第2話 朝の窓口には先客がいます
依頼番号 D-1132
依頼名 第三迷宮 第四層までの踏破および記録
申請等級 C
申請者 「鉄爪」ガルド・ベルン
わたしは四半刻早く家を出た。通りはまだ薄暗く、パン屋の窓に灯りがついていて、石畳が夜のあいだの湿りを残している。角を曲がれば、ギルドの扉が見える。
誰もいない扉を見て、それで終わりにする。そう決めていた。
角を曲がった。
いた。
扉の右側、柱一本ぶんだけ離れたところ。昨夜と同じ位置に、灰色の狼獣人が立っていた。
わたしは足を止めた。止めてから、止めたことを気づかれたと思ったのは、彼の耳がこちらを向いていたからだ。
「早いな」
「……グレン様こそ」
「グレンでいい」
彼は柱から離れない。近づいてもこない。片手に布の包みを持っていて、それを持て余しているように見えた。
「なぜ、いらっしゃるんですか」
「迎えに来ると言った」
「理由をうかがっています」
「言わない」
わたしは黙った。彼も黙った。パン屋の窓から灯りが漏れて、石畳に細長い形を落としている。その形が少しずつ短くなっていくのは、朝が来ているということだ。
「……開けます。仕事がありますので」
「ああ」
鍵を回して、扉を押した。冷えた空気が中から出てくる。受付台の上に、昨日の閉店後に積まれた申請票の束が、待っていた。
振り返ると、彼はまだ柱のところにいた。
「入られないんですか」
「開店前だろう」
わたしは扉を押さえたまま、少しのあいだ、その言葉の意味を考えた。
S級冒険者が開店前の窓口に来るのは、珍しいことではなく、むしろ普通だ。急ぎの依頼があると言って、まだ灯りも入れていない受付台に肘をつく人を、わたしは何十人と見てきた。
この人は、そうしない。
「これ」
彼が包みを差し出し、わたしは受け取った。まだ温かい。開くと、胡桃の焼き菓子が二つ入っていた。
喉のあたりが妙な具合になって、わたしは息をひとつ吸ってから、頭を下げた。
「ありがとうございます。……いただきます」
「ああ」
彼はうなずいて、それきり行ってしまった。長剣は昨夜と同じで、鞘に入ったままだった。
六つ半。開門。
窓口を開けると、朝の列はいつもどおり短い。冒険者は朝が遅いので、この時間に来るのは、真面目な連中か、金に困っている連中のどちらかだ。
「ノーラ、聞いたわよ」
隣の窓口から声がした。シャノン。猫の獣人で、わたしより三つ上で、耳の先が黒い。
「何をですか」
「鑑定院。該当なしですって?」
「はい」
「ふうん」
シャノンは頬杖をついて、爪の先を見ている。
「よかったじゃない。うるさい親戚が減るわ」
「……減りませんよ。増えます」
「あら。じゃあ引っ越せば」
彼女はそう言って、列の先頭に並んでいた男を手招きした。わたしの窓口に並ぼうとしていた男だ。
「こっち空いてるわよ、はい次。ええ、そっちは今日、書類が立て込んでるの」
男は不服そうな顔をしたが、シャノンの窓口へ移った。立て込んでなどいない。昨日と同じ量だ。わたしは礼を言わなかった。言うと、否定されるのを知っている。
朝のうちに片づけたのは、三件だった。東街道の護衛が一件、これはD等級のままで通る。街道の獣害調査が一件、これも通る。三件目は、第三層までの採取で、隊の五人のうち二人が、笛を持っていない。笛が無いと、はぐれたときに呼べない。
わたしは差し止めずに、備考へ一行だけ書いた。笛の携行を確認のうえ受理、と。
差し止めは、最後の手だ。押せば、冒険者はその月の稼ぎを失う。だから押す前に、押さずに済む道を探す。三年やっていて、押した回数は六十を少し超えるくらいだった。
九つ。
申請票の束の下から、D-1132が出てきた。紙は新しい。判は「鉄爪」の三本爪、申請等級はC。第三迷宮の第四層まで踏破して、記録を持ち帰る。報酬は金貨十二枚、隊員は六名で、うち二名が今月加入したばかりの新顔だった。
わたしは自分の手帳を開いた。三日前に書いた行が、そこにある。
先月と先々月の遭遇記録に、上位個体の記載が二件。
C等級の依頼で想定される脅威度を、二件とも超えている。想定を超えた場合、想定して装備を組んでいない隊は、退けない。退けない隊は、いちばん経験の浅い者から欠ける。
わたしは公式の記録簿を出して、二件を突き合わせた。合っている。
朱印を出した。角がひとつ欠けているのは、三年前に落として、それきり替えていないからだ。
差し止め。
押した。
そのとき、扉が開いた。
「おい。俺の申請がまだ回ってこねえんだが」
判は要らないはずだ、と思った。夜明けに受理された紙のことを、この人はもう知っている。知っていて、それでも列の前に立っている。
熊の獣人だった。背丈はグレンと同じくらいで、横幅はその倍ある。片耳に金の輪をつけていて、歩くたびに、床が鳴った。
ガルド・ベルン。
「おはようございます。D-1132でしたら、ただいま査定が済みました」
「そりゃありがてえ。判は」
「差し止めです」
ガルドの足が止まって、窓口の前の空気が、少しだけ静かになった。列に並んでいた冒険者たちが、こちらを見ないようにしながら、見ている。
「……もう一遍言え」
「差し止めです。第三迷宮は先月と先々月に、上位個体の遭遇記録が二件あります。C等級の想定を超えていますので、B等級で申請し直していただくか、隊の編成を——」
「番のいない受付嬢の紙切れで、俺の隊が止まると思うか」
わたしは、三秒だけ黙った。
三秒あれば、たいていのことは呑み込める。呑み込めないものだけが、そのあと残る。
「番の話は、査定票には関係ありません」
「関係あるんだよ」
ガルドが受付台に肘をつくと、台が軋んだ。
「香も読めねえ半分が、獣の気配の何を測れる。あんたが測ってんのは紙だ。俺が測ってんのは、坑の中の匂いだよ」
「では、先月の記録を書いた方に、匂いをうかがってください。上位個体二件は、あなたの隊が出した報告です」
ガルドの口の端が下がり、それから彼は、わたしの差し止め票に手を伸ばした。取り上げて、両手で持って、目の高さで裂いた。
二つになった紙が、床に落ちた。
「等級ってのはな、稼げるかどうかで決めるんだよ」
彼は背を向け、金の輪を鳴らして扉から出ていった。
わたしは床にしゃがんで、二枚を拾った。朱印の欠けた角が、ちょうど裂け目の上に来ていた。
「……ノーラ」
シャノンが隣の窓口から、こちらを見ずに言った。
「あの熊、脳みそまで毛皮だと思うのよね。あ、聞こえた? よかった」
わたしは笑わなかった。笑えなかったのではない。裂かれた票の下に、もう一枚あるのを見つけたからだ。
D-1132の副本。副本には、支部長の受理印が押されている。
押されていた。今朝の日付で。
差し止めは、通っていない。




