第1話 該当なし、と札が上がる
鑑定水晶は、わたしの手のひらの下で一度も光らなかった。
広間のざわめきが引いていき、石の台の向こうで王立鑑定院の白い袖が動いて、木札が掲げられた。
該当なし。
そう書かれた札を、わたしは三秒だけ見た。三秒で足りた。等級の判定表と同じで、書かれてしまえば、それが結果だ。
「ハーヴェイさん、次の方が待っていますので」
「はい。失礼しました」
わたしは台から手を離して、頭を下げて、広間を出た。背中で誰かが言った。半分だからだろう、と。誰も声を潜めなかった。
外はもう夕方で、石畳がまだ昼の熱を持っていた。鑑定院の門を抜けて、坂を下れば、四半刻でギルドの通りに出る。
明日は第三迷宮の等級申請が上がってくる。「鉄爪」のガルドが出したやつで、あれは通せない。
——そこまで考えて、少しだけ可笑しくなった。
番の該当なしと言われた日の帰り道に、わたしが考えているのは依頼票のことだ。
可笑しいのに、目の奥が熱くなって、わたしは歩く速度を上げた。
ギルドの前まで来て、足が止まった。
閉めたはずの窓口の、扉の右側、柱一本ぶんだけ離れたところに、大きな影が立っていた。
灰色の狼の耳が、街灯の下でこちらを向く。
背が高い。肩幅が広い。腰の後ろに、鞘に入ったままの長剣が一本。革の胸当ては使い込まれて、留め金のところだけが銀に光っていた。
支部に出入りするS級だ。名前だけは知っている。話したことはない。
グレン・ヴォルガード。
「……グレン・ヴォルガード様? あの、もう受付は終わっていて」
「知ってる」
低い声だったが、それきり黙るので、わたしは次の言葉を探した。三か月に一度くらい、依頼の完了報告に来る人だ。報告書はいつも過不足がなくて、こちらが訊く前に、遭遇記録が書き込まれている。査定する側からすれば、ありがたい冒険者で、それだけの人だった。
「明日でしたら、朝の六つ半から開きます。完了報告でしたら、第二窓口が空いて……」
「用があるのは、あんたに」
わたしは口を閉じた。
彼は柱から離れなかった。近づいてもこない。ただ、耳の向きだけがこちらを外さない。
「今日、鑑定院に行っただろう」
喉の奥が固くなった。
早い。宣告から半刻も経っていない。誰かが坂を駆け下りて、酒場に運んで、笑い話にして、もう街に流れているということだ。
「……はい。該当なしでした」
自分で言った。人から言われるより、自分で言ったほうが、早く終わる。
わたしは頭を下げて、鍵を出そうとした。裏口から入って、明日の依頼票を確かめてから、帰るつもりだった。手が鞄の中で止まった。
「なあ」
「はい」
「あんた、明日も来るのか」
顔を上げたが、なぜそんなことを訊かれるのか、わからなかった。
「行きます。仕事ですから」
「そうか」
彼はうなずいて、それから、こう続けた。
「明日の朝、迎えに来る」
わたしは、三秒だけ黙った。
今日はこれで二度目の三秒だ。三秒あれば、たいていのことは呑み込める。呑み込めないものだけが、そのあと残る。
「あの、それは……お気遣いということでしょうか」
「違う」
「では、なぜ」
彼は答えなかった。答えないまま、少しだけ耳を伏せて、それが照れなのか、苛立ちなのかわからないまま、背を向けて歩き出した。灰色の尻尾が一度だけ大きく揺れて、街灯の光の外へ出ていった。
理由は、何も言わなかった。
わたしは扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
鍵は、出さないままだった。裏口の前を通り過ぎて、依頼票は明日の朝に確かめることにした。今夜そこへ入ると、確かめる以外のことを考えそうだった。
わたしの香は、読めない。
読めない女に用がある、と言う人は、これまで一人もいなかった。
下宿は、ギルドから通りを二本入ったところにある。二階の角部屋で、窓を開けると、隣家の煙突が見える。母が使っていた鏡台だけが、この部屋で一番いいものだ。
鏡の前に座って、耳のつけ根を指で押さえた。柔らかい。母のと同じだ。母は兎の獣人で、父は人族だった。耳だけは母から来て、香は来なかった。半分だからだ、と鑑定士は言った。三年前もそう言われて、今日も同じことを言われた。
三年前は泣いた。今日は泣かなかった。泣いても、札の文字は変わらないと、三年かけて覚えたからだ。
札は、三年前と同じだった。同じでないものが、今日は一つだけある。
母はよく、あんたの耳はあたしの耳だね、と言って笑った。香のことは、一度も言わなかった。どんな香だったのかを訊かないうちに、死んでしまった。父はその七年前に、街道で死んでいる。
だから家に、番のことで気を揉む人はいない。札を見せて溜息をつかれる相手が、一人もいない。
いないことが、今日は少しだけ楽だった。楽だと思ったことが、あとから重かった。
鏡台の引き出しから、革の手帳を出す。ギルドの備品ではない。わたしが自分で買って、自分でつけている査定の控えで、三年ぶんある。
明日の頁を開いて、書いてあることを確かめた。
第三迷宮、等級申請C、申請者「鉄爪」ガルド・ベルン。備考——直近三か月の遭遇記録に、上位個体の記載が二件。C等級では隊員の生存率が確保できない。差し止め相当。
書いたのは三日前のわたしだ。等級だけ先に決めて出す隊の癖で、事前照会が三日前に回ってきていた。三日前のわたしは、今日の札のことを知らない。
だから、この判断は今日の札とは関係がない。
そう思ったら、少しだけ息が楽になった。
「鉄爪」の隊には今月、新顔が二人入った。登録の書類を受け取ったのは、わたしだ。一人は十七で、名前を書くとき、手が震えていた。もう一人は二十二で、前の隊を抜けた理由の欄に、何も書かなかった。書かない者は、たいてい前の隊で嫌なものを見ている。
あの二人が第四層の東側へ行く。行って、上位個体に会う。会ったときに退けるかどうかは、装備と等級で決まる。等級はCで申請されている。
だから差し止める。それだけの話だ。
わたしは手帳を閉じて、それから、明日の朝のことを考えた。
来るはずがない。あの人はS級で、わたしは番の該当なしと札を上げられた受付嬢だ。同情なら、今夜のうちに冷める。
冷めるはずだ。
——それなら、確かめればいい。
わたしは寝台に横になって、明日はいつもより四半刻早く出ようと決めた。
早く出て、誰もいない扉の前を見て、それで終わりにする。そのほうがいい。期待は等級と同じで、根拠がなければ、差し止めるべきだ。
目を閉じても、灰色の尻尾が一度だけ揺れたところが残っていた。




