第8話 受理されるのは二人の意思
九月十日の夕刻。中央所での窓口業務を終えた私は、足早に王都の北区へと向かっていた。
空はすでに茜色に染まり、運河沿いの通りには家路を急ぐ馬車や人々の影が長く伸びている。私が向かっているのは、北区婚姻調停支所。そこで今日、夫であるロランとの離縁合意書への正式な署名面会が行われることになっていた。
運河に架かる古い石橋のたもとまで来たとき、修繕工事のための木組みの前に立つ見慣れた深緑色の上着を見つけた。
「ヴァレン設計官」
私が声をかけると、図面を広げていたシオン・ヴァレンが振り返った。
「エステル書記官か。退勤後ですか」
「ええ。少し、北区に用事がありまして」
私はあえて具体的な行き先を伏せた。しかし、私の硬い表情や、普段とは違う足早な様子から、彼が「公務ではない深刻な用事」であることを察したのは明らかだった。
それでもシオンは、私の事情を一切詮索しようとはしなかった。
「この橋のアーチ部分の石材が傷んでいてね。通行を止めずにどうやって荷重を逃がすか、現場の職人と少し揉めていたところだ」
彼は図面を指さしながら、ただ目の前にある橋の構造についてだけを語った。
「通行人の動線を確保したままの工事は、調停所の待合室の改修と似ていますね。安全な退路を残すのが一番難しい」
「まさにその通りだ。仮組みの支柱をどこに置くかが鍵になる」
私たちは五分ほど、橋の修繕と動線の話だけを交わした。シオンは図面の端を押さえ、支柱を一本ずらした時の荷重の変化を、指先で辿ってみせた。
「……引き留めて悪かった。用事があるのだろう。気をつけて」
「はい。ありがとうございます。明日、また職場で」
短く会釈を交わし、私は再び歩き出した。握りしめていた鞄の持ち手を、少しだけ持ち直した。
北区婚姻調停支所の面会室は、無機質で静まり返っていた。
別々に意思を確認された後、書面の条件を読み合わせるための同席に、私は同意した。中央の長机を挟んで、私とロランが向かい合って座っている。私たちの間には、私やディナ監督書記長とは一切の利害関係を持たない、北区支所専属の初老の調停官が着席していた。
「それでは、双方が提出された書面の内容を確認いたします」
調停官が、私の私選代理人が作成した書類を広げ、淡々と読み上げ始めた。
「当事者双方は婚姻関係の解消に合意する。また、婚姻期間中に形成された共同積立金二百四十銀貨について、その拠出記録に基づき、エステル様へ百四十四銀貨、ロラン様へ九十六銀貨を返戻し、清算するものとする。以上で相違ありませんか」
「はい。相違ありません」
私は即座に答えた。
しかし、向かいに座るロランは沈黙していた。彼は目の前に置かれた合意書と、そこに添えられた羽根ペンをじっと見つめたまま、微かに唇を震わせていた。
「……待ってくれ」
ロランが顔を上げ、すがるような、しかしどこか計算高い目を私に向けた。
「エステル。積立金の分割はそれでいい。だが、僕の商会はこれから一番の繁忙期に入るんだ。君が急に家を出てしまったせいで、生活基盤が不安定になっている。離縁するにしても、せめて向こう半年間は、今まで通り君の給与から少しだけでも家計への援助をしてくれないか。激変緩和の措置として、それくらいは認めてくれてもいいだろう」
私は内心で冷たい溜息をついた。
激変緩和。もっともらしい言葉を使っているが、要するに「新しい恋人との生活基盤が整うまで、前の妻の財布を当てにしたい」というだけの話だ。彼はまだ、私を都合の良い安全網として利用できると信じているのだ。
「私は、その条件には一切同意しません」
私の冷ややかな声が、面会室の空気を凍らせた。
「私たちが今日ここで清算するのは、過去に積み立てた二百四十銀貨のみです。今後の私からあなたへの扶養を自動継続するような契約を、この合意書に付け加えるつもりは毛頭ありません」
「君は、僕がこのまま破綻してもいいと言うのか!」
ロランが声を荒らげた。調停官が軽く手で制したが、私は視線を逸らさずに彼を真っ直ぐに射抜いた。
「ロラン。もしあなたが今日、この場で新しい条件に固執し、署名を拒むというのであれば、構いません。本日の調停は『不成立』となります」
ロランの顔が引きつった。調停が不成立になる意味を、彼も理解し始めている。
「不成立となれば、私たちは婚姻裁判院へ舞台を移し、数か月にわたって争うことになります。私は別居が長引いても自分の生活を維持できますが……あなたは、どうですか。新しい相手を待たせたまま、裁判所でいつ終わるとも知れない泥沼の争いを続けるおつもりですか」
事実だけを突きつけられたロランの目から、すーっと光が消えていった。
彼にとって最も恐ろしいのは、私を失うことではなく、思い描いていた新しい生活の開始が法的に足止めされることなのだ。自身の焦りと本心に直面した彼は、もはや言い返す言葉を持っていなかった。
「……わかった。援助の件は撤回する」
ロランは忌々しげに舌打ちをすると、ひったくるように羽根ペンを手に取った。そして、合意書の自分の名前の欄に、乱暴な筆致で署名を書き入れた。
私も無言でペンを取り、自身の署名を添える。
これで、二人で築いた四年間は、ただのインクの染みへと変わった。
面会室を出た私たちは、そのまま無言で隣接する婚姻登録署の窓口へと歩いた。
調停所で作成された合意書は、この登録署に提出して初めて効力への第一歩を踏み出す。窓口の登録官は、私たちが差し出した書類を丁寧に確認し、重々しい受付印を押した。
「受理いたしました。明日を一日目、明後日を二日目とする熟慮期間に入ります」
登録官が、手元の暦を指し示しながら説明した。
「二日後の夕刻、再びこちらへお越しください。その際はお二人別々の時間帯で構いません。最終的な意思の確認を行い、それをもって正式に離縁成立となります」
書類上の合意は為された。あとは、この冷たい時間が過ぎるのを待つだけだ。
手続きを終えた私たちは、もはや言葉を交わす理由すら持っていなかった。並んで立つことさえ息苦しい。
登録官が、事務的な、しかしどこか重みのある声で最後に尋ねた。
「熟慮期間の後にも、お二人の意思は同じですか」
「はい」
私とロランの声が、わずかに重なった。
私たちは登録官に一礼すると、互いに一度も目を合わせることなく背を向けた。そして、役所の出口に並んで設けられた別々の扉を押し開け、それぞれの帰り道へと歩み出た。




