第16話 手を離しても、親である
児童聴取官による面談結果が婚姻裁判院に送られてから数日が経った、九月二十六日。
裁判院は、聴取官の報告に加えて両親の住居と養育の見通しを確認した。「現在の学校に通い続けたい」という九歳の娘、ユイの希望も踏まえ、王都に残る母親のサラを主たる居所の養育者として正式に承認したのである。
その決定通知を受け、調停所の第三面談室で夫婦の最終的な合意事項の整理が行われた。
遠方の港町へ一人で赴任することが決まった夫のノルドは、肩を落とし、面談室の長机を虚ろな目で見つめていた。
「……結局、俺は選ばれなかった」
ぽつりと、自嘲するような呟きが面談室に落ちた。
「あいつは王都に残り、母親と暮らす。俺だけが遠くの港へ追いやられて、家族から切り捨てられたんだ。親権争いに負けた惨めな父親としてな」
隣に座るサラが何かを言いかけたが、言葉を見つけられずに俯いた。彼女もまた、元々は互いを嫌悪して別れるわけではなく、ただ生活のすれ違いが原因だっただけに、夫の痛みを無視できなかったのだろう。
記録係として座っていた私は、ペンを止めた。向かいの調停官が、ノルドの顔を真っ直ぐに見た。
「ノルド様。裁判院が決定したのは、あくまでユイちゃんの『主たる生活の拠点』をどこに置くかという事実に過ぎません。あなたから父親としての資格を剥奪したり、愛情に優劣をつけたりしたわけではないのです」
「……慰めはいいよ、調停官さん。離れて暮らせば、結局は他人のようになっていくんだ」
「離れて暮らす寂しさが、この書類でなくなるわけではありません。ただ、父親としてできることがなくなるわけでもありません」
調停官は、二人がこれまでに話し合った条件の控えを示した。
「裁判院の決定事項とは別に、お二人が親として、ユイちゃんのためにどのような約束を交わすのか。それを残すのがこの合意書です」
私は手元の羊皮紙を一枚めくり、新しいページを開いた。
私は調停官と事前にすり合わせていた項目を、一つ一つ読み上げ、文字にしていった。
月に二回、ノルドの休日に合わせて、王都と港町の中間地点でユイと面会を行うこと。遠距離であっても、ノルドは月に一度手紙を送り、返事をユイに強いないこと。そして、サラの収入だけでは不足するユイの学費のために、ノルドから毎月決まった額の送金を行うこと。
私は、それらを大人の都合による押し付けではなく、二人が親として負う『責任と約束』として記録した。
ノルドは私の読み上げる逐語記録を聞きながら、面会の項目を指で押さえた。俯いた顔はすぐには上がらなかったが、休日をどう合わせるか、サラに小さな声で尋ねた。
「……そうだな。会いに行くことも、学校を続けられるようにすることも、俺にできるんだな」
ノルドは深く頷き、サラもホッと息を吐いた。
翌九月二十七日。二人は完成した合意書に自らの手で署名し、隣接する登録署へと提出した。
そして、九月二十八日、九月二十九日の二日間の熟慮期間。冷却期間を終えた九月二十九日の夕刻、二人が別々に最終意思を確認されたことは、登録署から届いた通知で確かめた。
その瞬間をもって、ノルドとサラの離縁は正式に成立した。
彼らは夫婦ではなくなった。だが、手と手を離しても、彼らがユイの親であるという事実は決して消えることはない。
別れとは、相手の存在をこの世から消し去り、憎しみで塗りつぶすことではない。互いの人生を別々に生かしながら、それでも残る関係を正しく管理するための手段なのだ。
私は、自分がロランと決別したあの夜のことを思い出しながら、書類というものの持つ静かな力と限界を、また一つ深く胸に刻み込んでいた。
翌、九月三十日の昼下がり。
私は待合室の隅で、営繕局のシオン・ヴァレンが広げた新しい改修図面を見下ろしていた。
「先日の測量ミスを踏まえて、パネルの角度と厚みを再計算した。これなら避難有効幅を十二分にクリアしつつ、待機席同士の視線を完全に遮断できる」
「素晴らしいです。これなら、安心して待てる人が増えそうですね」
私が図面に賛同の印を書き込もうとした時、ふと、メインの見取り図の端にもう一枚の小さな断面図が添えられていることに気がついた。
それは、床から不自然なほど低い位置に引かれた水平線を基準に、待合室の空間を描き出したものだった。
「ヴァレン設計官、これは……?」
「ああ。子どもが椅子に座った時の低い目線から見た、パネルと椅子の関係図だ」
シオンは淡々と、まるで当然のことのように言った。
「大人の視界が遮れていても、背の低い子どもの目線だと、パネルの足元の隙間から向かいに座る大人の靴先が見えてしまうことが分かった。怯えている子どもにとって、隙間から自分を監視する親の気配を感じるのは恐怖だろう。だから、下部の隙間を塞ぐための巾木を追加する設計にした」
私は図面を持つ手に、ぎゅっと力を込めた。
彼はあの親権争いの案件の詳細など何も知らない。だが、現場で震える誰かの存在を想像し、自身の測量ミスを認めるだけでなく、さらに一歩踏み込んで「見えない声」を拾い上げ、技術の力でそれを守ろうとしてくれたのだ。
「……ありがとうございます。本当に」
「礼を言われることじゃない。設計者の仕事をしただけだ」
シオンは顔をそらし、図面を筒に仕舞い始めた。少しだけ照れている時の彼の癖だ。
彼の引いた細やかな図面を見つめながら、私は自分の胸の奥で、確かに何かの形が変わるのを感じていた。
シオンに対する「専門職としての敬意」が、もっと熱を帯びた、柔らかな「親愛」へと変わり始めている。私はもはや、その感情を否定することができなかった。
だが、感傷に浸る時間は長くは続かない。
翌日、私が座る二番窓口に、激しい足音を立てて一人の女性が飛び込んできた。
「離縁の手続きをお願いします!」
アーニャと名乗った三十代の妻は、鼻息荒くカウンターに一冊の分厚い革張りの帳簿を叩きつけた。
「夫と共同でパン工房を経営しているのですが、あの男、店の売上を誤魔化して、金を隠しているんです! この帳簿が何よりの証拠です!」
私がその言葉を記録しようとペンを取った、まさにその時だった。
「待て! 勝手なことを言うな!」
待合室の入り口から、息を切らせた夫のベルトが駆け込んできた。そして彼もまた、妻のものとはまったく違う、黒い表紙の帳簿をカウンターに叩きつけたのだ。
「隠しているのはお前の方だろうが! 俺はこの帳簿で、お前が自分の親族に店の売上を横流ししているのをちゃんと掴んでいるんだぞ!」
互いに「相手だけが金を隠した」と主張し合う夫婦。
カウンターの上に並べられた、二冊の異なる帳簿。
私は手元の羊皮紙に目を落とし、小さく息を吸い込んで、新たな嵐の予感に表情を引き締めた。




