第10話 再鑑定のお時間です
通達番号 R-0009
発行 王立番鑑定院
件名 番鑑定結果の再確認について
対象 アルヴェント支部 査定官 ノーラ・ハーヴェイ
朝は、いつもどおりだった。角を曲がると、柱一本ぶん離れたところにグレンが立っていて、包みを差し出す。中身は胡桃。わたしは礼を言って、受け取った。それだけだ。包みはまだ温かくて、通りには、焼けた小麦の匂いが残っていた。
「今日は何かあるのか」
「今日は何もありません。台帳の整理です」
「そうか」
扉を開けたとき、二階から支部長が降りてきた。まだ六つ半にもなっていない。この人がこの時刻に階段を降りてくるのを、わたしは勤めてから二度しか見ていない。手に封書があって、封蝋は白い。
「……済まない」
先に謝った。いつもの癖が戻っている。
通達は短かった。
番鑑定において該当なしと判じられた者が、公的な判断に継続して関与する場合、王立番鑑定院は当該者の鑑定結果の再確認を行うことができる——その条項が一行、写してある。実施は本日九つ。場所はアルヴェント支部前庭。公開。
「止められませんか」
「鑑定院の再確認は支部の権限の外だ。私が押せる判は一つも無い」
支部長は封書を握ったままで、指の関節が白い。
「二十年で四度、査定権を返せと言われた。四度とも断った。断れたのは、相手がギルドだったからだ」
「鑑定院は違いますか」
「ギルドの外だ。手続きの筋が違う。私が知っている条文は一つも効かない」
支部長は封書を机に置いて、それから、置いた場所をもう一度直した。
「拒否はできる。だが拒否の記録が残る。残れば、次は支部の査定業務そのものが照会される」
「では、受けます」
「……済まない」
二度目だった。この人が同じ朝に二度謝るのを、わたしは初めて見た。
九つ。
前庭に石の台が組まれた。支部の備品ではない。荷車で運ばれてきた白い布と、その上に据えられた鑑定水晶。白い袖の助手が二人、布の皺を伸ばしている。布の四隅には錘が置いてあって、風が来ても、捲れないようになっていた。何度もやってきた手つきだ。
石の台は腰より少し上の高さで、手を置けば、そこに何が起きるかが、前庭のどこからでも見える。
人が集まった。冒険者、職員、通りの野次馬。掲示板の前まで埋まって、門の外にも並んでいる。窓口の列に並んでいた人も、順番を捨てて、壇のほうを向いた。差し止めを出した相手も、写しを買っていった相手も、昨日まで挨拶をしていた相手も、同じ人垣の中にいる。
わたしは受付台の内側で、その様子を板の隙間から見ていた。
台の下に手を伸ばすと、革表紙の手帳がある。ギルドの備品ではなく、三年前に自費で買って、それから毎日つけている、わたしの控えだ。公式の台帳に書けないこと——遭遇の時刻、隊の顔ぶれ、坑口で誰が何を言ったか。三年ぶんで、指三本ぶんの厚みになった。
わたしはそれを台の下の棚に戻して、布をかけた。公式ではないものを、公開の場へ持っていく理由はない。
「ハーヴェイさん」
白い袖の女の人が、板の向こうに立っていた。
「王立番鑑定院、鑑定士のメリル・アシェと申します。三年前と、それから先日と、あなたを二度お測りしました。覚えておいでですか」
「覚えています」
「よかった。覚えていてくださる方は少ないのです。皆さん、札のほうだけ覚えて帰られる」
彼女は微笑んだ。三十二くらいの人族で、目尻に細い皺がある。声の温度は、朝の挨拶と同じだった。
「本日はあなたのためを思って申し上げているのですよ。もう一度、正しく測りましょう」
「前庭でなければいけませんか」
「公開が要件です。判定は掲げるもので、隠すものではありませんから」
「わたしが隠したいのではありません。仕事の場です。列が止まります」
「四半刻で終わります」
彼女はそう言って、板の上に置かれた申請票の束を、一度だけ見た。見ただけで、触らなかった。触らないことに、この人は慣れている。
わたしは板を上げて、外へ出た。
前庭の空気が変わったのが、分かった。話し声がいったん止んで、それから、小さくなって続いた。獣人の集まりで「該当なし」という言葉が出るときには、決まった音がある。低くて、短い。
