第19話 猫は爪を隠さない
依頼番号 D-1220
依頼名 街道の獣害調査
申請等級 E
受付 第二窓口 シャノン・ルー
辞表というものは、書き出しに三種類あるらしい。
わたしは第三窓口の受理簿の裏に三つとも書いて、三つとも消した。四つ目を書いていたら、頭の上から手が伸びてきて、紙を持っていかれた。
「何これ」
「返してください」
「一身上の都合により、ねえ」
シャノンは片手で紙を持ち上げて、もう片方の手で自分の耳の先を掻いた。黒い先が動く。
「あんた、辞めてどうすんの。査定官の求人ってどこかに貼ってあった?」
「……ありません」
「でしょうね。三十年に一件くらいよ」
彼女は紙を四つに裂いて、自分の窓口の屑籠に捨てた。裂き方が上手だった。
「あの熊が票を裂いたときは糊で貼ったのに、自分の辞表は裂かれても平気なわけ」
「あれは記録です。これは、ただの」
「ただの、何」
わたしは答えられなかった。答えを持っていないほうが多い日が、続いている。
その日の午後、二階へ呼ばれた職員は三人だった。会計係と、備品係と、シャノン。
シャノンは半刻で下りてきて、第二窓口に座って、いつもどおりの速さで書類を捌きながら、小声で言った。
「経歴の照会だって。採用は七年前ですね、前職の欄が黒く塗ってありますね、って」
「なんとお答えに」
「墨をこぼしましたって言ったわ」
「通りましたか」
「通るわけないでしょ」
彼女は羽根ペンを置いた。
「身元保証人の欄、あたし自分の名前を書いたのよ。七年前に。他に書ける名前が一つも無かったから」
「存じています。職員台帳の管理は受付の仕事ですので」
「知ってて黙ってたわけ」
「訊いていないことは、書きません」
シャノンは少しのあいだこちらを見て、それから鼻を鳴らした。鼻の鳴らし方が、いつもより短かった。
「あの人ね、婚家からの照会が二度出てるって言ったの。あたしがここに来たあとよ。ギルドが二度とも握り潰してる、って」
「握り潰したのは支部長です」
「知ってるわよ。だから腹が立つの。二十年謝ってきた人が、そういうときだけ黙るんだから」
彼女は次の申請票を取った。取ってから、手が止まった。
「照会がまだ生きてるって言われたわ。生きてるうちは、身分は先方にあるって」
「それは婚姻の届の話です。職員の資格とは別の綴りです」
「別でも、同じ人が両方の綴りを見てるのよ」
午後の窓口には、E等級ばかりが並んだ。
「側溝の駆除、また出たんだけど」
「三番通りの町内会ですね。今月で三度目です」
「三度目って、ちゃんと駆除できてんのか」
「駆除はできています。増えるのが早いだけです」
「そりゃ駆除って言わねえだろ」
「言います。等級の話ですので」
列が少し笑った。笑いが起きるのは、この窓口では久しぶりだった。受理しかできない窓口でも、受理の数は減らない。減ったのは判のほうだけだ。
閉門は夕方の六つ。
その日はシャノンが最後まで残った。わたしが灯りを落として回っていると、彼女は第三窓口の前にしゃがんでいた。封紙を貼られた引き出しの前だ。
「何をしているんですか」
「見れば分かるでしょ」
「分かるので訊いています」
彼女は右手の爪を一本だけ出して、封紙の端に当てた。糊のついていない縁を、紙の繊維に沿ってすっと起こしていく。爪が薄く紙を持ち上げて、赤い印には触れないまま、封が輪郭ごと外れた。
「猫は爪を隠さないのよ。隠すと面倒だから」
「シャノンさん。それは監査中の」
「知ってる。あんたの手帳、ギルドの備品じゃないでしょ」
引き出しが開いて、革の表紙と、その下の朱印が見えた。三年ぶんの控えで、角が擦れて丸くなっている。
「私物を私物の持ち主に返すのは職務よ。あたし、受付だもの」
わたしは両手で受け取った。受け取ってから、手が震えていることに気がついた。
「……あなたの資格が危うくなります」
「あたしの資格って何。受付第二席。給金は銀貨で八枚。危ういも何も、最初から大したもの持ってないわ」
「署名権があります」
彼女の耳が、ぴくりと動いた。
「よく知ってるわね」
「半月ほど前から、わたしの査定票には二人目の署名が要ります。書いてくださっているのはあなたです」
「するのが正しいって顔はしないって、言ったでしょ」
「顔は見ていません。名前だけ見ています」
シャノンは封紙を元の位置に戻して、指の腹で押さえた。皺一つなく、あとで見ても、剥がした跡は分からないだろう。彼女は手を洗ってくると言って、そのまま井戸のほうへ出ていった。
わたしは手帳を開いた。
一頁目の日付は三年前の四月一日、査定を任された最初の日で、それより前の記録は一行も無い。三月は空いていて、ずっと惜しいと思ってきた一か月だ。
四月からの三年ぶんはあるので、書庫で写した三十件の一覧と突き合わせた。
D-0431。第三迷宮、第二層、B申請。わたしの控えではBのまま。公式の綴ではCに直っている。
D-0508。第三迷宮、第三層、B申請。控えはB。綴はC。
二件、三件、四件。手が止まらなくなった。十二件目まで来たところで、灯りの油が切れかけて、わたしは芯を出し直した。
控えと綴が食い違うたびに、そこで誰かが安く坑へ入っている。等級が一段下がれば、人数も装備も一段下がる。下がった隊がどうなるかは、三年ぶんの遭遇記録のほうに書いてある。
シャノンが戻ってきて、手が濡れたままだった。
「まだやってんの」
「十二件まで出ました」
「それ、出たら何になるの」
「まだ何にもなりません。並べただけです」
「並べて何になるのって訊いてるのよ」
彼女は濡れた手を振って、それから指の先で頁の端を押さえた。
「これ、去年の春でしょ。あたし、この依頼の受理をやったわ。Cで受けたのよ」
「控えではBです」
「……あたしが受けたときには、もうCだったってこと」
「はい」
シャノンは黙った。黙ったときだけ気にしなさいと、この人はいつか言った。
「あたし、三人送り出してるわ。その等級で」
「戻ってこられましたか」
「二人はね」
わたしは一覧を閉じた。数字は誰が読んでも、同じものになる。同じにならないのは、その数字の下で誰が坑へ入ったかのほうだ。シャノンの窓口の受理簿には、その人たちの名前が順番に並んでいて、並べ替えることも消すこともできない形で残っている。
外から足音がして、朝ではないのに、扉の右側に人が立っていた。柱一本ぶん離れた位置。手には包みが二つある。
「一つ多いですね」
「隣の窓口の猫にやってくれ」
「……ご自分で渡されないんですか」
「怖い」
わたしは声を出して笑った。笑ってから、この十日で初めて笑ったことに気がついた。
グレンは何も言わずに、立っていた。この人はいつも、こちらが笑い終わるまで待つ。
「グレン様。三年ぶんの控えが戻りました」
「そうか」
「書き換えられた等級が、十二件まで分かりました。まだ増えます」
「増やせ」
短い返事だった。短いのに、その日いちばん長く効いた。
翌朝、二階から従者が下りてきて、第二窓口の前で足を止めた。
「シャノン・ルー。監査官がお呼びです。職員資格の照会について」
シャノンは羽根ペンを置いて、耳の先を一度だけ払った。
「はいはい。二度目ですけど」
「三度目です」
「数えてんじゃないわよ」
立ち上がるとき、彼女はわたしのほうを見なかった。見なかったのが、たぶん助けだった。




