第24話 迎えに来る理由(後編)
差し止め票 控
依頼番号 D-0417
査定 差し止め
朱印 右上の角 欠け一箇所
鏡台を壁から引き離したのは、夜の八つを過ぎてからだった。
母の形見で、天板に鏡がついていて、裏板は塗りが剥げている。剥げたところの下に、彫った字が出る。子どものころに一度だけ見て、それきり見なかったのは、読めなかったからだ。
マイカ・ルーン。
母は五年前に死んだ。兎の獣人で、香が薄い人だった。うちにその話は無く、番の話も鑑定の話も、母は一度もしなかった。父は人族で、そういうものは分からないと言って笑うだけの人だ。
わたしは名簿の写しを膝に置いて、朝まで座っていた。座っているあいだ、事実を三つ数えた。母は該当なしだった。母は保護預かりになった。母の現況の欄は空白だ。
空白は、行き先が無いという意味ではなく、書いた人が書けなかったという意味だ。
六つ。角を曲がった。
扉の右側。柱一本ぶん離れたところに、グレンが立っていた。
「顔が」
「眠っていません」
わたしは写しを差し出すと、彼は受け取って、灯りのある側へ紙を傾けた。読む速さが遅くて、読み飛ばさない人の速さだ。
「母の名前です。嫁ぐ前の名前が、鑑定院の名簿にありました」
「該当なし、と書いてある」
「はい。わたしと同じです」
彼は紙を返さなかった。返す代わりに、二度読んだ。
それから胸当ての内側に手を入れた。いつかの朝、留め金のあたりまで上がって、そこで止まって、下りた手だ。今度は下りなかった。
折り畳んだ紙を、彼は受付台の上で開いた。
四つ折りの跡が深く、紙は一度水を吸って乾いていて、下半分が茶色く変わっている。上半分の罫は読めた。ギルドの差し止め票の様式で、三年ぶん見てきたから、様式は目で分かる。
署名の欄は落ちていて、墨が滲んで、輪郭も残っていない。
右下に、朱の印が押してあった。
印影の右上の角が、ひとつ欠けている。
「これ、あんたのだろう」
わたしは、三秒だけ黙った。
三秒あれば、たいていのことは呑み込める。呑み込めないものだけが、そのあと残る。
「……日付を、見てもいいですか」
「ああ」
三年前の三月九日。番号の欄はD-0417。
三日前の夜に受理簿で見た行と、同じ日付だった。所見は三行。第四層の東側、上位個体の遭遇記録が三件。C等級では退路が確保できない。差し止め相当。書いたのは十八のわたしで、字が今より丸い。
「この票は、わたしが書きました」
「知ってる」
「……押した覚えが無いと、先日は申し上げました。あれは半分だけ本当です」
わたしは票の下の隅を指した。角の欠けた朱印が、そこにある。
「三月のわたしは見習いで、署名権がありませんでした。中身を書いて、朱印を押して、署名は当時の査定官がしています。規定の第二十二条です。書いた者は問わない、と書いてあります。……先日シャノンにしてもらったのと、同じ形です」
「覚えてないと言ってたな」
「あの春に、同じ形の下書きを何十枚も書きました。一枚ずつは、覚えていません」
「先日うかがったとき、その票はいまどこにあるのかと訊きました。答えていただく前に、鐘が鳴りました」
「ああ」
彼は紙の端を指で押さえた。押さえただけで、それ以上は触らなかった。
「ずっと持ってた」
「……三年」
「三年だ」
前庭に人が入ってきて、掲示板の前で足を止めて、また出ていったが、彼はそちらを見なかった。
「話す。長くなる」
「うかがいます」
「三年前、俺は九人の隊にいた。『銀砂』だ。隊長は別にいる。俺は二十五で、A級だった」
銀砂。三日前に台帳で見た隊名で、今はもう無い隊だと、そのとき備考に書いてあった。
「依頼は第三迷宮の第四層。掲示はD等級だった。報酬は九人で金貨九枚だ」
「申請はCで出ています。この票に、わたしがそう書きました」
彼はうなずいた。うなずいただけで、そこは流した。流したのではなく、そこを先に説明すると話が止まると思ったのだと、あとで分かった。
「坑口の前で、支部の走りが票を持って降りてきた。息が上がってた。隊長が受け取って、笑って捨てた」
「……なぜ」
「D等級の坑に差し止めが出るか、と言った」
彼は言葉を切った。切るところが、いつもより短い。
