なんかおかしいです(里菜子目線)
私は手相にソロモンの輪が欲しい。
「これは…!」
里菜子はショックを受け、そしてそんな里菜子のリアクションを見て牧彦は何だとばかりに里菜子を見た。
里菜子がインフルエンザから復帰してきたときにはもう期末テスト間近だったので部活は全面的に休みだ。
なので図書室にて里菜子に勉強を教わりながら牧彦もテストへの追い込みに入っている所だが、里菜子はまず三人分のノートを見ながら一週間分の授業の黒板の書き写しを自分のノートに書いている。
里菜子はショックを受けた顔のまま牧彦の顔を見上げる。
「牧彦くん、先生が喋ってる事もノートに取ってたんですね…!?」
「黒板に書いてるのだけ書き写してたら眠くなるし…」
牧彦の話を聞くに、黒板の文字を書き、集中が切れそうになったら先生の話を聞いてノートに覚えられる範囲で書き、それにも集中が切れそうだったら先生や生徒の動きを後ろからみて…というルーティンで授業を乗り切っていたそうだ。
「どうりで…。ずいぶんと文字量が多いと思いました」
ミリとノアの二人のノートはカラフルなペンなどで要点などは雲の形をした線で囲まれていたり、ここテストに出る!など可愛らしい絵つきで教えてくれていてとても楽しく見やすいし、何よりわかりやすい。
しかし牧彦のノートはシャーペン一つで書いてあるので全体的に黒く文字量も多いし隙間も開けずに続けて書いてあるので見にくいが、二人のノートには書かれていない情報がかなり書き込まれてある。
古文の論語などについて、ミリとノアは黒板に書かれた意訳を書いているが、牧彦のはツラツラと、
『君子という言葉が出てくるが、これは徳の高い人や立派な人という意味、君子というとどうにも偉そうに聞こえるが、いわゆるジェントルマンみたいな意味で固く考えなくてもいい、人から尊敬される人という意味、なのでここでは「人が自分を認めてくれないと恨まないなんて、なんてジェントルマンじゃないですか」となるがテストには君子と書くように』
というようなことを書き綴っている。
なるほど、先生はこんな事を言いながら授業をやっていたんだな、と思うのと同時に先生が黒板にも書かない分かりやすくするためのアドバイスなども何気なく書き込まれていて中々ためになる。
「…読みづらいか」
牧彦がそう言ってくるので、いやいや、と里菜子は首を横に振って牧彦のノートを見ていく。
「確かに改行も隙間も開けていないし、黒板に書いてるのと先生の言葉も一緒くたに書かれているので少々読みづらいですが」
「首横に振っておいて読みづらいんじゃねえかよ」
牧彦がそう言ってくるので里菜子はまたもや首を横に振って牧彦に向き直った。
「黒板に書かれてる文字だけではなく、先生の言葉も書くということについては素晴しいと思います。先生が本当に覚えてほしいというのは黒板に書くものだと思いますが、案外とその説明していることにもかなり重要な事がありますので。
だけど言葉は目に見えないしすぐ消えていくのでこうやって書き取っておけば後から見て結構重要な事を話していた、ということもあるはずです」
実際、古文以外のノートを見てもミリとノアには書かれていない重要そうな内容が牧彦のノートには書かれていたりする。
なんだか他の人が見逃しているのを発見したとばかりの得をした気持ちになる。
「…お前だって耳で聞いて目で見て書くと覚えるっていったじゃねえか」
牧彦がそう言ってくるので、自分の家に招待した時に言った事を素直に実践しているんだと少し嬉しくなる。
「嬉しいです、実践してもらえて」
里菜子がそう言うと牧彦は少し照れくさそうな顔をして目線を逸らして勉強に取り掛かった。
とりあえずノートの隅の方には先生が言った言葉でもなさそうなものが書き記してあって、これは何かと牧彦に問いかけてみたらそこは牧彦がよく分らなかった所で、後で自分に聞こうとしていたとの返答が返ってきた。
随分と自分があてにされているようで、それに対しても嬉しい気持ちになる。
ミリとノアもたまに分からない事は自分に聞いてくるが、基本的に二人とも勉強はできる。
