第10話 書記官エステル・リンド
休暇明けの、九月十三日の朝。
王都婚姻調停所の中央所に出勤した私は、成立証書と旧姓への変更届を、庁内用の身分証に添えて持っていた。
始業の鐘が鳴る前に、私は監督書記長であるディナの執務室をノックした。
「おはようございます、書記長。休暇をありがとうございました」
書類の山から顔を上げたディナは、私が差し出した証書と身分証を一瞥し、短く頷いた。
「おはよう、エステル。手続きは無事に終わったようね」
「はい。昨日、登録署にて正式に離縁が成立し、姓を戻しました」
「わかりました。では、職員台帳の氏名変更処理を行っておきます。今日の割り当ては、第三面談室の資料点検からです。遅れないように」
「かしこまりました」
ディナは「お疲れ様」と一言だけ添えると、すぐに手元の書類に視線を戻した。
私生活の事情にこれ以上踏み込むことも、過剰な同情や労いの言葉をかけることもない。ただ一人の職員の身上異動として、冷徹なまでに事務的に処理をしてくれた。その淡々とした対応が、今の私には何よりもありがたかった。
特別扱いされないこと。それが、私がこの職場で「書記官としての日常」を取り戻すための最初のステップだった。
人事窓口で身分証の表記を改めてもらい、執務区画へ戻ると、同僚の何人かが新しい姓に気づいた。
「エステル、あなた、もしかして……」
隣の席の先輩書記官が、声を潜めて尋ねてきた。彼女の目には、気遣いと、ほんの少しの興味本位の憶測が混じっていた。
「はい。個人の事情で、離縁することになりました。今日からまた旧姓のリンドで働きますので、よろしくお願いします」
私は努めて明るく、簡潔に答えた。
「まあ……そうだったの。大変だったわね。もし何か話したいことがあれば、いつでも聞くわよ?」
「ありがとうございます。でも、もう終わったことですから」
私は笑顔で、それ以上の追及をやんわりと拒絶した。もしここで「夫に別の女性がいて」などと詳しく語ってしまえば、どこかであの日の窓口の出来事と結びつけられる危険がある。利益相反を申告して担当を外れた意味がなくなってしまう。
自分の口を固く閉ざし、私生活と仕事の境界線をきっちりと引く。
私はすぐに自席につき、新たに割り当てられた別案件の調停資料の点検へと没頭した。複雑に絡み合った夫婦の財産目録を読み解き、時系列を整頓していく。仕事の枠組みの中に身を置いている間だけは、私はただの専門職でいられる。その事実が、私を強く支えていた。
翌、九月十四日。
待合室の廊下で、営繕局のシオン・ヴァレンと短い立ち話をした。
「ヴァレン設計官。昨日の改修案ですが、間仕切りの角度をもう少しだけ内側に倒すことは可能ですか。来所者が立ち上がった際、隣の窓口の視線と交差するのを防ぎたいのです」
「……なるほど。五度ほど内角に振れば、避難幅の規定には抵触せずに視線を遮れるな」
来所者のいる廊下では身分証を上着の内側へ収めていた。シオンもここでは「エステル書記官」と呼ぶが、職員だけの打ち合わせでは、もう私をリンド書記官と呼んでいた。先日、運河の橋で私から直接伝えた事実だけで、彼にとっては十分なのだろう。
「ただし、角度を変えると音の反響の仕方も変わる。今日の閉庁後、もう一度声量試験に付き合ってくれないか」
「ええ、構いません。現場の感覚と図面の数値を、しっかりとすり合わせておきましょう」
シオンとのやり取りは、無駄な感情の摩擦がなく、パズルのピースがはまるように職務上の判断がピタリと符合する。
彼と図面を見つめ合っていると、単なる業務上の連携を超えた、確かな「相棒感」のようなものを感じた。私は自分の名前を取り戻し、仕事を手放さなかった。その充実感が、胸の奥底から静かに湧き上がってくるのを感じていた。
* * *
その夜、王都の南区の料理店で。
ロラン・アレンは、王都の南区にある小洒落た料理店の個室で、ノエラと向かい合っていた。
妻との面倒な手続きがすべて完了し、一昨日、正式に離縁が成立した。ロランの胸にあるのは、重荷を下ろした解放感と、これからの新しい生活への期待だけだった。
「ノエラ。これでようやく、君を正式に僕の家に迎えられる」
ロランはワインの入ったグラスを傾け、甘い声で囁いた。
「今月いっぱいで商会の繁忙期も落ち着く。そうしたら、二人で新しい家具を見に行こう」
