第22話 鑑定士の鑑定簿
依頼番号 D-1231
依頼名 第三迷宮 第四層の再測量および記録
査定 差し止め(本日受理)
署名 受付第二席 シャノン・ルー
白い袖は、昼を過ぎた前庭に立っていた。
王立番鑑定院の制服で、裾に銀の縫い取りがあるが、供はいない。院の紋を立てた馬車も、朱肉の器を捧げ持つ従者も、いない。メリル・アシェは石畳の上にひとりで立って、両腕で厚い綴りを抱えていた。落とすまいとする抱え方だった。
前庭の隅に、まだグレンがいた。
扉の右側。柱一本ぶん離れたところ。今朝わたしの票が出るまで動かないと言って、そのまま動いていない。票はもう出たのに、それでもまだそこにいる。彼が見ているのは、メリルではなく、わたしの手元だった。
「ハーヴェイさん。四半刻だけいただけますか」
「査定のことでしたら、わたしに権限はありません」
「査定の話ではありません」
彼女は綴りを胸の前で持ち直した。表紙に院の印がないから、私物だ。
「鑑定の話です」
二階の資料室を借りた。窓が小さくて、昼でも灯りが要る。ヴェンツェル支部長は鍵だけ渡して、何も訊かなかった。訊かないことで、この人は二十年やってきた。
メリルは机に綴りを置いたが、まだ開かない。
「先に申し上げます。謝りに来たのではありません」
「はい」
「謝れば、鑑定が誤りだったことになります。鑑定は誤っていません。あなたに対の候補はない。測ったとおりです」
「存じています」
わたしは椅子に座った。座ってから、手帳を出そうとしている自分に、気づいた。査定権を止められた人間の手帳には、もう埋める欄がない。それでも、手が動く。三年で体が覚えたことは、資格が消えても、消えない。
メリルが綴りを開いた。
罫の引かれた紙に、日付と、番号と、名前が並んでいるが、院の記録様式ではなかった。列の幅が揃っていないから、誰かが自分のために引いた罫だ。
「わたしが鑑定士になって十一年です。この綴りには十七人います」
「十七」
「十六人はわたしが測りました。いちばん下の一人だけ、わたしが測る前の人です」
わたしは行を数えた。十七行あって、年ごとに散っている。三件ある年もあれば、一件もない年もあった。
「十八人目が、あなたです」
「院の公表では、該当なしは千人にひとりほどだと」
「公表は千人にひとりです。実数は、五千人にひとりもいません」
彼女は行の端を指した。名前の右に、小さな符号が打ってある。丸の中に横棒を一本引いた印で、十七行のどれにも、同じものが打ってあった。
「院の様式にない印です。わたしが打ちました」
「意味をうかがえますか」
「鑑定は二度光らせます。一度目は本人の香。二度目は対の候補の香を返して、反応を見ます。該当なしの人は一度目が光りません。ですがこの十七人は、二度目も光らなかった」
わたしが息を止めたのは、壇の上に立たされた日のことを思い出したからではない。水晶に手を当てて、二度目のとき自分が何も感じなかったことを、思い出したからだ。あのとき広間の誰もが、わたしが恥じ入るのを、待っていた。待たれている意味が、わたしには分からなかった。
「……他人の香に反応しない、ということですか」
「惑わされない、と言い換えてもかまいません」
メリルは指を離した。
「院ではこれを欠損と呼びます。わたしは十一年、そう呼べませんでした」
わたしは十七行を上から読んだ。名前。年齢。出た町か支部の名。
いちばん下の行だけ、日付が古かった。十八年前で、字も違い、この一行だけは写しだ。
アシェ、と書いてある。
「エルナ・アシェ。十九歳」
メリルが言った。声の高さは変わらないが、変えないようにしているのだと、分かった。
「わたしの姉です」
灯りが一度だけゆれた。
「姉は鑑定の翌月に、院の保護預かりになりました。手紙が三通来て、それきりです。父は二度問い合わせて、二度とも門の前で追い返されました」
「それで、鑑定士に」
「外から七年探して、何も出ませんでした。ですから内側に入りました。内側からなら、名簿が見られます」
爪の先が白くなっているのは、紙を押さえる力が強すぎるからだ。
「見られました。十一年見て、十六人ぶん増えました。姉がどこにいるかは、どこにも書いてありません」
わたしはその言葉を呑み込まなかった。呑み込まずに、置いておくことにした。
「アシェ様」
「はい」
「あなたはわたしを壇に上げました」
「上げました」
「大勢の前で、もう一度測りました」
「測りました」
メリルは目を伏せなかった。伏せたほうが楽だっただろうと、思う。
「あなたを見世物にすれば、院は満足します。満足しているあいだ、わたしは名簿を見ていられる。……そういう十一年でした」
「許してはいません」
「結構です」
わたしは綴りを自分のほうへ回した。
「ですが、これは読みます」
「もう一つ申し上げます」メリルは膝の上で手を重ねた。「先日わたしは、鑑定に関わりのない依頼の認可に、署名させられました。範囲は私が決める、と言われて」
「監査官ですね」
「あの方が本部で何をなさる方なのか、院では誰も口にしません。口にしないのに、寄進の受入簿には毎月あの名が出ます」
わたしは十七行の右端に目を戻した。細い欄があって、「転出」とだけ書かれている。十七行のうち十四行に、その文字が入っていて、行き先の記載はなく、日付だけがある。
鑑定の翌月。翌々月。いちばん短い人で、九日後だ。
「転出先は、院の記録では追えません。わたしの権限で見られるのは、ここまでです」
「支部の台帳なら追えます」
わたしは言った。言ってから、自分の声が事務の声に戻っているのに、気づいた。
「冒険者でなくても、町を出れば通行の記録が残ります。荷が動けば、運送の依頼票が出ます。人は消えません。紙が消えるだけです」
メリルが顔を上げた。
この人が驚いた顔をするのを、わたしは初めて見た。壇の上でわたしを測ったときも、この人の顔は最初から最後まで動かなかった。動かないのが仕事なのだと、そのときは思っていた。動かさない訓練を十一年したのだと、今なら分かる。
階下に降りると、シャノンが列をふたりぶんこちらへ流してから、こちらを見ずに言った。
「あの白い袖、追い返さなくてよかったの」
「はい」
「ふうん。あたしなら爪を出すけど」
「出していないじゃないですか」
「出してるわよ。中でね」
彼女は次の客を呼んだ。呼びながら、わたしの腕の中の綴りを、ちらりと見た。
「で、それ何なの」
「名前です。十七人ぶんの」
「……あんたのは」
「十八人目だそうです」
シャノンは何か言いかけて、やめた。やめた代わりに、列をもう一人こちらから引き取った。
前庭へ出ると、扉の右側の柱一本ぶん離れたところに、まだグレンが立っていた。
「終わったか」
「まだです」
わたしは綴りを抱え直した。表紙が冷たい。
「十七人が、どこにも着いていません」




