第17話 二冊の帳簿、二つの言い分
十月一日の午前。王都婚姻調停所の二番窓口は、朝から剣呑な空気に包まれていた。
カウンターの上に、二冊の異なる帳簿が叩きつけられるようにして置かれている。一冊は使い込まれた茶色い革張りのもの、もう一冊は黒い表紙の少し新しいものだ。
「ですから、この帳簿を見れば一目瞭然でしょう! 夫は小麦粉や酵母の仕入れ値を水増しして、店の売上から毎月少しずつ裏金をこしらえていたんです。浮気相手に貢ぐためですよ!」
共同でパン工房を経営しているという妻のアーニャが、革張りの帳簿を指さして甲高い声で叫んだ。
「ふざけるな! 俺がいつ浮気なんかしたって言うんだ! そもそも、裏金を作っていたのはお前の方だろうが!」
隣に立つ夫のベルトが、負けじと怒鳴り返す。彼は黒い表紙の帳簿を私の目の前に突き出した。
「こっちの帳簿を見てください、書記官さん! 妻が帳場を任されていた期間の売上と、実際の材料の消費量がまったく合っていない。あいつは自分の実家に、店の売上を横流ししていたんですよ!」
アーニャは三十一歳、ベルトは三十三歳。共に王都の下町で評判のパン工房を切り盛りしてきた働き盛りの夫婦だ。しかし今の彼らは、互いに相手を「自分を騙した許しがたい裏切り者」だと信じて疑わず、憎悪の目を向けていた。
「お願いです、書記官さん。どちらが嘘をついているか、この二冊の帳簿を調べて白黒はっきりさせてください!」
アーニャが身を乗り出し、私に判定を迫ってきた。
私は手元に置かれた二冊の帳簿に視線を落とした。パラパラとページをめくると、確かにどちらの帳簿にも不自然な現金の流れや、辻褄の合わない数字が並んでいる。どちらか一方、あるいは双方に問題があるのかもしれない。だが、この場で確かめられることではない。
私は帳簿をそっと閉じた。案内係に窓口を任せ、二人を個別の受付室へ案内してから、真っ直ぐに言った。
「申し訳ありませんが、私にはその判断はできません」
「どうしてですか! 証拠はここにあるのに!」
「調停所の書記官は、提出された証拠の真偽を採否判断したり、どちらに非があるかを裁定したりする権限を持っていません。それは、婚姻裁判院や会計監査人の領域です」
私は、毅然とした声で彼らの「裁いてほしい」という要求を退けた。
「私たちがここで記録するのは、お二人が『別々の帳簿を持参し、それぞれ相手の資金隠しを主張して真っ向から対立している』という事実そのものです」
私は新しい申立用紙を引き寄せ、速記の記号で書き込みを始めた。
「妻アーニャ様は革張りの帳簿を根拠に夫の不正を主張。夫ベルト様は黒表紙の帳簿を根拠に妻の不正を主張。双方ともに相手の提出資料には異議があり、合意に至らず……。このように、お二人の対立状態を偏りなく『両論併記』として記録いたします」
白黒をつけるのではなく、どちらの主張もまだ確かめられていないと分かる形で残す。それが、調停所という機関の限界であり、同時に最も公正な対応だった。
「そんな……じゃあ、あいつの横領は有耶無耶になるって言うのか!」
「有耶無耶にはしません。ですが、婚姻財産の分与と、事業としてのお店の債務問題は、感情の泥試合とは切り離して整理する必要があります。まずは、お二人の『離縁への合意』があるかどうか、そしてこの二冊の帳簿の精査を専門の監査人に委ねるかどうか、調停官を交えて話し合っていただきます」
私の一歩も引かない態度に、二人はようやく毒気を抜かれたように押し黙り、隣の面談室へと重い足取りで向かっていった。
面談は担当調停官ともう一人の記録係に引き継がれ、私は提出資料を揃えるために奥の資料室へと向かった。
薄暗い廊下を歩いていると、開いた窓のそばで、営繕局のシオンが壁の採寸をしていた。彼は私の足音に気づくと、手元の野帳から顔を上げた。
「お疲れ。また随分と白熱した現場だったな」
「……お騒がせしました。待合室まで声が漏れていましたか?」
「いや、君がぴしゃりと制止する声が少し聞こえただけだ。具体的な話は何も分からない」
シオンは野帳を閉じ、少しだけ口角を上げた。
「答えを求められても、君がその場で決められることばかりではないんだろう」
「判断する立場ではないと説明しても、役所に来た以上は答えを出してほしい、と思われることはあります。だからこそ、何ができるかを正確に伝えなければいけませんね」
私は窓辺に寄りかかり、小さく息を吐いた。
「私はそれを裁くことはできません。ただ、両方の言い分を並べて書くことしかできない。書記官って、無力ですよね」
自嘲気味にこぼした私に対し、シオンは静かに首を振った。
「それは無力じゃない。君の仕事は、『人を白黒に塗り分けない技術』だ」
彼の言葉に、私はハッとして顔を上げた。
「建物の壁も同じだ。完全に真っ白な壁は、少しの汚れや影がついただけで目立ってしまい、見る者に不快感を与える。だが、最初から影を許容するようなグレーの塗料を使えば、多少の汚れも風景の一部として馴染む」
シオンは、壁の表面を指先でそっとなぞった。
「責任を曖昧にするのとは違う。調べる前に色を決めないということだろう。判断する人に、塗り潰していない図面を渡す。その仕事は必要だよ」
胸の奥に、甘く温かいものが広がるのを感じた。彼と話していると、自分の抱えている迷いや無力感が、いつも静かで確かな形を持った誇りへと変わっていく。
「……ありがとうございます。ヴァレン設計官のその例え、とても分かりやすいです」
「そうか。なら、その設計通りの図面を、最後まで引いてやってくれ」
シオンは短く答え、再び採寸の作業に戻っていった。
私は資料室で必要な書類を揃え、再び面談室へと戻った。
室内では、調停官を交えた話し合いが続いていた。調停官が、帳簿の確認には双方の資料が必要だと説明していた。二人は不満を残しつつも、店を休み続ければ仕入れ代まで払えなくなるという点では頷き合った。
二人は、夫婦としての関係を終わらせること(離縁)には合意しつつある。
だが、問題は感情の整理だけでは終わらない。
「……それで、店の『窯』はどうするんだ」
ベルトが、ひどく沈んだ声で言った。
彼らが共同で経営しているパン工房の心臓部である、巨大な煉瓦造りの窯。それを作るために、二人は数年前に商人ギルドから多額の借入を行っていた。
離縁の合意書に署名したからといって、その借金が消えてなくなるわけではない。どちらが店を出て行くにせよ、残された共有債務という物理的で重い鉄の塊が、彼らの前に立ちはだかっていた。




