込める。呑み込めないものだけが、そのあと残る。


「……日付を、見てもいいですか」


「ああ」


 三年前の三月九日。番号の欄はD-0417。


 三日前の夜に受理簿で見た行と、同じ日付だった。所見は三行。第四層の東側、上位個体の遭遇記録が三件。C等級では退路が確保できない。差し止め相当。書いたのは十八のわたしで、字が今より丸い。


「この票は、わたしが書きました」


「知ってる」


「……押した覚えが無いと、先日は申し上げました。あれは半分だけ本当です」


 わたしは票の下の隅を指した。角の欠けた朱印が、そこにある。


「三月のわたしは見習いで、署名権がありませんでした。中身を書いて、朱印を押して、署名は当時の査定官がしています。規定の第二十二条です。書いた者は問わない、と書いてあります。……先日シャノンにしてもらったのと、同じ形です」


「覚えてないと言ってたな」


「あの春に、同じ形の下書きを何十枚も書きました。一枚ずつは、覚えていません」


「先日うかがったとき、その票はいまどこにあるのかと訊きました。答えていただく前に、鐘が鳴りました」


「ああ」


 彼は紙の端を指で押さえた。押さえただけで、それ以上は触らなかった。


「ずっと持ってた」


「……三年」


「三年だ」


 前庭に人が入ってきて、掲示板の前で足を止めて、また出ていったが、彼はそちらを見なかった。


「話す。長くなる」


「うかがいます」


「三年前、俺は九人の隊にいた。『銀砂』だ。隊長は別にいる。俺は二十五で、A級だった」


 銀砂。三日前に台帳で見た隊名で、今はもう無い隊だと、そのとき備考に書いてあった。


「依頼は第三迷宮の第四層。掲示はD等級だった。報酬は九人で金貨九枚だ」


「申請はCで出ています。この票に、わたしがそう書きました」


 彼はうなずいた。うなずいただけで、そこは流した。流したのではなく、そこを先に説明すると話が止まると思ったのだと、あとで分かった。


「坑口の前で、支部の走りが票を持って降りてきた。息が上がってた。隊長が受け取って、笑って捨てた」


「……なぜ」


「D等級の坑に差し止めが出るか、と言った」


 彼は言葉を切った。切るところが、いつもより短い。


「俺が拾った。三行あった」


「東側、と」


「上位個体の遭遇記録が三件。退路が確保できない。差し止め相当」


 わたしの書いた文だった。三年たっても、自分の書いた並びは分かる。


「合ってた」


 グレンは言った。


「俺は三か月前に第四層で同じものを見てる。背の高さも、爪の幅もだ」


「それで」


「引き返した。俺だけだ」


 彼は一度だけ息を吸って、続けた。


「八人は下へ行った。三日後に第四層の東が落ちた。掘り出したのは支部じゃない。俺だ」


 わたしは受付台の縁を掴んだ。掴まないと、そこに立っていられなかった。


「戻って、この支部に票の控えを見に来た。無かった。依頼そのものが無かった。前と後ろはあって、あいだが無い」


「三年前に、ここへ」


「来た。名前は名乗ってない。あのころは、支部の誰の顔も見えてなかった」


 彼は紙の右下を指した。朱の欠けた角だ。


「署名は落ちてる。読めるのはこれだけだ。角の欠けた印は登録に無い。無いなら、誰かが替えずに使ってるということだ」


「……替えられません。替えると、三年ぶんの控えを出し直すことになるので」


「そうだろうと思った」


 彼はうなずいた。うなずいてから、少し息を吐いた。


「支部を回った。三年で二十一だ。差し止めの控えを見せてもらって、右下だけ見た。角の欠けたものは、どこにも無かった」


「二十一」


「三か月に一度、ここにも来た。ここの三年前の綴には無かったからな。俺は古い紙ばかり見てた」


 二十一という数を、わたしは数え直そうとして、数えられなかった。三年を二十一で割ると、ひと支部あたりひと月半あまりになる。冒険者が依頼を受けずに移動する日数を、わたしは計算する立場にいたことがない。


 この人はそのあいだ、S級になっている。三か月に一度この支部に来て、そのたびに完了報告書を過不足なく出していった。訊く前に遭遇記録が書き込んである、そんな報告書だった。わたしはそれを受け取って、綴じて、名前を覚えないまま三年ぶん綴じ続けた。


「見つけたのは」


「あんたが鑑定に呼ばれる、前の日だ」


 彼は前庭の掲示板のほうへ、顎を向けた。


「そこに一枚貼ってあった。差し止めの告示だ。右下の角が欠けてた」


 風が来て、石畳の上を、昨日の砂が薄く動いた。


「翌日、あんたが鑑定に行くと聞いた。夜まで待った。窓口が閉まってたから、外で待った」


 わたしは口を開いて、それから閉じた。開いたときに出そうになったのは、質問ではなく別のものだった。


「三年、探した」


 彼は言った。声は張らなかったが、張らなくても届く距離だった。


「見つけたから、迎えに来た」


 番の話は、そこに一度も出てこなかった。


 あの夜この人が理由を言わなかったのは、言えなかったからだ。言えば、わたしが自分の書いた票のことを知る。知れば、八人のことも知る。


「グレン様」


「グレンでいい」


「わたしは、あなたを助けていません」


 わたしは言った。事実を並べるときの声にした。並べているあいだは、震えない。


「わたしは票を書いただけです。あの日、わたしは坑口に行っていません。走りの人に渡して、それきりでした。あなたが引き返したのは、あなたが読んだからです」


「知ってる」


「では」


「それでも、読むものが無ければ引き返せない」


 彼はわたしを見た。灰色の耳が、まっすぐこちらを向いている。


「あんたが書いたから、俺はここにいる」


 わたしは受付台の縁から手を離した。離しても、立っていられた。


 開門まで、まだ四半刻あって、前庭には誰もいない。三年前のあの日も、たぶんこのくらいの時刻に、わたしは票を書いて、走りの人に渡した。渡した相手の顔を覚えていない。覚えていないところへ、この人はずっと立っていた。


 そこまで考えて、一つ残った。


「グレン様。三年前の綴のことは、いつ気づかれましたか」


「見た日に気づいた」


「三年前ですね」


「ああ」


 わたしは彼の顔を見た。


「では、なぜ黙っていたんですか」


 彼は答えなかった。


 答えないと決めている顔ではなく、これまで何十回も見てきた、言わないと決めた顔とも違う。耳が半分だけ寝ていて、尻尾が動いていない。この人の尻尾は、本人だけが気づかないくらい正直に動く。


 動かないところを、わたしは初めて見た。

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