第13話 尻尾は正直だと聞きました
依頼番号 D-1195
依頼名 前庭の石畳補修(人足二名・半日)
申請等級 F
申請者 アルヴェント支部
書庫の当番は午前だけになった。人手が足りないので、午後は窓口に戻される。
三日降った雨で、前庭の石畳が四枚浮いた。
浮いた石は掲示板の真下にあって、人が集まる場所なので、放っておくと誰かが足を取られる。支部の名前でF等級の依頼を出した。報酬は銀貨二枚。半日。
二日貼って、誰も受けなかった。当たり前だ。F等級を受ける者は、もっと割のいい雑用へ行く。
三日目の朝、掲示板の前に灰色の背中があった。
扉の右、柱一本ぶんの位置から掲示板まで、五歩ぶん動いていた。彼が待つ場所を離れるのを見たのは久しぶりだった。
「これ、受ける」
「S級の方が受ける等級ではありません」
「等級は依頼に付くもんだろ。人に付くんじゃない」
わたしは票を出しかけて、手を止めた。今のは、たぶんわたしがいつか言った言葉だ。
「……銀貨二枚です」
「知ってる」
「半日かかります。今日は東の森で薬草の護衛が出ています。あちらは金貨一枚です」
「石が浮いてるのはここだ」
わたしは票に受注者の名前を書いた。S級の名前をF等級の欄に書くのは、たぶんこの支部で初めてだった。
九つに彼は道具を借りて、石を起こしはじめた。もう一人の人足はシャノンが捕まえてきた、前庭の掃除当番の少年だった。
「ヤン、あんた今日は石ね」
「え、俺、掃除の……」
「掃除は石が終わってからにしなさい」
少年はグレンを見上げて、それから小さくなった。S級の隣で半日働くというのは、この年ごろには重すぎる名誉だったらしい。
石は一枚が両手で抱えるほどある。下の砂利を均して、水を落として、また据える。グレンは上着を脱いで、革の胸当ても外して、麻の下着一枚で石を運んだ。
肩の付け根に、白い線が三本あった。
爪の跡だ。三本が平行に走って、鎖骨の上で途切れている。獣の爪ではない。間隔が広すぎて、人の手の幅に近い。
「グレン様。左の肩」
「ああ」
「動かすと痛みますか」
「上げるときだけだ」
彼は石を据えて、手のひらの砂を払い、それ以上は言わなかった。
わたしは受付台へ戻って、備品の膏薬を出した。冒険者に配る安いやつだ。差し出すと、彼は受け取らずに、こちらの手のひらごと見ていた。
「塗るんですか、これ」
「塗ってください。乾いたら包帯は要りません」
「そうか」
彼は片手で蓋を開けようとして、二回すべらせた。左手が使えていない。わたしは蓋を回して開けて、返した。
「グレン様、右手だけで石を運ぶのはやめてください。腰が持ちません」
「持つ」
「持つかどうかは、わたしが査定します」
彼は少しのあいだ黙って、それからヤンを呼び、二人で持つようになった。
昼を過ぎたころ、シャノンが窓口から身を乗り出した。
「ねえノーラ。あれ見て」
「石なら順調ですけど」
「石じゃないわよ。下」
グレンは石を据え終えて、前庭の端で水を飲んでいた。背中の下のほう、腰から出た灰色の尻尾が、ゆっくり左右に動いていた。
風ではない。風なら、毛先だけが揺れる。動いているのは、付け根からだ。
「あれ、あんたが膏薬渡してからずっとよ」
「……そうですか」
「そうですか、じゃないでしょ」シャノンは耳の先を後ろへ倒した。「猫だって尻尾は隠せないの。狼はもっと下手。あの人、自分では気づいてないわよ」
「教えて差し上げたほうがいいですか」
「絶対だめ」
「なぜです」
「見てて面白いからよ」
「シャノンさん、猫の尻尾は何を表すんですか」
「機嫌。あと、嘘」
「嘘が出るんですか」
「出るわよ。だから獣人は、番のいる相手の前だと尻尾を巻くの。見せたくないから」
「グレン様は巻いていません」
「そうねえ」シャノンは頬杖をついた。「巻いてないわね。ぜんぜん」
「それは、どういう意味ですか」
「自分で考えなさい。あたしが言ったら、あんた絶対そのまま票に書くもの」
ヤンが道具を返しに来て、通りすがりにグレンの尻尾を見て、それから急に真面目な顔で前庭を横切っていった。前庭の隅では治療師の見習いが二人、こちらを見ないようにして笑っていた。
わたしは票の裏に作業の終了時刻を書いた。書いてから、同じ行を二度書いていたことに気づいて、線を引いた。
六つに、彼が受付台へ来た。
「終わった。四枚とも据えた」
「確認します」
わたしは前庭に出て、四枚を順に踏んだ。動かないし、目地の砂も詰めてある。
「結構です。D-1195、完了で受理します。報酬は銀貨二枚。受領の署名をお願いします」
彼は羽根ペンを取って、名前を書いた。字は大きくて、まっすぐだった。
書き終わってから、二人とも黙った。
黙る理由が何もないのに、黙った。石畳の上で、夕方の風が砂を転がしていく音だけがした。わたしは票の縁をそろえ、彼は署名の欄を見ていた。
その沈黙のあいだ、尻尾が二度、大きく動いた。
「グレン様」
「なんだ」
「……尻尾は正直だと聞きました。本当ですか」
彼の耳が、片方だけ後ろへ倒れた。
それから彼は自分の背後を見た。見えるはずがないのに、見えないものを確かめるように首を回して、片手で押さえようとして、諦めた。
「……そういう話は、あんたの姉貴分から聞いたのか」
「隣の窓口の方です」
「あの猫は口が悪い」
「庇ってはくれます」
「知ってる」
彼は水の椀を台に戻した。近くにいると、日に当たっていた毛皮の温度が伝わってくる。獣人はこれで相手の機嫌まで分かるらしいが、わたしには温度しか分からない。分からないぶん、じっと見てしまう。
「わたしには、匂いが読めません」わたしは言った。「だから今、あなたが何を考えているかも分かりません」
「尻尾で分かるんだろ」
「動いている、ということしか」
「じゅうぶんだ」
彼はしばらく前庭を見ていた。それから、扉の右へ戻って、柱一本ぶん離れて立った。いつもの位置だ。そこで初めて、こちらを見た。
「明日も来る」
「はい」
返事をしてから、自分がずいぶん素直に返事をしたことに気づいた。
彼が帰ってから、受付台の下の手帳を開いて、今日の欄に「石畳四枚・完了・異常なし」と書いた。異常はなかった。何もなかった日だ。何もない日を書き留めておくと、あとで何かあった日の形が分かる。
書庫の鍵を取りに行く途中で、シャノンに呼び止められた。
「ノーラ、これ回ってきたわよ。今日の午後の受理」
差し出された写しを見た。
依頼番号D-1203。第三迷宮、第五層までの踏破および記録。申請等級C。
「第五層?」シャノンが横から覗いた。「あそこ、閉まってるんじゃないの」
「閉まっています」
「じゃあ何よこれ」
わたしは受理欄をもう一度読んだ。備考の欄に、見たことのない一行が入っていた。
——本部認可済。査定票の到達を要さず。




