第18話 別れるなら、窯は誰のもの
前回、二冊の異なる帳簿がカウンターに叩きつけられた面談から数日が経過した、十月三日。
パン工房を共同経営するアーニャとベルトの夫婦は、再び第三面談室に座っていた。
前回の面談で、帳簿の確認と店の営業を切り分けることには同意していた。しかし、次なる、そして最大の争点が彼らの前に立ちはだかっていた。
「店は俺が継ぐ。お前が出て行けばいいだけの話だろうが」
夫のベルトが腕を組み、不機嫌そうに吐き捨てた。
「冗談じゃないわ! あの店の手が届かない場所まで掃除して、常連客の顔と好みを全部覚えているのは私よ。それに、あの窯の火加減を一番分かっているのも私。あなた一人でパンが焼けると思っているの?」
妻のアーニャも一歩も引かずに睨み返した。
パン職人にとって、長年火を入れて育てた煉瓦造りの『窯』は、命そのものだ。さらに店の屋号や立地といった営業権も含め、どちらも店を手放す気は毛頭なかった。
「お待ちください、お二人とも」
担当の調停官が、冷静な声で割って入った。
「工房を引き継ぐのはどちらでも構いませんが、あの窯を作るために商人ギルドから借り入れた金が、まだかなり残っているはずですね。その返済はどうされるおつもりですか」
ベルトは顔を上げ、「俺が店をやるんだから、残りの借金は俺が一人で払いますよ。だから、調停所で借入の名義を俺だけに変更する手続きをしてください」と言った。
その言葉に、調停官は明確に首を横に振った。
「それはできません。ご夫婦の間で『どちらが借金を負担するか』を取り決めることは可能ですが、債権者である商人ギルドに対する借入名義や連帯責任は、貸し手側の同意なしには変わらないのです。調停所が勝手に名義を書き換える権限はありません」
「なんだって……じゃあ、俺が一人で店を続けても、あいつに借金の責任が残るってことか?」
「その通りです。万が一ご主人が返済を滞納すれば、奥様にも請求がいきます」
法的な現実を突きつけられ、二人は呆然と黙り込んだ。
私はペンを動かし、彼らの行き詰まりを記録しながら、静かに口を開いた。
「お二人とも、婚姻関係の解消と、共同経営の事業の継続は、分けて整理するしかありません。離縁の合意書一枚で、窯を真っ二つに割ることはできないのです」
調停官が三つの選択肢を示し、私は手元の羊皮紙に見出しを書き出した。
「互いに納得のいく会計監査人を立てていただき、現在の工房の資産と負債を正確に目録化してください。その上で、①一方が相手の持ち分を買い取って営業権を単独にする、②離縁後も期間を決めて共同経営を継続し、借入を完済する、③工房を第三者へ売却して借入を清算し、残金を分ける。この3案の中から、お二人の現実的な合意点を探るしかありません」
監査人を立てれば、当然ながら時間と手数料という負担が増える。だが、感情に任せて無理やり店を奪い合えば、結果的に商人ギルドからの信用を失い、共倒れになるのは目に見えていた。
翌十月四日。丸一日かけて現実と向き合った二人は、最終的に一つの決断を下した。
「婚姻関係については、離縁で合意します。ただ、工房については……監査の計算が出るまでの間、一旦『期間付きの共同管理』という形にして、後日清算日を確約することで納得しました」
ベルトがそう告げると、隣でアーニャも静かに頷いた。
彼らは、夫婦としては別れることを選んだが、職人として育てた窯だけは手放さず、時間をかけて冷静に整理する道を選んだのだ。
その日の退勤後。
重い帳簿と複雑な手続きから解放された私が、役所の裏口の重い扉を押し開けて外へ出ると、夕闇の迫る街灯の下に、見慣れた深緑色の上着が立っていた。
営繕局の動線設計官、シオン・ヴァレンだった。
「ヴァレン設計官。まだ残っていらしたんですか?」
「ああ。少し、君に伝えておきたいことがあってね」
シオンは私の隣に並んで歩き出し、ぽつりと言った。
「先日の待合室のパネル配置の検証結果は良好だった。あれを正式な改修案として、来週の予算委員会に議案を提出することになった」
「本当ですか! よかった……これで、来所者の方々に安全で安心な待機場所を提供できます」
「君が現場の実情を教えてくれたおかげだ。僕一人では、ただ法令の数字を満たすだけの冷たい壁を作っていたかもしれない」
シオンは足を止め、運河の風に吹かれながら私を見下ろした。
「……リンド書記官。仮設の引渡しと、当所での僕の直接の業務調整が終わったら。その後で、少し町を歩かないか。今度は、仕事の話をするためじゃなく」
同僚として失敗談を交わした茶店の時とは違う。彼は今、仕事を離れても私と会いたいと言ってくれている。その意味を、私も曖昧なまま受け取ることはできなかった。
心臓が小さく跳ねた。私の中で彼に対する親愛の情が確かな形になりつつあるのは事実だ。だが、私たちは今、同じ公共の建物の改善に携わる実務の真っ只中にいる。ここで甘い関係に流されれば、彼が私のために予算を優先したなどという不要な疑いを招きかねない。
私は彼から目を逸らさず、真っ直ぐに答えた。
「……嬉しいです。でも、あなたとのこの改修の仕事が終わるまでは、お答えしないことにしています」
シオンの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「終わったら、その時に。私からお返事します」
それは拒絶ではない。プロとしての境界線を守り抜くための、彼への最大限の誠意だった。
シオンは不満を漏らすこともなく、ふっと口元を緩め、優しく頷いた。
「分かった。待っている」
その言葉の奥にある深い敬意を感じながら、私は彼と別れた。
しかし、公私を分けて守り抜いたはずの私の穏やかな日常は、すぐに予期せぬ外部からの圧力によって揺るがされることになる。
数日後の朝。
調停所の職員通路にある行政評議会の連絡掲示板の前で、私は足を止めた。
そこに、調停所の運用担当評議員であるグレゴールの名で、新しい『暫定運用案』の告知が貼り出されていたのだ。
『窓口の待機案件削減、および事務の効率化のため、今後、正式受付後に補正書類待ちとなった案件において、七日経過しても書類が整わない場合は、自動的に【一旦終了扱い】として整理する』
私はその文面を二度、三度と読み直し、血の気が引くのを感じた。
『相談七日で整理』。
それは、相談者がどれほど複雑な事情を抱えていようと、書類の提出が遅れれば容赦なく統計上の「処理済み」として切り捨てる、冷酷な効率化の刃だった。




