第11話 匂いのない受付嬢
依頼番号 D-1187
依頼名 東街道の護衛(隊商三台)
申請等級 D
申請者 商会「柊の枝」
六つ半に表の鍵を開けた。石畳が濡れていて、夜のうちに雨が降ったらしい。
昨日この前庭には、百人近くが立っていた。白い袖が水晶を据えて、わたしが手のひらを載せて、水晶は一度も光らなかった。二度目も同じで、掲げられた木札には三年前と同じ字が書いてあった。
扉の右、柱一本ぶん離れたところ。そこには誰もいなかった。
わたしは、三秒だけ黙った。三秒あれば、たいていのことは呑み込める。呑み込めないものだけが、そのあと残る。
鍵を回して、掃除の桶を出して、掲示板の古い依頼を剥がした。順番は昨日と同じにした。
「おはようございます」
職員の一人がそう言って、わたしの横を通って、書庫のほうへ行った。目は合わなかったが、合わせないように外しているのが、わかる程度には丁寧だった。
九つに窓口を開けた。列は二つで、わたしの窓口と、シャノンの窓口だ。いつもなら、長さはだいたい同じになる。
四半刻で、こちらは三人になり、向こうは十一人だった。
「混んでるわね、そっち」
シャノンが言って、列を自分の側から流そうとして、手を止めた。三人目の男がわざわざシャノンの列の最後尾まで歩いていったからで、流す先が無い。
「D-1187、東街道の護衛ですね」わたしは票を受けた。「申請はDですが、先週その街道で荷馬車が二台やられています。隊商三台なら、護衛は四名以上。等級はCで出し直します」
「……あんたが決めるのか」
商会の使いは、わたしの顔ではなく耳のあたりを見ていた。獣人は相手の香で嘘を測るから、測れない相手は目で測るしかない。目で測るとき、人はたいてい耳を見る。
「査定はわたしが出します。署名は支部長です」
「なら、支部長に聞くわ」
男は票を持って、階段のほうへ行った。止めなかった。手続きとしては、間違っていない。
次に来たのは、先月わたしが差し止めた依頼の受注者だった。狐の獣人で、名前も顔も覚えている。あのとき等級を上げ直したおかげで、彼は仲間を二人増やして、戻ってきた。
「ハーヴェイさん。あの、悪いんだけど」
「はい」
「今日の分、隣で出してもらっていいかな」
「理由をうかがっても」
「理由って……いや、そういうんじゃなくて」
彼は言葉を探した。探しているあいだ、耳がずっと横を向いていた。
「うちの隊、来月に婚礼があるんだ。番の決まった奴が二人いる。験の悪い話をしたくないってのが、何人か」
「験ですか」
「悪く思わないでくれ」
わたしは差し出しかけた票を引いて、隣へ回した。シャノンは無言で受け取り、無言で処理した。
九つ半に支部長室へ呼ばれた。
「当面、君の査定票には二人目の署名を付ける」ヴェンツェル支部長は書類を伏せずに言った。「私の考えではない。本部の記録係が、昨日の件を報告に書いた」
「昨日の件というのは、鑑定の結果ですか」
「……そう書いてある」
「番鑑定は査定の資格ではありません。規定のどこにも」
「規定にはな」
支部長は指で机を二度叩いて、それから初めてわたしの顔を見た。
「君の票はこれまで一枚も外れていない。私はそれを知っている。だが今この支部で、私が知っていることに何の力もない」
「二人目の署名は、どなたが」
「ルーくんだ。資格は格下だが、署名権はある」
「わかりました」
「……君は、怒らんのだな」
「怒っても票の等級は変わりませんので」
支部長は口を開いて、何も言わずに閉じた。
昼過ぎに、若い斥候が一人だけこちらの列に並んだ。まだ登録して半年の狸の獣人で、いつも書式を間違える。
「ハーヴェイさん、これ、書き方合ってます?」
「遭遇の欄が空です。何も出なかったのなら、出なかったと書いてください」
「出なかったのも書くんですか」
「出なかった日が三日続いたら、四日目は出ます。そういう場所があります」
「……こわいこと言いますね」
「こわいから書きます」
彼は笑って、言われたとおりに書き足した。書き終えてから、少し声を落とした。
「俺、昨日の前庭にいました。あの札、間違ってると思います」
「札は間違えません。書いてあるとおりです」
「じゃあ、測る道具のほうが間違ってるんだ」
わたしは受理の判を押した。押すとき、手が一度だけ止まった。
「……お気をつけて。北の沢は水が出ています」
夕方の六つに受理表を締めた。
わたしの窓口の受理は九件で、先月の同じ曜日は二十二件だった。シャノンの窓口は、二十六件ある。数字は嘘をつかないが、理由も言わない。
「言っとくけど、あたしは署名なんかしないわよ」
帰りぎわにシャノンが言った。書類の束を抱えたままで、こちらは見ていなかった。
「支部長の指示ですが」
「する。するけど、するのが正しいって顔はしないの。区別なさい」
「……はい」
「あんた、明日も来るんでしょ」
「来ます。当番ですので」
「そういうことじゃないのよ」
シャノンは耳の先だけ動かして、それ以上は言わなかった。
下宿へ帰って、母の形見の鏡台の前に座った。兎の耳は母のもので、上のほうが少し折れている。折れているところを指でなぞって、それから手を下ろした。
母の耳も同じ折れ方をしていた、と父が言っていた。母に香があったかどうかは、聞いたことがない。
翌朝の六つ半。
扉の右側、柱一本ぶん離れたところに影が立っていた。
灰色の狼の耳がこちらを向いて、それから包みが差し出された。まだ温かい。胡桃の焼き菓子をこの時刻に焼き上げる店は、通り二本先に一軒しかない。
「……昨日は、いませんでしたね」
「鑑定院の連中が前庭にいた」グレンは言った。「あんたの邪魔になる」
わたしは包みを両手で受け取った。指先が冷えていて、包みのほうが体温より高いのがわかった。
「グレン様。昨日、水晶は光りませんでした」
「見てた」
「わたしは番の候補を持ちません。三年前も昨日も該当なしです。獣人の方には、わたしが何を考えているかも読めません。嘘をついても分からない相手を、皆さんは信用しません」
「知ってる」
「では、なぜ」
訊いてしまってから、自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。
グレンはしばらく黙っていた。柱に寄りかかりもせず、腕も組まず、ただ立っていた。
「あんたが差し止めたからだ」
「それは前にも聞きました。何を差し止めたんですか」
「まだ言わない」
彼は掲示板のほうへ目をやった。剥がした古い依頼の跡が、四角く白く残っている。
「決めたのは、あんたに会う前だ」
「会う前、というのは」
「言葉のとおりだ」
彼はそれだけ言って、列の外へ下がった。開門の刻限が来て、冒険者たちが入ってくる。何人かがこちらを見て、それから隣の窓口へ並んだ。
包みはまだ温かかった。わたしは受付台の下にそれを置いて、帳面を開いた。
その日の受理は六件だった。




