第20話 迎えに来る理由(前編)
依頼番号 D-0417
依頼名 (依頼綴に該当なし)
申請等級 (依頼綴に該当なし)
備考 三年前三月 前後は連番 この一枚だけが無い
受理簿は、受付の管理だ。
監査官が封をしたのは査定の綴りと、わたしの引き出しだけで、受理簿は査定の書類ではない。誰がいつ何番の紙を持ってきたか、それだけを順に書く帳面で、受付の見習いが一日目に持たされる仕事でもある。
夜の八つを過ぎて、わたしは三年前の受理簿を書庫から出した。
三月の頁を開く。字が丸くて、当時のわたしの字だ。十八で、査定の権限はまだ無くて、番号を振ることと湯を沸かすことしか任されていなかった。
三月九日の行に、D-0417があった。
依頼名の欄は「第三迷宮 第四層」。等級の欄はC。
申請者の欄だけが黒い。
わたしは灯りを近づけた。塗り潰してあって、下の字を消すのではなく、上から墨を重ねてある。指でこすると、墨が少し粉になった。ギルドの備品の墨は乾くと、こうならない。
同じ塗り方を、わたしは一度だけ見たことがある。職員台帳の、シャノンの前職の欄だ。
書庫の扉が開いて、ドナー様が湯呑みを持って入ってきた。
「灯りが点いとると思ったら」
「受理簿をお借りしています」
「受理簿か」彼は頁を覗いて、それから背を伸ばした。「……そこは、見んほうがええ」
「三年前の三月九日です」
「知っとる」
「申請者の欄が塗ってあります。誰の墨ですか」
「わしのではない」
彼は湯呑みを机の端に置いた。置き方が、この前と同じだった。
「本部の記録係が来た年に、わしは十日ほど休みをもらった。二十年で一度きりの休みだ。帰ってきたら、棚がきれいに並んどった」
「その十日を、覚えていらっしゃいますか」
「覚えとらん、と言うつもりだった」
彼は扉のところで立ち止まった。
「四月の一日から十日だ。あんたが査定を任された最初の日と、始まりが同じ日だよ」
受理簿にはある。依頼綴には無い。
三年前の三月九日に、この支部はD-0417を確かに受け取っている。そのあとで綴じ直しが入って、紙のほうだけが抜けた。抜いた人は受理簿まで消さなかった。受理簿は受付のもので、査定の書類ではないからだ。
わたしは自分の手帳を横に置いた。
一頁目は三年前の四月一日、査定を任された最初の日だ。三月は無く、三年間ずっと惜しいと思ってきたひと月が、そこだけ空いている。
最後に朱印を出した。
角がひとつ欠けている。三年前に落として、それきり替えていない朱印だ。落としたのは石畳の上で、拾ったときには角が無かった。あのころは新しいものを買う金が無くて、そのうち欠けたままのほうが押し跡で見分けがつくと気づいて、それきりになった。
落としたのが何月だったかは、覚えている。
三月だ。まだ寒くて、指がかじかんでいた。
翌朝、わたしは四半刻早く家を出た。
通りはまだ薄く、パン屋の窓に灯りがついていて、石畳が夜のあいだの湿りを残している。角を曲がれば、ギルドの扉が見える。
いた。扉の右側。柱一本ぶんだけ離れた位置。
わたしは足を止める前に、決めていたことを口にした。
「グレン様。もう、来なくていいです」
彼の耳がこちらを向いた。それだけで、他はどこも動かなかった。
「二階から前庭がよく見えます。あなたが毎朝ここに立っていることは、監査官にとうに知られています」
「知ってる」
「あの方はあなたの身内です。わたしは査定権を止められました。次は職を止められます。そのとき名簿にヴォルガードの名字が並んでいたら」
「家はどうでもいい」
「よくありません」
声が大きくなった。朝の通りで大きな声を出すのは、生まれて何度目かのことだった。
「わたしは、あなたが理由を言わないままそこに立っているのを、これ以上どう扱えばいいのか分かりません。同情なら要りません。番の勘なら、わたしには香がないので当たりません」
「同情じゃない」
「では何ですか。三年前に何かあったのなら」
そこで止めた。止めたのに、続きが口から出た。
「——教えてください」
彼はしばらく黙っていて、それから胸当ての留め金に手をかけた。
留め金だけが銀に光る、使い込んだ革の胸当てだ。彼はそれを外して片手に持ち、下の肩当ての紐をゆるめて、左の肩を出した。
白い線が三本あった。
坑口で見たときは、灯りが下からだったので、影しか分からなかった。朝の光で見ると、線の始まりが肩の上で、終わりが鎖骨の手前まで来ている。皮膚が引き攣れて、腕が上がらない理由がそのまま形になっていた。
線の間隔は人の指の幅で、掴んだ手が、岩ごと下がった跡だ。
「三年前だ」
彼は言った。
「第三迷宮。三月九日」
わたしの手が、胸元の紙を探した。折った写しが、そこにある。
「……日付を、覚えていらっしゃるんですか」
「毎年ある日だ」
「依頼番号は、D-0417ですか」
「番号は知らない」
「では、なぜ日付を」
「入った日だからだ」
「あの日、あなたは隊にいらしたんですか」
「いた」
「何人ですか」
「九人」
「戻られたのは」
「一人だ」
通りの向こうでパン屋の戸が開いて、誰かが桶を置く音がした。世界のほうは普通に朝をやっている。
「グレン様。その日の依頼票は、支部に残っていません。綴りから抜かれています」
「票なら見た」
「……何を、ですか」
「差し止め票だ」
彼は肩当ての紐を結び直したが、結ぶ手はこちらを見ていない。
「あの坑に、差し止めと書いた紙が一枚あった。等級はCで申請されてて、Bが妥当だと書いてあった。押してある朱印の角が一つ欠けてた。右の上だ」
わたしは自分の鞄の口を、気づかないうちに押さえていた。
その中に朱印がある。角がひとつ欠けていて、三年前に落として、それきり替えていない。
欠けの位置を人に言ったことは一度もないが、押した票なら何百枚も出している。けれど票は綴じられて、資料室の奥へ入って、そのまま誰の目にも触れなくなる。三年前の分は、その資料室からも消えている。
「……どうして、知っているんですか」
「見たからだ」
「どこで見たんですか」
「言えない。今は」
「グレン様」
「言えば、あんたが動く」
「動きます。どちらにしても動きます」
「知ってる」
「では、なぜ止めるんですか」
「順番がある」
彼はそこで初めてこちらを見て、灰色の耳がまっすぐこちらを向いている。
「三年、探してた。角の欠けた印を押す奴を」
「……三年前のわたしは、査定官ではありませんでした」
「そうか」
「印は持っていました。押していいのは受理の判までです。差し止め票に押す権限はありません」
「押したんだろう」
「押した覚えが、ありません」
彼は否定しなかったし、肯定もしなかった。ただ、こちらの手元を見ていた。
わたしは扉の鍵を持ったまま、動けずにいた。
三年前のわたしは十八で、見習いで、坑口を見たこともなくて、上の階の誰にも顔を知られていなかった。査定の権限はまだ無かった。無かったのに、その年の三月、わたしの朱印を押した紙が坑の中にあったことになる。
誰が持って入ったのかを、わたしはまだ訊いていない。
「グレン様。その票は、いま」
六つ半の鐘が鳴った。
開門の鐘だ。三年間、一日も違わずに聞いてきた音が、その朝だけ、やけに遠くで鳴った。




