第9話 今日から、リンド
九月十二日の夕刻。私はあらかじめ調停所に休暇を申請し、北区婚姻登録署を訪れていた。
王国の法律では、離縁合意書の提出から二日間の「熟慮期間」を置くことが定められている。一時的な感情の昂りや、強迫による離縁を防ぐための冷却期間だ。そして今日、その二日間が明け、当事者が別々の時間帯に登録官と面会して最終的な意思確認を行う手はずになっていた。
ロランの面会は午後四時、私はその後の午後五時の枠だった。
登録署の建物は、高いドーム型の天井と大理石の床で覆われており、歩くたびに靴音が冷たく反響する。四年前、私はこの同じ廊下をロランと二人で歩き、婚姻の登録を済ませた。あの時の私の目に映っていたステンドグラスの光はもっと温かく見えた気がするが、今の私を包む光は、秋の夕方の澄み切った冷気そのものだった。
だが、そこに悲しみや後悔はなかった。ただ、ひとつの婚姻を終わらせるために、最後まで自分の意思を伝えようと思っていた。
「エステル・アレン様。一番窓口へどうぞ」
呼ばれて個室に入ると、年配の登録官が分厚い台帳を開いて待っていた。
「二日間の熟慮期間が経過いたしました。合意書の内容、および離縁の意思に変わりはありませんか」
「はい。変わりありません」
私は迷いなく答えた。登録官は短く頷くと、台帳の所定の欄に赤いインクで受付印を押し、私の署名を求めた。
「ロラン様の最終意思も、先ほど別に確認しました。これをもって離縁を登録します」
登録官が告げ、成立の証書を私に渡した。たった数分の、ひどく事務的なやり取りだった。法律上、私とロランはもう夫婦ではなくなったのだ。
重い木扉を押し開けて待合室に戻り、建物の出口へと向かおうとした時だった。
円柱の陰の長椅子に、見慣れたシルエットが座っていた。
「……ロラン」
思わず声が出た。先に手続きを終えたはずの彼が、まだ残っていた。
ロランは弾かれたように立ち上がり、足早にこちらへ歩み寄ってきた。彼の顔は二日前に見た時よりもさらにやつれ、目の下には濃い疲労の影が落ちていた。
「エステル。君の枠が終わるのを待っていたんだ」
「先に帰ったのではなかったの?」
「最後に、どうしても顔を見ておきたくて。……待っていた」
彼の声は掠れていた。私は周囲の視線を気にしつつ、少しだけ彼から距離を取った。
「手続きは終わりました。これで、すべて終わりです」
「エステル」
ロランはすがるような目で私を見つめた。
「……いつか、やり直せるだろうか」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で冷たい風が吹いた。
「僕が間違っていたと気づいて、あの……彼女とのこともすべて清算して、もう一度君の前に現れたら。君は、もう一度僕を受け入れてくれるだろうか」
未練があるのか、一人になるのが怖いのか。もう私には分からなかった。ただ、彼の「いつか」に返事をして、これからの私を待たせたくはなかった。
私は彼を軽蔑の目で見据え、罵倒することもできた。だが、そんなことをしても虚しくなるだけだとわかっていた。
「ロラン」
私は静かに、彼の言葉を遮った。
「あなたと過ごした四年間のすべてが、不幸だったとは思いません。穏やかで、楽しい日々もあった。そのことには感謝しています」
ロランの顔に、わずかな安堵と期待の光が差した。しかし、私はすぐにその光を打ち砕いた。
「過去は過去です。でも、私たちはもう、戻らない」
「…………」
「自分の選んだ道を、自分で歩いてください。さようなら」
私は小さく一礼すると、彼が何かを言い返すよりも早く踵を返し、出口へと向かった。背後から追ってくる足音はなかった。彼もついに、私の決意が完全に揺るがないことを悟ったのだろう。
登録署を出た後、私は鞄の中の成立証書を確かめた。銀行へは明日、代理人を通じて返戻請求書を提出する。財産の手続きは残っているが、分ける額はもう合意書に記されていた。
王都の街を歩く私の足取りは、羽が生えたように軽かった。
今日から、私はもう「エステル・アレン」ではない。旧姓の「エステル・リンド」に戻ったのだ。夫の裏切りに怯え、嘘を見透かしながらも愛想笑いを浮かべて夕食を作る日々は終わった。誰かに復讐をして破滅させることよりも、ただ自分自身の人生と自由を取り戻したことのほうが、私にとっては遥かに大きな、そして唯一の報酬だった。
街路樹の葉が色づき始めた通りを抜け、二日前に通りかかった運河の石橋に差し掛かる。
橋の修繕工事は、その日の作業を仕舞いかけているところだった。木組みの横で職人と最後の確認をしている、深緑色の上着を着た後ろ姿があった。
営繕局の動線設計官、シオン・ヴァレンだ。
彼は図面から目を離し、私服姿で橋を渡ろうとしている私に気づいた。
「エステル書記官。今日は休みだったのか」
「ええ。少し野暮用で、休暇をいただいていまして」
私は彼の隣で足を止め、流れる運河の水面を見下ろした。
私が今、人生の大きな決断を下してきたばかりであることを、彼は知らない。知る必要もない。だが、なぜか彼には、事実だけを伝えておきたいと思った。
「呼び名が、変わりました」
私は視線を水面に向けたまま、ぽつりと言った。
「今日から、旧姓のリンドに戻ったんです」
横顔に、シオンの視線を感じた。
普通の同僚なら、ここで「どうして」と理由を尋ねるか、あるいは「大変だったね」と気の利いた慰めを口にする場面だろう。私は彼がどう反応するか、少しだけ身を硬くして待った。
数秒の沈黙の後、シオンはいつもと変わらない、静かで平坦な声で言った。
「そうか。では、リンド書記官」
彼は理由を尋ねなかった。私を特別扱いすることも、不躾な好奇心を見せることもなく、ただ私の新しい――いや、本来の正しい名前を呼んでくれた。
「明日の朝には、調停所の改修案の内部決裁が下りる予定だ。出勤したら、また現場ですり合わせを頼む」
「……はい。よろしくお願いします、ヴァレン設計官」
私は彼に向かって、心からの微笑みを返した。彼の引く境界線が、今はたまらなく心地よかった。
日が暮れてから、私は九月六日から暮らしている新しい部屋に帰宅した。
数日しか経っていないというのに、この狭い部屋にはすでに私自身の生活の匂いが馴染み始めている。
私は鞄を開け、書類の隙間から小さな革製のケースを取り出した。
まだ『エステル・アレン』と記された庁内用の身分証だ。明日、成立証書を示して変更を届ける。そこに『エステル・リンド』と記される日を思い、私はケースを閉じた。
窓口に座る際、来所者に見せる木札には「エステル」という下の名前しか書かれていない。だが、この身分証は私がこの社会で一人の専門職として立ち、公的な業務を担う人間であることの確かな証明だった。
窓辺に立ち、灯りの下でその身分証を見つめる。
私的な別れは終わった。明日からは、エステル・リンドとしての新しい日常が始まる。
私は身分証を胸のポケットにしまい、背筋を伸ばした。




