第14話 子どもを、書類の欄にしない
九月二十一日の午前。王都婚姻調停所に、サラとノルドという三十代半ばの夫婦が、九歳になる娘のユイを連れてやってきた。
第三面談室で向かい合う夫婦の間に、いがみ合うような険悪な空気はない。夫のノルドが遠方の港町へ就業地を移すことになり、妻のサラは王都での仕事を続けたかった。別居婚も考えたという。だが、任地を変えながら働きたい夫と、ここに生活を築きたい妻とでは、その先に望む暮らしも違っていた。何度も話し合い、離縁そのものには合意している。
だが、ただ一つだけ、どうしても折り合いのつかない問題があった。
「俺の赴任先は海風が気持ちいい、子供が育つには最高の環境です。向こうの学校にも手配は済ませてあります。ユイは俺が引き取ります」
「何を言っているの。この子は王都で生まれ育ったのよ。突然知らない土地へ連れて行くなんて可哀想だわ。私がこのまま王都で育てます」
二人とも、自分の考えた暮らしの利点を懸命に説明していた。その間、娘が何も言えていないことに気づいていないようだった。
二人の間に座る九歳のユイは、自分の名前が呼ばれるたびにビクッと肩を揺らし、膝の上で小さな手を強く握りしめていた。
「ほら、ユイ。お前はどうしたい? お父さんと海を見に行きたいだろう?」
「ユイ、お母さんと一緒に王都に残りましょうね?」
両親の視線が、一斉に少女へと突き刺さる。ユイは固く口を閉ざし、床の木目を見つめたまま、ただ首をすくめるだけだった。
私は記録用の羊皮紙にペンを滑らせながら、奥歯を噛み締めた。
前回のミーナの案件での失敗が、私の心に深く刻まれている。あの時、私は相手の苦しみを推測し、勝手に「離縁希望」という出口を書類に書き込んでしまった。
だから私は、この凍りついたような少女に向かって「本当はどちらと暮らしたいの?」と問いただすような真似は、絶対にしないと決めていた。大人の顔色を窺う子供の沈黙を、安易な二択の答えで埋めてはならない。
「ご両親にお願いいたします」
私は調停官に目配せをし、記録係の立場から静かに発言した。
「当調停所では、お二人の離縁や財産の合意についてはこのまま記録を進めます。しかし、ユイちゃんの主たる居所については、ここで結論を急ぐべきではありません」
「どういうことですか。私たちの離縁はもう決まっているのに」
「子供の居所については、大人の都合とは切り離して慎重に判断されるべき事柄です。お二人の前では、ユイちゃんは本音を言いづらいはずです。ですので、婚姻裁判院から専門の『児童聴取官』を呼び、ユイちゃん一人から直接お話を伺うよう手配させてください」
専門機関を挟めば、当然手続きの進行は遅れる。赴任前に娘の暮らしを決めたかった両親は不安そうな顔をしたが、担当調停官も私の提案を支持してくれたため、渋々といった様子で同意の署名をした。
時間はかかってもいい。子どもを、大人のための書類の欄に無理やり押し込めるようなことだけはしたくなかった。
児童聴取官が裁判院から到着するまでの間、両親とユイを分離して待機させる必要があった。さらに、両親同士も互いの圧力を避けるため、別々の場所に座らせなければならない。
私は、先日営繕局のシオンが置いていった『仮設の待機椅子案』の図面を手に、廊下へと出た。
ちょうどそこへ、木材と測量器具を持ったシオン本人が現れた。
「ヴァレン設計官。子ども連れの方も、互いの視線を避けて待てる配置が必要です。一般動線の仕様として、例の椅子の案を確かめたいのですが」
シオンは私の手にある図面と、面談室の扉を交互に見た。
「構わないが……少し配置を変える。この図面の通りに椅子を離して置くだけでいいか?」
「いえ」
私は、面談室の中で怯えていたユイの顔を思い浮かべて首を振った。
「ただ椅子を物理的に離すだけでは不十分です。子どもの低い目線からも、別の待機席が見えないようにしたいのです。互いの視線を遮るための、短い壁――目隠し用のパネルが必要です」
私の現場からの要求に対し、シオンは面倒くさがる素振りも見せず、「視線の遮断だな。分かった」と短く応じ、すぐに待合室の空間計算を頭の中で回し始めた。
この日は裁判院の児童聴取官が別件で庁内に来ており、調停官が空き時間を確認して正式に依頼した。待機には空いている面談室を使い、ユイには担当職員が付き添った。
その日の午後、児童聴取官によるユイだけの単独面談が終わった。
担当調停官に提出された報告書には、大人の思い込みを覆す事実が記されていた。私はこの案件の記録係として、調停官の指示のもと、合意事項の整理に必要な希望の部分を確認した。
『児童は、父親か母親のどちらかを選ぶことについては明確な意思を示していない。児童の最も強い希望は、現在の学校を転校せず、仲の良い友人たちと別れないことである』
ユイは「どちらの親が好きか」で悩んでいたのではなかった。自分の小さな世界である学校と友達を失いたくないと、ただそれだけを願っていたのだ。親の都合で引かれた二択の問いには、最初から彼女の求めている答えはなかった。
調停官は報告書を受け取り、正式な説明の場を裁判院と調整すると告げた。娘の言葉を二人で聞く時間は、これからだった。
私はホッと息を吐いた。勝手に結論を急がず、専門家の手と時間を借りて本当に良かった。
だが、安堵したのも束の間、廊下からシオンの舌打ちが聞こえてきた。
私が慌てて待合室へ向かうと、シオンが仮設のパネルと椅子を置き、メジャーで通路の幅を測り直しているところだった。彼の表情は、これまでに見たことがないほど険しかった。
「どうしたのですか?」
「……駄目だ」
シオンはメジャーを巻き取り、自分の引いた図面を睨みつけた。
「君の提案通り、視線を遮るためのパネルを設置して椅子を配置してみた。だが、そうすると、この柱とパネルの間の通路幅が、法令で定められた『避難有効幅』を下回ってしまう」
「え……? でも、事前の計算では収まるはずだったのでは」
「僕の初回の測量が甘かったんだ」
シオンは誤魔化すことなく、きっぱりと言い切った。
「壁の厚みと、人が座った時の足元の余裕分を見落としていた。このままでは、二組の親子を安全に分けて待機させることはできない。火災でも起きれば、このパネルが逃げ道を塞ぐ障害物になる」
予算のせいにも、建物の古さのせいにもしなかった。彼は技術者として、自分自身の「測り間違い」を誰のせいにもせずに認めたのだ。
シオンは、自分の手で描き上げた図面を二つに破り捨てた。
「図面は捨てる。最初から測り直しだ。安全な待機場所ができるまで、もう少しだけ時間をくれ」
そう言って再びメジャーを伸ばす彼の背中を見つめながら、私は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
間違いを認め、最初からやり直すことができる人。その実直な姿勢が、私の中で彼への信頼をさらに深く、揺るぎないものにしていた。




