第15話 片方を選ばせない椅子
九月二十三日の朝。開庁前の静かな王都婚姻調停所の待合室に、乾いた木材のぶつかる音が響いた。
営繕局の動線設計官であるシオン・ヴァレンが、計測用の短い見本パネルを三枚と、配置印の札を抱えて立っていた。どれも営繕局から一時的に持ち込んだ検証用の備品だ。
「リンド書記官。頼まれていた分離待機用の仮設パネルだ。これで動線のテストをしよう」
「朝早くからありがとうございます、ヴァレン設計官」
私は彼に頭を下げ、一緒にパネルを運び始めた。
先日、両親の離縁の間に立たされて押し黙ってしまった九歳の少女、ユイ。彼女のような立場の来所者を守るため、私は「対立する当事者同士が、互いの視線を感じずに待機できる空間」の確保をシオンに依頼していた。
もちろん、シオンにはユイの名前も、親権で揉めているという個別の事情も一切伝えていない。これはあくまで、一般的な来所者の安全と保護を目的とした公的な動線の検証である。
私たちは、待合室の隅にパネルを立て、その陰に長椅子を配置してみた。私はユイが座っていた時と同じように身をかがめ、受付窓口や反対側の待合席からこちらが見えないかを確認する。
「もう少し、パネルを左へ。はい、そこです。これなら、向こうからは完全に死角になります」
私が満足して立ち上がると、シオンは手元のメジャーを巻き取りながら、小さく息を吐いた。
「……駄目だ。リンド書記官、この配置案は拒否する」
「先日より通路側へ出てしまいましたか。視線は遮れたのですが……」
「視線はな。だが、パネルをここまで通路側に迫り出させると、正面玄関への動線が極端に狭くなる」
シオンはパネルと柱の間の狭い隙間を指さした。
「僕の測り直しでも確認したが、これでは法令で定められた火災時などの『避難有効幅』を満たせない。安全上の理由から、この位置に壁を作ることは認められない」
シオンの技術者としての指摘は、冷徹で正しかった。しかし、現場の窓口で相談者の震える声を聞いている私にも、譲れないものがあった。
「パネルを短くして隙間を広げれば、待機している人の視界に、対立する相手の姿が入ってしまいます。相手の視線を感じたままでは、恐怖で本当の意思を口にできない人もいるのです。物理的な安全はもちろん大切ですが、心理的な保護も同じくらい必要なのです」
「心理的保護のために、実際の火災で人が逃げ遅れてもいいと言うのか?」
「そうは言っていません。両方を満たす配置があるはずだと言っているのです」
私たちは互いに一歩も引かず、静かな待合室で睨み合った。
「……言葉だけで言い合っても平行線ですね」
私は小さくため息をつき、自席から数枚の書類の束を持ってきた。
「実際の混雑時の動きをやってみましょう。私が相談者役になり、案内から面談室への移動、そして突然の避難指示が出た場合の動きを実演します。ヴァレン設計官は、その動きを見てから判断してください」
私は玄関から入り直すと、受付を済ませて待機用の椅子に座り、そこから面談室へ向かう動きを何度も繰り返した。わざと大股で歩いたり、すれ違いざまに肩がぶつかるような混雑状況を再現したりした。
シオンは腕を組み、鋭い目で私の動きを追っていた。
私がパネルの陰に座り、「もしあの向こうに、自分を監視する夫が座っていたら」という想定で身体を強張らせてみせると、彼の眉間から少しだけ険しさが消えた。
同時に私自身も、実演してみてシオンの懸念を肌で理解していた。もし今ここで火災の鐘が鳴り、大勢の人がパニックになって出口へ殺到すれば、私の提案したパネルの位置では確実に人が詰まり、転倒者が続出するだろう。
「……やはり、どちらか一方の案を通せば、もう一方が犠牲になりますね」
実演を終えた私が息を切らしながら言うと、シオンは無言で頷き、窓口のカウンターに改修図面を広げた。
「安全か、安心か。二者択一にしてはいけない。必ず別の解があるはずだ」
私たちは図面を挟んで頭を突き合わせた。
「この張り出しの分は、使えないでしょうか」
「そこは柱だから動かせない。だが、もしこっちの――」
次の瞬間。図面上の同じ箇所を指し示そうとした私の右手の上に、シオンの左手が重なった。
少しごつごつとした、熱のある技術者の手。
ハッとして顔を上げると、至近距離に彼の灰色の瞳があった。
「……っ、失礼」
「いえ……すみません」
私たちは弾かれたように、互いの手を引っ込めた。
心臓が不自然なほど大きな音を立てていた。彼もわずかに視線を逸らした。それが照れなのか、私と同じ戸惑いなのか、確かめる勇気はなかった。私自身も、彼に対する特別な感情を隠しきれなくなりつつある。
だが、ここは王都婚姻調停所であり、私たちは今、公的な任務の最中なのだ。不適切な職場での親密さは、互いのプロとしての信頼を損なうだけだ。
気まずい沈黙を振り払うように、シオンがペンを握り直した。
「……リンド書記官。パネルの角度を、変えよう」
シオンは、図面の上に迷いのない線を引いた。
「僕の最初の案も、君の出した壁の案も捨てる。パネルを直線に置くのではなく、斜めに三十度振る。そして、待機用の椅子の向きを互い違いに配置するんだ」
私は彼が引いた線を見て、小さく感嘆の声を漏らした。
「これなら……」
「ああ。斜めに配置することで避難用の有効幅は確保できる。そして、椅子の向きを変えれば、互いの顔が直接見えることはない。視線も切れるし、動線も塞がない」
私たちはすぐに仮設パネルを動かし、シオンの新しい図面通りに配置し直した。
試した動きの範囲では、安全な幅を保ちながら視線も遮れた。どちらか片方を犠牲にするのではなく、物理的な安全と心理的な保護の両方を見事に満たす、「片方を選ばせない椅子」がそこにあった。
本人の本当の意思を守るためには、大人が問い詰めるだけでなく、こうして安心して待てる場所を用意することが必要なのだ。私は、彼と共同で作り上げたこの空間に、強い誇りを感じていた。
配置を野帳に写し取ると、開庁前に見本のパネルを片付けた。今朝は二人で動きを試しただけだ。実際の窓口に取り入れるには、案内係も交えて運用を確かめなければならない。
その日の夕刻。
窓口の片付けをしていた私の手元に、婚姻裁判院から一通の封書が届いた。
差出人は、数日前にユイと面談をした児童聴取官からだった。
「……届いたわね」
そこには、ユイの本当の意思確認結果が正式に裁判院に届き、それを両親であるサラとノルドに示す日が決まったという報せが記されていた。
大人の都合で引かれた二択に苦しんでいたあの少女が、ようやく自分自身の言葉で選んだ未来。それを両親が受け止め、暮らしを考える日が決まった。