だからここまで勉強で頼りにされることはないので、こちらも教えられるのならどこまでも教えてあげましょうとばかりに教えたくなる。
それにその分からないとノートの隅に書いてたのはほとんど授業を真面目に聞いてこなかった報いともいえるもので、最初から根強く教え、このような事だから結果的にこうなるのだ、というようなことを教えていくと少しずつでも納得してもらえる。
それでも分からなそうだと感じたら、こちらも牧彦がどうやったら理解しやすくなるかと考え言葉と教え方を変えていく。
そうして牧彦が理解した姿を見るとこちらも嬉しくなる。
こうなると牧彦は今まで心の底からやる気がなかっただけで、普通に授業を受けていたらそれなりに点数も取れる人なのでは、と里菜子は思った。
何より真面目だ。
こんなこと言ったら本人は否定するかもしれないが、こうすればいいよ、と言ったことに対して素直に取り掛かるし、そして学ぼうと決めたらとことん学ぼうと努力している。
本当に不真面目な人ならこうすればいいよ、とアドバイスを送っても、うん分かった、と頷くばかりであとは何もやらないだろう。
「…」
化学について教えているとふいに牧彦が黙り込んだので里菜子は牧彦の顔を見上げる。
「…さっきからお前に色々と聞いて教わってばっかりだけどよ、お前大丈夫か?」
「大丈夫かって、何がですか?」
「いや…俺のレベルに合わせて教えてていいのかよ、お前だって勉強しねえといけねえだろ」
その言葉に里菜子は何を仰いますやら、とばかりに首を横に振った。
「どうせ教えてるところは同じ範囲ですし、こうやって人に教えることで私も勉強してるのと同じことなんですよ」
「そういうもんか?」
「そうですよ。そもそも教えるという行為は自分の中で知識を噛み砕いて理解できてるからこそ人に教えられるものですし、私も牧彦くんに説明するために自分の中で噛み砕いて、ああなるほどーとまた覚えながら勉強してるんですよ。一挙両得、一石二鳥とも言えますね」
牧彦はふうん、と言いながら、
「なんか教える側の方が二重に覚えられて得してる気がするな…」
とどこか羨まし気な顔をするので、里菜子はふふ、と笑いながら、
「牧彦くんだって色々と覚えて他の誰かに教えられるくらいになれば私と同じことできますよ」
と返す。
「俺が?」
牧彦はそう言って目を丸くするが、あり得ねえ、とばかりに鼻で笑ってノートに目を移す。
「牧彦くん、左手見せてもらえます?」
「手?」
牧彦は左手を里菜子に見せるので、里菜子は牧彦の厚い手の平を広げてジロジロと見た。
「…な、なんだよ」
牧彦からぶっきらぼうな声が飛んでくる。
「人差し指の付け根下のふくらみにシャープの形の手相があれば、人に物事教えるのに向いてるそうなんですよ。セイショクモンというんですけど」
「セイショク…」
「聖なる職業と書いて聖職紋です。下腹部のことではありません」
勘違いしてるな、と思ったので淡々と教えると、牧彦は気まずそうな顔になりつつ「知ってる」と返してきたが、多分甚だしく勘違いしていた事だろう。
牧彦はそれを誤魔化すためか、
「手相も詳しいのか」
などと話しかけてきたので、里菜子は頷く。
「ほとんど自分の手相にあるのしか分かりませんけどね。残念ながら牧彦くんには聖職紋はありませんでした」
牧彦はそう言いながら自分の手の平を見ていて、里菜子に目を向けた。
「ってことは里菜子にはあるのか?そのシャープの」
「実はあるんですよ、ほらここ…」
と牧彦に手の平を近づけると牧彦もどれ、と顔を近づけてくる。
ふと牧彦の髪の毛と自分の髪の毛が触れ合うほど近いのに気づき、里菜子の心臓は不全でも起こしたかとばかりにドカンと揺れて思わずそのまま手の平を胸に当てて少し牧彦から離れる。
牧彦は何だ、と顔を上げたが思ったより距離が近いと気づいたのかモゾモゾと体を元の位置に戻してあっちの方向を見てシャーペンをクルクルと回している。
なんだか気まずい雰囲気が流れてしまい、その状態が続く。
ダメだ、このままじゃ勉強に支障が出てしまう。こうなったらこの雰囲気を壊す話題をするしかない。
里菜子はまだドッドッドッと鳴っている胸を押さえながら、
「手の平といえばですね…」
と早口でまくしたてると牧彦は、
