第7話 最後の食卓は要らない
代理人事務所から清算案を受け取った翌日の、九月八日。
私の手元には、夫であるロランから職場宛てに送られてきた一通の私信があった。封を切ると、彼が商会で使っている上質なインクの香りがした。
『エステル。急に家を出ていくなんて、君らしくない。僕たちは四年間も夫婦として暮らしてきたんだ。その時間を、代理人が作ったような事務的な書類だけで終わらせたくない』
『僕が君を愛していなかったわけではないんだ。ただ、少しすれ違ってしまっただけだ。せめて商会の繁忙期が終わるまで、離縁の手続きを待ってくれないか。二人きりで、最後にゆっくりと食事をしながら話がしたい』
便箋に並ぶ整った文字を追いながら、私の胸の奥が微かに軋んだ。
『愛していなかったわけではない』
その言葉の響きは、かつて私が彼に向けていた愛情の残滓をわずかに揺さぶった。風邪をひいた夜、彼が台所で慣れない粥を作ってくれたことまで思い出した。四年間のすべてが嘘だったとは、今も思いたくなかった。
だが、手紙には、帳簿を書き換えたことにも、私の意思を聞かなかったことにも触れていなかった。
彼は私が憎いわけではない。ただ、波風を立てず、自分の生活を脅かされたくないだけなのだ。若い恋人との甘い関係を水面下で維持しながら、私には「良き妻」としてこれまで通りの家計の負担を求め続ける。すでに私は家を出た。それでも、話し合いを先延ばしにすれば私が折れると思っているのだろうか。
あの時、調停所の窓口で「奥さんとはもう別れる話が済んでいる」と無邪気に笑った女性の顔が脳裏をよぎった。
過去を美化して和解するふりをし、現状を維持しようとするこの男の甘い毒に、もう二度と付き合うつもりはなかった。
私は便箋をきれいに四つ折りにすると、引き出しの奥へとしまい込んだ。そして、ただ一行だけの冷たい返書をしたためた。
『最後の食卓は要りません。私たちが次に会うのは、北区婚姻調停支所の個別確認の場だけです』
翌九月九日。私の強硬な返書を受け取ったロランから、再び短い手紙が届いた。
『君は冷たすぎる。もし僕が合意書に署名しなかったらどうするつもりだ』
それは、彼の焦りの裏返しだった。私は受付書記官として、何百組もの夫婦の終わりを見てきた。この程度の脅しに屈するほど、制度の現実を知らないわけではない。
私は彼からの問いに対し、法的な事実だけを便箋に記した。
『もしあなたが合意書への署名を拒み、話し合いを拒絶するならば、私たちの調停は「不成立」となります。そうなれば、次の段階は婚姻裁判院です。裁判院で争うことになれば、判決が出るまでに数か月、長ければ一年の時間を要し、必要な財産資料や生活の経緯を、裁判院へ提出することになります』
そして、私は一番重要な代償の宣告を書き添えた。
『私は、すでに自分の生活基盤を整えています。法的決着がつかず、別居の期間がどれほど長引こうと構いません。早く決めるために私が財産を譲ることはありません。合意するかどうかは、あなた自身で決めてください』
感情的な罵倒は一切書かなかった。彼の不貞の事実を証拠として突きつけることもしない。ただ、彼が署名を先延ばしにした場合に背負うことになる「法的な負担」と「終わらない時間」の重さだけを提示したのだ。
手紙を送り出した後、私は静かに目を閉じた。
別居が長引けば、私自身も法的には婚姻状態のまま宙に浮くことになる。決して無傷では済まない。だが、その代償を引き受けてでも、私は自分の足で歩き出すと決めていた。
その日の午後、調停所の窓口業務に戻った私は、自分でも気づかないうちに深い疲労を顔に出していたらしい。
「エステル書記官」
柵の向こうから声をかけられ、私は顔を上げた。営繕局のシオン・ヴァレンが、分厚いファイルを手にして立っていた。
「ヴァレン設計官。待合室の改修の件ですか」
私が無理に背筋を伸ばして応じると、シオンは私の顔をじっと見つめた。その鋭い灰色の瞳は、私の目の下の隈や、張り詰めた肩の力を見透かしているようだった。
同僚たちであれば「エステル、顔色が悪いわよ」「何かあったの?」と心配そうに踏み込んでくる場面だ。しかしシオンは、私の私生活の事情など一切知ろうとはしなかった。
「……待合室の設計修正案だが、急いで確認してもらう必要がなくなった」
彼は手元のファイルをぽんと軽く叩いた。
「営繕局の内部決裁に少し時間がかかることになった。現場でのすり合わせは、来週でいい」
「来週、ですか?」
「ああ。今日は急ぎの書類処理だけを終わらせて、早く帰るといい」
それだけ言うと、彼は本当に用事だけを済ませたというように、あっさりと背を向けて歩き去っていった。
私は小さく息を吐き出した。内部決裁に時間がかかるという事情もあるのだろう。それでも、急がせずに済むとわざわざ伝えてくれたことがありがたかった。
手帳を開き、今日の欄に書いていた図面の確認を、来週の欄へ移した。それから、残った急ぎの書類を一枚ずつ机の手前に揃えた。
その日の夕方、代理人から短い連絡が届いた。ロランも、翌日の署名面会に応じるという。
私は机に合意書の控えを広げた。二つの署名欄は、まだ白い。
ここまで来ても、彼が明日何を選ぶかは分からない。私は自分の欄に指を置き、ゆっくりと息を整えた。




