第5話 私の名義の鍵
新しい部屋には、まだ私の匂いがしなかった。
王都の東区、細い路地を一本入った先にある煉瓦造りの集合住宅。その三階の角部屋が、今日から私の新しい居場所だ。
朝の冷たい空気が張り詰める中、小さな窓から朝日が床一枚分だけ四角く差し込んでいる。家具はまだ何一つない。壁紙は少し日に焼けているが、掃除は行き届いており、清廉な静けさがあった。
私は冷たい板張りの床に膝をつき、手のひらの中で冷たく光る真鍮の鍵を見つめた。
私個人の名義で手に入れた、私だけの部屋の鍵。
昨日、私は不動産屋で敷金十六銀貨と初月家賃八銀貨、合計二十四銀貨を支払った。結婚前から少しずつ蓄えてきた私個人の預金八十六銀貨からの出費だ。手元に残った資金は六十二銀貨。決して余裕があるとは言えないが、日々の食事と当面の生活を維持するには十分な額だった。
誰の援助も受けず、夫の財産にすがることもなく、自分自身の労働で得た資金だけでこの空間を確保したのだ。手のひらの小さな鍵が、とてつもなく重く、そして誇らしい勲章のように思えた。
ここへ来る前日、荷物を鞄に詰め込む私を見て、夫のロランはひどく不満そうな顔をしていた。
妻が家を出て行くという事実そのものよりも、彼を苛立たせていたのは目先の計算だった。
『君が頭を冷やすために少し家を空けるのは勝手だが、この家の家賃だけは今までどおり出してほしい』
鞄の留め具を締める私の背中に向かって、ロランはそう言った。
『僕の給与だけで月十八銀貨の家賃を払い続けるのは厳しいと分かっているだろう。君の都合で別居するんだ、共用積立の清算は後回しにするとしても、家賃の負担分は――』
私は無言のまま振り返り、鞄の横に置いてあった一枚の書類を彼の手元に突きつけた。
私が作成した、その日、九月五日の日付の入った『別居確認書』だ。翌朝、荷物と鍵を引き渡して別居を開始することも、文面に記してある。
『ここへ署名を。別居に伴う私財の持ち出し、旧居の鍵の返還、そして何より、あなた名義で借りているこの旧居の家賃・月十八銀貨については、以後あなたが単独で負担する旨を記した合意書よ。私の新居の費用は私自身で払います』
ロランは書類の文面を見て絶句した。
『な、なぜ僕だけが十八銀貨を払わなきゃならないんだ!』
『あなたが自分の都合で、新しい恋人を連れ込める部屋を維持したいのなら、ご自分で維持なさい。私はもうあなたの共同出資者ではないのよ』
ロランは家賃の欄を何度も読み返した。
『ここを解約して小さな部屋を探すよりは……分かった』
不満は消えていなかったが、彼は家を残すほうを選び、羽ペンを取った。彼が『エステル・アレン』という私の署名の横に自身の名を書き殴った瞬間、あの家の家賃を私が支える約束は終わった。
荷物と鍵は翌朝に引き渡した。署名時の控えとは別に、二人で受領欄を埋めた紙を一枚ずつ保管した。
私は新居の床から立ち上がり、窓を開けて冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
もう、帰宅して夫の顔色をうかがう必要はない。別の女性に甘い言葉を囁いた口で「今日も一緒に夕食を食べよう」と笑う男のために、皿を並べる必要もないのだ。
とはいえ、戦いはまだ終わっていない。二百四十銀貨にのぼる共同積立金の正式な清算と、法的効力を持つ離縁の成立が残っている。
私は昨日、調停所とは完全に無関係な市井の私選代理人の事務所を訪ねた。
一般の手続案内を受けることはできる。それでも、自分の書類を自分だけで点検して、見落としがないと言い切る自信はなかった。私は代理人を雇い、積立台帳の写しを渡して、百四十四対九十六という明確な拠出割合に基づいた公正な清算表の作成を依頼した。
自分の人生の落とし前は、自分の金と責任でつける。
ふと、仕事用の鞄に入れたままになっていた一枚の紙片を思い出した。
昨日、職場を通じて私の手元に届いた業務連絡のメモだ。差出人は、王都営繕局の動線設計官シオン・ヴァレン。
『本朝の再計測結果を整理し、明後日、一般動線の修正案を持参する』
記されていたのは、本当にそれだけだった。
彼は私が突然別居に向けて動き出していることなど知らない。もし知っていたとしても、彼が私に私的な同情を寄せたり、「大変な時期だから仕事は代わりましょう」などと踏み込んでくることはないだろう。
シオンは私を、保護すべき哀れな女性としてではなく、ただ一つの窓口を共に改善しようとする仕事の相手として扱ってくれている。
その適度で冷やりとした距離感が、今の私には何よりもありがたかった。私を特別扱いしない人間が職場にいるという事実が、どれほど私の背筋を真っ直ぐに保たせてくれているか。
太陽が完全に昇り、四角い光が床の中心へと移動してきた。
私は鞄を開き、一番底に入れてあった厚手の書類束を取り出した。
まだ家具もない、私の匂いもしない新しい部屋。その光の当たる床の真ん中に、私はその書類をそっと置いた。
北区の婚姻調停支所でもらってきた、正式な『婚姻解消の申立用紙』。
荷解きよりも先に、この部屋で最初に取り出すべきものはこれだと決めていた。
私的な別居合意と家計の分離は済んだ。私は書類の最下段にある、夫と妻の二つの空白の署名欄を静かに見つめた。
次は署名そのものだ。




