↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁調停所の書記官ですが、今日の相談者は夫の愛人でした――仕事は辞めません。あなたとは別れます  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/27

第11話 離れたいと言っていない

私が旧姓である「リンド」の身分証を懐に収めて働き始めてから、数日が過ぎた九月十五日。


 王都婚姻調停所の中央所には、今日も重い足取りで多くの夫婦が訪れていた。


 私は受付窓口での本人確認と安全希望の点検を終え、第三面談室に記録係として入室した。本日の案件は、木工職人のトールと、その妻ミーナの調停だ。


 調停官を挟んで行われる個別聴取の場。先に面談室へ通された妻のミーナは、まだ三十歳だというのに酷くやつれ、目の下には濃い疲労の色が張り付いていた。


「それでは、奥様。本日の申立てに至った経緯を、ご自身の言葉でお話しいただけますか」


 年配の担当調停官が穏やかに促すと、ミーナは膝の上で固く手を握りしめ、ぽつりぽつりと話し始めた。


「……もう、限界なんです」


 彼女の声は微かに震えていた。


「夫は毎日、夜勤ばかりで……朝、私が働きに出る頃に帰ってきて、夜、私が帰宅する頃にはもう仕事に出ています。ここ半年、まともに顔を合わせて会話をした記憶すらありません」


 私は手元の羊皮紙に、彼女の発言を速記の記号で書き留めていく。


「ご主人の夜勤には、何か特別な理由があるのですか?」


 調停官の問いに、ミーナはぽろぽろと涙をこぼしながら頷いた。


「夫のご両親が重い病に倒れ、その治療費と介護費を稼ぐために、無理をして夜勤を増やしているんです。夫も疲れ切っているのは分かっています。私だって、昼間は工房で必死に働いて、家計を支えようとしています。でも……」


 ミーナは両手で顔を覆った。


「家に帰っても誰もいなくて、冷たいパンを一人で囓って……。夫が親を大事にするのは正しいことです。だから、私は彼を責めることすらできない。ただ一人で、暗い部屋で孤独に耐えるしかないんです。こんな生活、もうこれ以上は続けられません」


 嗚咽を漏らす彼女の姿を見つめながら、私の胸はギュッと締め付けられていた。


 彼女の苦しみは、痛いほどよく分かった。話し合いすらできず、相手の都合に合わせて自分の生活がすり減っていく感覚。それは、つい数日前まで私がロランとの生活で味わっていたものと同じだった。


 私は別居に踏み切り、離縁を成立させたことで、あの冷たい食卓の孤独から解放された。我慢をやめて、相手との関係を断ち切ったことで、私は自分自身の呼吸を取り戻したのだ。


(この人も、早く楽にしてあげなければ)


 私は無意識のうちに、自分の経験と解放感をミーナの涙に重ね合わせていた。


 こんなにも限界まで追い詰められているのなら、答えは一つしかない。私は手元の仮メモに、彼女の涙ながらの訴えを要約して書き込んだ。


『申立人は夫の不在と孤独により心身の限界を迎えている。現行の生活の継続は不可能であり、離縁を強く希望している』と。


 ミーナの感情が落ち着くのを待つ間、調停官は彼女の承諾を得て、別室のトールに休憩と今後の聴取順を伝えに向かった。私は短い休憩時間をもらい、面談室を出て廊下の窓際で冷たい空気を吸い込んだ。


「エステル書記官」


 声をかけられ振り向くと、営繕局のシオン・ヴァレンが図面の束を抱えて立っていた。彼は待合室の柱の寸法を確認しているようだった。


「ヴァレン設計官。改修案の調整ですか?」


「ああ。予算内に収めるために、少しだけ間仕切りの配置をいじっているところだ」


 シオンは図面を広げ、自分の引いた線を指でなぞった。


「設計をしていると、時々自分の悪い癖が出そうになる」


「悪い癖、ですか」


「ああ。暗くて息苦しそうな空間を見ると、つい図面に勝手な出口を描いてしまいたくなるんだ。早くそこから外へ出してやらなければと、技術者の驕りで導線を引いてしまう」


 彼は自嘲するように、少しだけ口角を上げた。


「だが、利用者が求めているのは外へ通じる出口ではなく、ただ一息ついて休める『椅子』かもしれないのに。他人の人生の歩幅を、設計者が勝手に決めてはいけない」


 私はハッとして彼を見た。


 シオンはあくまで建築動線の話をしているだけだった。彼には面談室の中の事情など一切聞こえていない。だが、その『図面に勝手な出口を描く』という言葉の響きが、なぜか私の心の柔らかい部分に深く突き刺さった。


「……そうですね。私たちが用意できるのは、選ぶための場所だけですから」


 私は自分に言い聞かせるように呟き、シオンに軽く会釈をして面談室へと戻った。


 調停官が戻り、再びミーナと向き合った。


 調停の規則として、書記官が記録した内容は、正式な書類として確定させる前に必ず本人の前で『読み返し』を行い、訂正がないかを確認しなければならない。


「それでは、先ほどの奥様のお話を当方の書記官がまとめました。内容に相違がないか、お聞きください」


 調停官の合図を受け、私は手元の仮メモを読み上げ始めた。


「申立人は、夫の夜勤によるすれ違いと孤独な生活により、心身の限界を迎えています。夫の介護費負担という事情は理解しつつも、これ以上の生活の継続は不可能であると判断し……」


 私は、自分の書いた最後の決定的な一文を読み上げた。


「――現在の婚姻関係の解消、すなわち離縁を強く希望している。以上でよろしいでしょうか」


 その瞬間だった。


 俯いて涙を拭っていたミーナが、弾かれたように顔を上げた。赤く腫れた目が、驚きと戸惑いで大きく見開かれている。


「え……?」


 ミーナは震える声で呟き、それから、すがりつくように激しく首を横に振った。


「違います。そんなこと……!」


 私は言葉に詰まった。彼女の苦しみを汲み取り、正しく代弁してあげたはずだった。なのに、彼女は怯えたような目で私を見つめていた。


「限界だとは言いました。寂しくて、悲しくて、もうどうしていいか分からないとは言いました。でも……」


 ミーナは両手を胸の前で強く組み、はっきりと告げた。


「私は、別れたいと言ったのではありません」


 静まり返った面談室に、彼女の悲痛な声が響いた。


 私は手元の仮メモに書かれた『離縁希望』という自分の文字を見つめた。シオンの言葉が脳裏に蘇る。


 私は、彼女の言葉を聞いていなかったのだ。自分の経験という勝手な物差しで、彼女の人生の図面に、私が正しいと信じ込んだ『出口』を無理やり描き込んでしまっていたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。