「俺が拾った。三行あった」
「東側、と」
「上位個体の遭遇記録が三件。退路が確保できない。差し止め相当」
わたしの書いた文だった。三年たっても、自分の書いた並びは分かる。
「合ってた」
グレンは言った。
「俺は三か月前に第四層で同じものを見てる。背の高さも、爪の幅もだ」
「それで」
「引き返した。俺だけだ」
彼は一度だけ息を吸って、続けた。
「八人は下へ行った。三日後に第四層の東が落ちた。掘り出したのは支部じゃない。俺だ」
わたしは受付台の縁を掴んだ。掴まないと、そこに立っていられなかった。
「戻って、この支部に票の控えを見に来た。無かった。依頼そのものが無かった。前と後ろはあって、あいだが無い」
「三年前に、ここへ」
「来た。名前は名乗ってない。あのころは、支部の誰の顔も見えてなかった」
彼は紙の右下を指した。朱の欠けた角だ。
「署名は落ちてる。読めるのはこれだけだ。角の欠けた印は登録に無い。無いなら、誰かが替えずに使ってるということだ」
「……替えられません。替えると、三年ぶんの控えを出し直すことになるので」
「そうだろうと思った」
彼はうなずいた。うなずいてから、少し息を吐いた。
「支部を回った。三年で二十一だ。差し止めの控えを見せてもらって、右下だけ見た。角の欠けたものは、どこにも無かった」
「二十一」
「三か月に一度、ここにも来た。ここの三年前の綴には無かったからな。俺は古い紙ばかり見てた」
二十一という数を、わたしは数え直そうとして、数えられなかった。三年を二十一で割ると、ひと支部あたりひと月半あまりになる。冒険者が依頼を受けずに移動する日数を、わたしは計算する立場にいたことがない。
この人はそのあいだ、S級になっている。三か月に一度この支部に来て、そのたびに完了報告書を過不足なく出していった。訊く前に遭遇記録が書き込んである、そんな報告書だった。わたしはそれを受け取って、綴じて、名前を覚えないまま三年ぶん綴じ続けた。
「見つけたのは」
「あんたが鑑定に呼ばれる、前の日だ」
彼は前庭の掲示板のほうへ、顎を向けた。
「そこに一枚貼ってあった。差し止めの告示だ。右下の角が欠けてた」
風が来て、石畳の上を、昨日の砂が薄く動いた。
「翌日、あんたが鑑定に行くと聞いた。夜まで待った。窓口が閉まってたから、外で待った」
わたしは口を開いて、それから閉じた。開いたときに出そうになったのは、質問ではなく別のものだった。
「三年、探した」
彼は言った。声は張らなかったが、張らなくても届く距離だった。
「見つけたから、迎えに来た」
番の話は、そこに一度も出てこなかった。
あの夜この人が理由を言わなかったのは、言えなかったからだ。言えば、わたしが自分の書いた票のことを知る。知れば、八人のことも知る。
「グレン様」
「グレンでいい」
「わたしは、あなたを助けていません」
わたしは言った。事実を並べるときの声にした。並べているあいだは、震えない。
「わたしは票を書いただけです。あの日、わたしは坑口に行っていません。走りの人に渡して、それきりでした。あなたが引き返したのは、あなたが読んだからです」
「知ってる」
「では」
「それでも、読むものが無ければ引き返せない」
彼はわたしを見た。灰色の耳が、まっすぐこちらを向いている。
「あんたが書いたから、俺はここにいる」
わたしは受付台の縁から手を離した。離しても、立っていられた。
開門まで、まだ四半刻あって、前庭には誰もいない。三年前のあの日も、たぶんこのくらいの時刻に、わたしは票を書いて、走りの人に渡した。渡した相手の顔を覚えていない。覚えていないところへ、この人はずっと立っていた。
そこまで考えて、一つ残った。
「グレン様。三年前の綴のことは、いつ気づかれましたか」
「見た日に気づいた」
「三年前ですね」
「ああ」
わたしは彼の顔を見た。
「では、なぜ黙っていたんですか」
彼は答えなかった。
答えないと決めている顔ではなく、これまで何十回も見てきた、言わないと決めた顔とも違う。耳が半分だけ寝ていて、尻尾が動いていない。この人の尻尾は、本人だけが気づかないくらい正直に動く。
動かないところを、わたしは初めて見た。