「お、おう」
と言いながらまだあっちの方向を見ている。
「『はたらけどはたらけどなお我が生活楽にならざりぢっと手を見る』…って誰の句か分かりますか?」
「…知らねえ」
牧彦はシャーペンをノートにガッガッと当てながらも少しこちらに顔を向けつつ首を横に振った。
「石川啄木という方なんですが…」
「名前なら聞いたことある」
聞いたことがある名前のせいか興味を引かれたようでこちらに完全に顔を向けるが、目が合うとふい、と視線を逸らした。
里菜子もなぜか牧彦と目が合って激しく瞬きし、顔に熱が上がるのを感じながら、
「この方、割と貧乏生活の中で二十代で亡くなってしまったんですよ。他にもお母さんをおんぶしたらあまりに軽くて泣けたっていう句も詠んでるんです」
「ふうん」
「けど実際には句から想像するような方ではないらしく、妹は兄が母を背負っている姿など見たことないとキレ気味に言ってます。
お金に苦労してるのにお金を人から借りて女の人を買いに行ってましたし、東京で啄木と一緒に暮らしたいという母と妹の希望を、養うのがちょっと…という理由で突っぱねてました」
「…」
牧彦は少し黙り込み、
「…クソか?」
と呟く。
「だけど本当に病気の体に鞭打って働いていたのは本当らしいですし、今でいうワーキングプアみたいな感じだったんだと思いますよ。女の人買いに行ってたのは余計な出費だと思いますけど。
それで一緒に暮らしたいと言われても三人分養うってのは結構大変じゃないですかね」
そう言うと牧彦は納得の顔になった。
「ちなみに千円札の野口英世ですが、彼もまたお金にルーズで、野口英世のためにとお金を貸しまくっていた人は息子に対して『男に惚れるのだけはやめておけ』と釘をさすほどでした」
牧彦は少し口をつぐみ、
「そんな男が千円札の肖像画に選ばれたのか?」
と里菜子に聞く。
「黄熱病に関してはかなり貢献した人ですので」
と里菜子は言い、そして心臓もだいぶ落ち着いたので少し表情を改めて牧彦に顔を向ける。
「そしてその『ぢっと手を見る』ですが。ほんの少し怖い話をしましょうか」
里菜子のその言葉に牧彦も里菜子の顔を真っすぐに見る。
あれ。
里菜子は牧彦の顔を真っすぐに見た。
牧彦くんってこんなに意志の強そうな真っすぐな目してたっけ?
どちらかと言えば目つきが鋭くやや不機嫌そうで目力が無駄に強かった印象はあったが、ここまで人の心臓を射抜くかのような目をしていただろうか。
その目に射抜かれた感覚がして次第に心臓の動きが速くなり少し口ごもっていると、
「手を見るがなんだって?」
と言われたのでハッと我に返る。
「ああそうそう。手鏡という言葉がありましてね」
「手鏡って、手で持つ鏡だろ?」
と牧彦が返してくる。
里菜子は首を軽く横にふりながら、
「そういう鏡とは違うんですよ。これはちょっと怖い系の巷の話というくらいの話なんですが…」
と里菜子が言うと牧彦は真剣な顔で里菜子をじっと見てくる。
う、おかしい。
里菜子は口をつぐんで牧彦から目を逸らす。
今まで睨みつけられたらその目力に負けて目を逸らしていたが、最近は普通に直視される程度では何も感じなかったのに、またなぜか真っすぐにみられると落ち着かなくなる。
そう思いつつ、里菜子は話を続ける。
「ある方から聞いた話なんですが、死期が近い人って、なぜかぼんやりと手の平を見るらしいんですよ。これを手鏡というんです…。
そして啄木は働いても働いても生活が楽にならなくてぢっと手をみるという句を詠み、そして二十六歳という若さで亡くなっています…。…これは偶然でしょうか、それとも…?」
里菜子が多少おどろおどろしい口調でそう締めくくると、牧彦は顔を強ばらせ、生唾を飲み込んで恐る恐ると口を開いた。
「もしかして…その句を詠んだ後に死んだとか…」
里菜子はかすかに口元をニヤ…と上げて牧彦の顔を覗き込むように見上げた。
「そこまでは…知りません…テストが終わった後にでも調べてください…」
民俗学専攻の先生から手鏡の話を聞きました。薄ら恐ろしい話だと思った記憶があります。
しかし啄木の歌とそれは関係ないと思います、多分。ええ、多分。




