第6話 誰が払った、二百四十銀貨
別居を開始した翌日の、九月七日。私は非番の午前中を利用して、王都の西区にある小さな代書事務所を訪れていた。
分厚い樫の木の机を挟んで向かいに座っているのは、白髪交じりの老練な法律代理人だ。私は王都婚姻調停所の受付書記官として、離縁に関する法手続きや合意書の書き方を誰よりも熟知している。書式なら、自分でも整えられる。だが、自分の事件の見落としまで、自分一人の目で確かめられるとは思えなかった。
だから私は、職場とは無関係の彼を、自分の金で雇った。私の気持ちから離れた目で、記録と請求を点検してもらうために。
「なるほど。これが先日、ご主人と交わされた別居確認書ですね」
代理人は鼻眼鏡の奥の目を細め、私が提出した九月五日付の書類を確認した。
「荷物と鍵の引き渡し、そして旧居の家賃である月十八銀貨を、今後はご主人が単独で負担する旨が明記され、双方の署名がある。これで当面の生活の分離は法的に保証されました。問題は、共有財産の清算ですね」
「はい。これが結婚以来、四年間記録し続けてきた共同積立台帳です」
私は、ロランが鉛筆で乱暴に線を引いたあの帳簿を机の中央に置いた。
「現在の残高は二百四十銀貨。毎月の拠出額は、私が三銀貨、夫が二銀貨でした。したがって、私の拠出分が百四十四銀貨、夫の拠出分が九十六銀貨となります」
代理人は帳簿の数字を丁寧に追いながら、ふむ、と短く息を吐いた。
「拠出割合に応じた分割。王国法に照らし合わせても、極めて真っ当で公正な要求です。しかし……」
代理人は手元の別の書類を一枚、裏返した。それは、私が代理人を立てたことを知ったロランが、昨夜のうちにこちらの事務所へ送りつけてきた主張の書面だった。
「ご主人は、少々異なる見解をお持ちのようです。『妻の給与は夫婦のものとして家計に組み込まれていたはずだ。したがって積立金は半々で割るべきであり、また妻が隠し持っている婚前財産についても考慮されるべきだ』と」
私は静かにため息をついた。
ロランはまだ、自分の都合の良いように事実を歪めようとしているのだ。彼が別の女性と新しい生活を始める資金を少しでも多く残すために、私の取り分を削ろうとしている。
「私の婚前の持参金百二十銀貨は、封緘されたまま手つかずです。王国法において婚前財産は不可侵の特有財産であり、清算の対象にはなりません」
私は鞄から領収書の控えと、自分名義の預金記録を取り出し、代理人に提示した。
「また、私の給与が家計に組み込まれていたというのは彼の詭弁です。私たちはこの帳簿に毎月、互いの拠出額を明記し、署名してきました。私は彼が他の女性と交際しているという事実を知っていますが、その事実を彼の職場に暴露して脅し、慰謝料代わりに多く金をもらおうなどとは考えていません」
代理人は少し驚いたように私を見た。
「請求は、記録に基づく清算に絞るということですね」
「ええ。私は自分が払った百四十四銀貨を返してほしいだけです。正当な数字以上のものは求めませんし、一銀貨たりとも引くつもりはありません」
嘘をついてまで手に入れたい新しい生活があるのなら、自分の九十六銀貨だけで始めればいい。私に尻拭いをさせるな。ただそれだけのことだった。
「承知いたしました、アレン様。月ごとの双方の署名が、主張を支えています。ご主人に内訳を示し、この記録に基づく清算案を作成しましょう」
代理人に清算案の作成を一任し、私は午後から王都婚姻調停所の中央所へと出勤した。
自分の人生の根幹が揺らいでいるというのに、調停所の窓口に座れば、私はただの「エステル書記官」になる。書類の不備を点検し、待合室で震える相談者の声に耳を傾ける。その日常の反復が、今の私には奇妙な救いだった。
夕刻近く。窓口の客足が少し途絶えた頃、柵の向こうに深緑色の上着が見えた。営繕局の動線設計官、シオン・ヴァレンだ。
「エステル書記官。先日の再計測の結果を持ってきた」
彼はそう言って、新しく引き直された一枚の図面を私の机に置いた。
「あなたの指摘通り、僕の最初の計算では、壁で反射した声が待合席へ届きやすい問題があった。待合の長椅子の位置を少し下げ、限られた予算内で設置できる吸音パネルを窓口の間に挟む修正案だ。これなら、声の漏れを減らせる見込みだ。椅子を置いた時の避難幅は、実地でもう一度確かめる」
「……わざわざ、引き直してくださったのですね」
「当然だ。現場の実際の声量で実証された問題を無視して、見栄えだけの図面を通すわけにはいかないからな」
シオンは淡々とした声で言い切った。
彼の手元にある新しい図面には、相談者のプライバシーを守るための小さな、しかし確実な「壁」が描かれていた。
「ありがとうございます、ヴァレン設計官。これなら、安心して案内ができます」
「いや。現場の正確な指摘に感謝する。それでは、この案で予算委員会に掛ける準備を進める」
シオンは短く告げると、私の顔をじろじろと観察することもなく、背を向けて歩き出した。
彼との会話の中には、私が急に転居したことへの詮索や、「一人暮らしはどうだ」といった私生活に踏み込む言葉は一切なかった。ただ過不足なく、互いの職務に関する報告だけを交わした。
私は彼の残した図面に目を戻した。引き直された線の脇には、次に実地で確かめる箇所が小さな字で記されている。私もその隣に、窓口で確認しておきたいことを一つ書き添えた。
窓口の業務が終わり、薄暗くなった庁舎の裏口を出たところで、見知らぬ少年から声をかけられた。
「エステルさん、ですね。西区の代理人事務所からの使いです」
少年が差し出した封筒の中には、「清算案の作成完了」を告げる手紙が入っていた。これで、私の武器はすべて整った。
だが、その手紙を読んでいる私の視界の端に、今度は見慣れた商会の制服を着た男が近づいてくるのが見えた。ロランの勤める織物商会の使いの者だ。
「奥様……いえ、エステル様。ロラン様から、伝言を承っております」
使いの男はひどく気まずそうに、小さな声で言った。
「『代理人などという大げさなものを挟まず、夫婦二人きりで、最後に話せないか』と」
法的な逃げ道を塞がれ、自分の取り分をかすめ取ることもできなくなった夫が、最後に頼ったのは「情」だった。二人きりで思い出話でもすれば、私が折れて離縁を撤回するか、せめて金を譲ってくれるとでも思っているのだろう。
私は手の中の代理人からの手紙を、きつく握りしめた。
もう、その手には乗らない。




