第12話 訂正印は、私が押す
翌日の九月十六日。監督書記長室に呼び出された私の目の前には、昨日私が作成したミーナの個別聴取記録の仮メモが置かれていた。
そこには、ディナ監督書記長の朱塗りのペンで、はっきりと取り消し線が引かれていた。
「エステル。あなたが昨日記録した『離縁を強く希望している』という一文について、当事者本人から読み返しの段階で明確な否定があったと調停官から報告を受けました」
ディナの冷たく、しかし静かな声が部屋に響く。
「はい。私の、推測による誤記です」
私は両手を膝の上で固く握りしめ、正直に答えた。
「本人は限界だとは言いましたが、離縁という言葉は一度も口にしていません。私が、彼女の涙を見て……早く楽にしてあげたいという思いから、言葉を先回りしてしまいました」
「書記官の同情や推測を、発言記録に混ぜてはなりません」
ディナは厳しい視線を私に向けた。
「私たちは裁判官ではありません。他人の人生の結論を勝手に出してはいけない。本人がまだ迷っているのなら、その『迷っている』という状態のままを正確に記録し、保護するのが私たちの仕事です。あなたの個人的な経験や感情を、相談者の記録に投影することは許されません」
「……申し訳ありませんでした」
返す言葉もなかった。自分がロランとの離縁によって得た解放感を、無意識のうちにミーナに押し付けていたのだ。職業的な誇りが音を立てて崩れ落ちるような感覚だった。
「この記録は、監査履歴付きで差し戻します。推測で書いてしまった箇所にあなたが自ら訂正印を押し、正しい発言を書き直しなさい。訂正の責任はあなたが負います。ただし、今後も担当するかは別の話です。本人が交代を望むなら、その意思を優先します」
数十分後。第三面談室で再びミーナと向き合った私は、彼女の瞳に明らかな不信感が宿っているのを感じた。
無理もない。自分の最も苦しい胸の内を吐き出した相手が、勝手に『離縁』という極端な結論を書類に書き込んでいたのだ。
「あの……」
ミーナは不安そうに私と調停官を交互に見て、小さな声で言った。
「もし可能なら、別の書記官の方に代わっていただくことはできませんか。私がうまく伝えられないせいで、また違う風に書かれてしまうのが怖くて」
その言葉は、私の胸を鋭く抉った。だが、私が信頼を取り戻したいからといって、彼女を引き止めてはいけなかった。
「奥様」
私は席を立ち、彼女の正面で深く頭を下げた。
「昨日は、本当に申し訳ありませんでした。奥様がうまく伝えられなかったのではなく、私が、自分の勝手な推測で奥様の言葉にない結論を書き込んでしまったのです」
頭を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
「私が間違えました。記録の訂正は、責任を持って行います。これからの聞き取りは、別の書記への交代を手配できます」
調停官も頷き、「希望を変えても、不利益はありません」と告げた。
ミーナはしばらく私を見つめ、それから書類に目を落とした。
「まず、間違ったところを直してください。その後のお話も、一文ずつ確かめながらなら……今日は、この方でお願いします」
すぐに許されたわけではない。私は頷き、ペンを取り直した。
私は調停官の立ち会いのもと、彼女の言葉を一つ一つ、今度こそ正確に拾い上げていく。「限界である」「孤独に耐えられない」「しかし、夫を責めることもできない」――。
私は差し戻された書類の『離縁を強く希望している』という箇所に二重線を引き、私自身の名前が刻まれた訂正印を強く押した。
そして、その横に書き加えた。
『生活環境の変更を求めているが、現在の婚姻の継続については未決である』
「奥様。調停所でできることは、離縁だけではありません」
調停官が、私の記録を受けて優しく語りかけた。
「たとえば、一定期間の別居を合意して冷却期間を置くことや、ご親族の介護負担について話し合いの場を持つことも可能です。結論を今すぐに出す必要はありません」
ミーナの目から、昨日とは違う、少しだけ安堵したような涙がこぼれ落ちた。
昼の休憩時間。私は冷たい風の吹く中庭のベンチで、一人で冷めたパンを囓っていた。
自分の未熟さに打ちのめされ、砂を噛むような味がした。
「隣、いいか」
聞き慣れた低い声に顔を上げると、営繕局のシオンが立っていた。彼の手には、いつもの図面と、昼食を包んだ紙袋があった。
「ヴァレン設計官……ええ、どうぞ」
彼が腰を下ろすと、少しだけ木材とインクの混じったような匂いがした。
「……昨日、あなたが言っていた『図面に勝手な出口を描いてしまう』という言葉の意味が、少しだけ分かった気がします」
私は、彼の方を見ずにぽつりと言った。もちろん、相談者の名前や具体的な案件の内容は一切出さない。ただ、私自身が犯した失敗の形だけを一般化して語った。
「苦しんでいる人を見て、私が勝手に結論という名の出口を作ってしまった。相手はただ休みたいだけかもしれないのに、無理やり外へ引っ張り出そうとして……ひどく傷つけてしまいました」
普通なら、ここで「誰にでも間違いはあるさ」とか「君はよくやっている」といった慰めの言葉が返ってくるだろう。だが、シオンは違った。
「僕も昔、同じような失敗をしたことがある」
彼は前を向いたまま、淡々と話し始めた。
「公共施設の階段を設計した時のことだ。僕は法令の基準と効率だけを信じて、最も『正しい』と思われる完璧な段差と幅の図面を引いた。だが、実際にそこを利用した高齢者たちにとっては、僕の引いた段差は高すぎて、歩幅にまったく合っていなかったんだ」
シオンは自嘲するように少しだけ目を細めた。
「図面の上では正解でも、利用者の足に合わなければそれはただの障害物だ。僕は自分の設計誤差を認め、もう一度すべての段差を測り直して工事をやり直した。……自分の引いた線を消すのは、ひどく骨が折れたよ」
その言葉は、変な慰めよりもずっと深く私の心に染み渡った。
彼は自分の弱さや失敗を隠そうとしない。技術者としての責任を直視し、間違えたなら測り直せばいいと、彼自身の経験を通して教えてくれたのだ。
「……私も、訂正印を押してきました」
「そうか。次も、確かめながら測ろう」
シオンは短く答え、パンの残りを口に放り込んで立ち上がった。彼のその適度な距離感と、専門職としての厳しい誠実さに、私はどうしようもなく惹かれ始めている自分を自覚していた。
午後。再び第三面談室に戻り、私はミーナに新しい記録の読み返しを行った。
「――生活環境の変更を求めているが、現在の婚姻の継続については未決である。以上で、相違ありませんか」
私の言葉を聞き終えたミーナは、赤く腫れた目で、しかしはっきりと頷いた。
「はい。そう、それが私の言いたかった言葉です」
自分の曖昧な苦しみが、勝手な結論に歪められることなく、そのままの形で正しく書類になったこと。それが彼女に、自分自身と向き合うための少しの余白を与えたようだった。
彼女は訂正印の押された書類をじっと見つめ、やがて顔を上げた。
「私……もし、少しだけ彼と離れて暮らす時間を持てるなら。私自身がゆっくり眠って、一人でパンを食べなくて済む場所を持てるなら……」
ミーナは、小さく、けれど確かな声で言った。
「もう一度、彼と話せるかもしれません」
それは、彼女の口から初めてこぼれ落ちた、自分自身の前向きな希望だった。