対を持たない者、群れに数えられない者。古い言い方だ。この二十年で誰も口に出さなくなって、そのかわり誰も忘れなかった。どこかで小さい子が母親に何か訊いて、口を塞がれる音がした。日はもう高くて、石畳の照り返しが、袖の内側まで白く入ってくる。
「おい、写しは今日も出るのか」
斧使いが場違いな声を出した。シャノンが振り向いて睨むと、彼は首をすくめる。
わたしは石の台の前まで歩いた。十歩ある。数えたのは、数えていないと足が止まりそうだったからだ。掲示板の脇の柱に、灰色の影がある。壇には近づかない。柱一本ぶん離れたところで、彼は腕を組まず、両手を下ろしていた。板の向こうでシャノンが窓口の札を裏返して、受付停止の面が、外を向いた。
「待って」
列を割って、シャノンが前に出た。
「アシェ様、でしたっけ。順番があるでしょ。先にあたしを測りなさいよ」
「あなたは対象ではありません」
「対象になったことならあるわよ」
シャノンは前庭の真ん中で、足を止めた。全員が聞いていた。
「あたし、十二で該当ありが出たの。家が望めば、十八を待たずに受けさせられるのよ。三日後に家を出されました。婚家です。会ったこともない男の家。十四で逃げました。歩いて七日かかった。実家には入れてもらえなかったから、ここに来たの」
彼女の耳の先が震えていた。
「その水晶は、あたしの十二年を三つ数えるあいだに決めました。だからあたしは、それを正しいと思っていません」
前庭は静かだった。誰かの足が石を擦る音がして、その音が消えると、また静かになった。
メリルはシャノンをまっすぐ見て、それから、軽く頭を下げた。
「お辛かったでしょう。心からお察しします」
「……なら」
「ですが、それは鑑定の誤りではありません。運用の誤りです。判定そのものは正しく機能しております」
シャノンの口が動いて、音にならなかった。
メリルは布の上の水晶に手を添えた。丁寧に、埃を払うように。
「では、ハーヴェイさん。手のひらを」
石は冷たい。三年前と同じ冷たさだった。
水晶は光らなかった。
「もう一度」
二度目。光らない。
「もう一度。ゆっくり息を」
三度目。
手のひらの下で石の粒の一つも動かず、前庭のどこかで誰かが咳をして、すぐ止んだ。
助手が名簿を開き、メリルが頁を繰った。指の動きが速い。ある頁で、指が止まった。ほんの一瞬だ。彼女はそこを読まずに戻して、先へ進めた。見ていたのは、たぶんわたしだけだった。
白い袖が上がって、木札が掲げられた。
該当なし。
わたしは、三秒だけ黙った。
三秒あれば、たいていのことは呑み込める。呑み込めないものだけが、そのあと残る。
残った。
「制度は正しいのです」
メリルはこちらへ向き直る。声は、やはり優しかった。
「あなたが例外なだけで」
「その水晶が」
声がした。
前庭の全員が振り返った。グレンが柱から離れている。
「何を測れるって?」
低い声だった。この人がこんな声を出すのを、わたしは聞いたことがない。人垣が割れて、道ができた。彼は壇の三歩手前で止まった。剣には手をかけていない。尻尾は下がったまま、背中の毛だけが逆立っていて、本人はそれに気づいていない。
「冒険者様」
メリルは動かなかった。
「測れないものは測りません。それが鑑定でございます」
彼女は木札を助手に渡して、革の鞄から二枚目の書面を出した。
「では、続けます。鑑定院として、当支部の査定業務に所見を出します。書面は本日中に本部へ」
紙が持ち上がって、前庭の誰も声を出さない。斧使いが何か言いかけて、隣の男に肘で止められた。所見という言葉の重さは、ここにいる冒険者なら全員が知っていて、査定が止まれば、依頼も止まる。
わたしは自分の手のひらを見た。石の冷たさが、まだ残っている。
メリルは石段を降りるとき、わたしのすぐ横を通って、わたしにだけ聞こえる声で言った。
「該当なしの方には、何度もお会いしています。……皆さん、そのあとどうなさっているか、ご存じですか」
白い袖が門を出ていった。人垣はすぐには崩れず、誰も先に動きたくないときの、遅い崩れ方をした。
前庭の石畳に、木札を立てかけた跡だけが残っていた。白い布は畳まれて、荷車はもう門の外にある。石の台だけが、明日まで置かれるらしかった。
この日を境に、わたしの窓口へ回ってくる申請票の束が薄くなりはじめます。