しかし、向かいに座るノエラの表情は硬かった。彼女はグラスに口をつけることもなく、ロランを冷ややかに見つめていた。
「……ロラン。一つ、確認させてください」
「なんだい? 何でも言ってくれ」
「私と付き合い始めた時、あなたは『妻とは交際前から別居していて、離縁には同意済みだ。あとは書式の手続きを待っているだけだ』と言いましたよね」
ロランは内心で舌打ちをした。なぜ今になってそんな蒸し返しをするのか。
「ああ、言ったとも。だからこうして、予定通りに別れたじゃないか」
「以前、別居の事実を証明する書面があるとおっしゃっていましたね。私を安心させるために。その書面、今ここで見せていただけますか」
ノエラの声は静かだったが、有無を言わさぬ響きがあった。
ロランは一瞬ためらった。今夜は約束どおり離縁した証明を見せようと、成立証書を、申立ての控えを入れた紙挟みに収めて持ってきていた。別居の紙まで求められるとは思わなかったが、以前、自分から書面があると言った手前、今さら見せないとは言いにくい。
日付が新しいのは、離縁の申立てに合わせて書面を整えたからだと言えば通る。妻の署名と成立証書があれば、ノエラも安心するはずだ。
「書面にしたのは最近だけれど、前からそういう話だったんだ」
先にそう言い添え、署名時の『別居確認書』の控えを取り出した。翌朝の荷物と鍵の引渡しを記した別紙は、家に置いてきていた。
「ほら、これだよ。妻も納得して家を出ていったんだ」
ノエラはその書類を手に取り、まず日付に目を落とした。店で帳付けをする時と同じように、その下の文面も、一行ずつ確かめていく。
「九月五日。私たちが交際を始めてから、ずいぶん後ですね」
彼女の指先が、日付の下で止まった。
「しかも、ここには『翌朝、荷物と鍵を引き渡して別居を開始する』とあります。以前からの別居を確認する書面ではないのですか?」
ロランの背筋に、冷たい汗が流れた。日付が遅い理由を言えば済むと思っていた。だが、ノエラが指しているのは、妻がいつまで家にいたのかという、曖昧にしてきた事実だった。
「そ、それは……実質的には、もっと前から別々だったんだよ」
「奥様の署名がありますね。エステル・アレン」
ノエラは、署名欄の文字をなぞるように見つめた。
「実質的には、というのは、一緒に暮らしていたということですか。奥様も、私たちの交際前から別れることに同意していたのですか?」
「……同じ家にはいた。でも、僕の気持ちは決まっていたんだ。妻に話したのは、君と付き合い始めてからだけれど」
ノエラの指が、紙の上で止まった。ロランは失言に気づき、取り繕おうとした。だが、焦るほどに声が荒くなった。
「仕方がなかったんだ! エステルは王都婚姻調停所の書記官なんだぞ。世間体や自分の職場の立場を気にして、話し合いをわざと長引かせたんだ。僕だって被害者なんだよ!」
その瞬間、ノエラの顔からすべての血の気が引いた。
「……調停所の、書記官」
「あの窓口の、エステルさん……」
ノエラが呟いた。ロランには何のことか分からなかった。
「私たちが交際を始めた時、奥様にはまだ別れる話さえしていなかった。それなのに、私には同意済みだと言ったのですね」
彼女は書面を置いた。ロランは訂正しようと口を開いたが、自分が今認めた言葉を取り戻すことはできなかった。
「ノエラ? どうしたんだ、急に黙り込んで」
ロランが手を伸ばそうとした時、ノエラは静かに彼の手を振り払った。
彼女は自分の指から、ロランに買ってもらった銀の指輪を外し、別居確認書の上に音を立てて置いた。
「奥様がようやく別れてくれた、という話ではなかったのですね。私は、あなたとの約束を終わりにします」
「な、何を言っているんだ! 僕は君のために――」
「私に嘘をつき、奥様を裏切り、その責任を奥様の世間体のせいにする。そんな方と一緒に新しい家具を選ぶ気にはなれません」
ノエラは椅子から立ち上がった。彼女の瞳は潤んでいたが、差し出された彼の手に戻ることはなかった。
「さようなら、ロラン」
ノエラは個室の扉を開け、振り返ることなく去っていった。
後に残されたのは、ロランと、彼自身の嘘を証明する一枚の書類だけだった。
エステルは、この王都の片隅で行われた会話を、一切知らない。




