第13話 離縁しないための、別居
私が自分の手で訂正印を押した面談から数日が経過した、九月十八日。
第三面談室には、木工職人のトールと妻のミーナが並んで座っていた。前回の面談では限界だと泣き崩れていたミーナの顔には、まだ疲労は残っているものの、確かな落ち着きが戻っていた。
「お二人の意思を確認いたします」
担当調停官が穏やかな声で切り出した。
「婚姻は継続したまま、本日から二か月の別居期間を設ける。その間、ご主人は夜勤の回数を減らし、ご親族を含めて介護の分担を再調整する。そしてお二人は月に二度、中立な場所で面談の機会を持つ。……この合意内容で相違ありませんか」
「はい。間違いありません」
トールが深く頷き、ミーナも「お願いします」と静かに答えた。親族との介護分担は昨夜話し合い、夜勤を減らした後の費用も、二人で見直してきたという。ミーナはこの二か月、姉の家に身を寄せることになっていた。
私は手元の羊皮紙に、彼らの言葉を正確に記録していく。
彼らが選んだのは、婚姻の終わりではなかった。互いが共倒れにならないための、そしてもう一度相手の顔を真っ直ぐに見るための、物理的で切実な『距離』の確保だった。
「ちょっと待ってください!」
いざ合意書を作成しようという段になって、面談室の扉が開き、待合室にいたトールの伯母が顔を覗かせた。
「二か月も別居だなんて、そんな中途半端なこと。世間体が悪すぎます。別れるのか、このまま家に残って妻として夫を支えるのか、白黒はっきりさせるべきでしょう!」
伯母の背後では、ミーナの親族も「そうだ、こんな状態を長引かせるくらいなら今すぐ別れろ」と声を上げている。彼らにとって、夫婦とは『同居して添い遂げる』か『赤の他人に戻る』かの二択しかないのだ。
トールとミーナが、親族の圧力に顔をこわばらせた。
調停官が聞き取りを止め、案内係を呼んだ。私はその指示で席を立ち、扉の前で親族たちと向き合った。
「ご親族の皆様、いったん待合室へお戻りください。今はお二人の意思を確認しているところです」
私の声は、低く、しかし面談室の隅々まで通るように響いた。
「お二人が望まれない同席はできません。付き添いの方のお話を伺うかどうかも、ご本人に確認いたします」
案内係に促され、親族たちは渋々といった様子で扉の向こうへ下がっていった。調停官は二人に、今の言葉を聞いても希望に変わりはないか、別々に確かめた。
私は席に戻り、作成した合意書を二人の前に差し出した。
「この合意書には、二か月後に必ず復縁するという文言は入れていません。期間の延長や、その他の結論を望む場合は『再相談とする』と記してあります」
私はペンを渡し、二人の顔を交互に見た。
「今ここで、二か月後の答えまで決める必要はありません。内容がご希望どおりか、もう一度確かめてから署名してください」
二人は顔を見合わせ、やがて小さく微笑み合いながら、それぞれの名前を書き入れた。
離縁だけが唯一の正解ではない。自分たちで距離を決め、時には立ち止まることが人を救うこともあるのだと、彼らの署名が私に教えてくれていた。
その日の退勤後。
私は王都の運河沿いにある、少し古びた安い茶店にいた。木製の小さな丸テーブルの向かいには、営繕局のシオン・ヴァレンが座っている。
仕事の後に、こうして彼と向かい合ってお茶を飲むのは、これが初めてだった。
「……間違った記録を直しても、それだけで信頼が戻るわけではないのですね」
私は両手で温かい陶器のカップを包み込みながら、ぽつりと言った。誰が何を選んだかは話さず、自分の反省だけを言葉にした。
「謝ったら、もう一度任せてほしいと思ってしまう。その願いまで、相手に背負わせてはいけないのに」
カップの湯気越しに見るシオンの顔は、いつも通り静かで、私の言葉を遮ることなく聞いてくれていた。
「私は、正しさを急ぎすぎたんです。私自身が……ある決断をして、それでひどく救われたから。自分が選んだ道が、他の誰かにとっても一番正しい出口だと思い込んでしまっていた」
それは、書記官としての反省であると同時に、エステル・リンドという一人の女としての懺悔でもあった。
シオンは自分のカップを持ち上げ、ゆっくりと茶を飲んだ。
「建物の設計でも、一番難しいのは『遊び』の部分を作ることだ」
彼は窓の外の、薄暗くなり始めた運河のゆらめきを見つめながら言った。
「動線を最短距離で結ぶだけなら、誰にでもできる。だが、歩き疲れた人間がふと立ち止まれる踊り場や、少しだけ雨風をしのげる軒下の空間を作るには、設計者の想像力が要る」
シオンは視線を私に戻し、真っ直ぐに私の目を見た。
「距離を測り直すための時間を取ることは、逃げじゃない。君はこれから、相手が立ち止まれるだけの間を待つんだろう。僕も、そうありたいと思う」
彼の不器用で、けれど一緒に考えてくれる言葉が、冷えていた私の体の奥をじんわりと温めていく。
この人は、私の弱さを責めない。ただ事実を受け止め、技術者の言葉でそっと私の背骨を支えてくれる。
「……ありがとうございます。シオンさん」
私が初めて彼の名で呼ぶと、彼は少しだけ驚いたように目を見開き、やがて照れ隠しのようにカップの底を見つめた。
私たちの中にある、この静かで心地よい距離感。これもまた、お互いが選んだ大切な余白なのだと、私は思っていた。
だが、調停所の扉は、感傷に浸る隙を与えてはくれない。
数日後。私の座る二番窓口に、新たな三人連れがやってきた。
三十代半ばほどの夫婦と、その間に立つ、九歳くらいの小さな少女だった。
夫婦は激しく言い争っているわけではない。互いに何か言いかけては、間に立つ少女を見て口を閉じていた。
「離縁の手続きについて伺いたい。二人で別れることには同意しています。ただ、娘の暮らしについて相談したくて」
父親と思しき男性が、ひどく事務的な声で言った。母親のほうも、少女の肩に手を添えて頷いている。
大人たちが淡々と書類の手続きを進めようとする中、間に立たされた少女だけが、不安そうに両親の顔を交互に見上げていた。
やがて少女は、窓口の向こう側にいる私とバッチリ目を合わせた。彼女の小さな手が、カウンターの縁をぎゅっと掴む。
「あの……」
少女は、大人たちの冷たい空気に怯えながらも、必死に声を絞り出した。
「私は、ここにいていいの?」
その切実な問いかけが、調停所の高い天井に小さく響いた。
夫婦の別れは、当事者二人だけの問題では終わらない。大人の都合で引かれた図面の枠に収まりきらない、もう一つの命の居場所をどう記録するのか。
私は姿勢を正し、新たな申立用紙を静かに引き寄せた。




