第4話 壁の向こうに、声が漏れる
廊下の向こうから、知らない夫婦の声が丸ごと聞こえた。
王都婚姻調停所の中央所、その一階に設けられた待合室には、今日も朝から重苦しい空気が漂っている。開庁直後、私は窓口の奥からその空間を見渡した。
石造りの古い庁舎は威厳こそあるものの、音の反響については最悪だった。さらに、待合室の長椅子から案内窓口までは、遮るものが何もない。窓口で誰かが名前を名乗ったり、震える声で離縁の事情を口にしたりすれば、背後に座っている別の来所者に筒抜けになってしまう。
昨日の夜、私は夫に私的な別居覚書へ署名させた。彼が別の女性と暮らしたいと自白したからだ。もし、私がこの窓口で一般の相談者として「夫に愛人がいる」と告白しなければならないとしたら、背後から他人の視線が突き刺さるこの空間に、どれほどの屈辱と恐怖を感じるだろうか。
「やはり、ここからだと視線がまっすぐ通り過ぎるな」
不意に、低い男の声が響いた。
振り返ると、事務区画との境界を示す低い柵のそばに、見知らぬ男性が立っていた。灰がかった金色の短い髪に、王都営繕局の職員が着る深緑色の上着。手には真鍮の測量糸と、丸められた建築図面を持っている。年齢は三十代の半ば前といったところだろう。
「王都営繕局の動線設計官、シオン・ヴァレンです。本日から、この階の動線改修のための計測に入ります」
彼は私を真っ直ぐに見て名乗った。愛想笑いの一つもない、ひどく事務的で無駄のない口調だった。
「受付書記官のエステルです。よろしくお願いいたします」
私が会釈を返すと、シオンはすぐに図面を広げ、私のいる窓口と待合室の距離を測り始めた。
「現状の配置では、来所者のプライバシーが守られていません。待合席を窓際へ寄せ、間に短い間仕切りを立てるのが基本設計になります」
彼の言葉は的確だった。しかし、続いて彼が口にした予算額が、私の期待を打ち砕いた。
「今回、評議会から下りている改修予算は四十銀貨です。この枠内で、火災時などの避難有効幅を確保し、かつ採光を落とさないことを最優先として設計を引いています」
彼が広げた図面には、待合の椅子が確かに移動してはいるものの、窓口を囲うような遮音のための壁は描かれていなかった。ただの低い目隠し柵が、通路の端に申し訳程度に配置されるだけだ。
「お待ちください」
私は思わず図面の上に手を置いた。
「これでは、視線はある程度逸らせても、声は丸聞こえのままです。もう少し壁を高くするか、吸音材を挟むことはできないのでしょうか」
「予算の四十銀貨では、天井まで届く壁を造作することは不可能です。それに、壁を高くすれば採光が失われ、日中は手元の書類も読めなくなります」
シオンは淡々と事実だけを並べた。彼の論理は技術者として正しかった。限られた資源で最大の効率を出す。それが営繕局の正義なのだろう。
だが、現場に立つ私の正義は違う。
「ヴァレン設計官。ここは、誰かがこれからの人生を決めに来る場所です」
私の声は、自分でも驚くほど硬く、熱を帯びていた。
「離縁の相談に来る方々は、皆、人に言えない傷を抱えています。自分の情けない失敗や、配偶者の裏切りを口にする時、その声が他人に聞こえてしまうかもしれないという恐怖は、彼らの尊厳を深く損ないます。明るい通路よりも、安心して泣ける暗い壁の向こうを求める人もいるのです」
言ってしまってから、私は少し後悔した。昨日からの私生活の疲労が、無意識のうちに言葉を尖らせてしまったかもしれない。彼はただの営繕局の技師であって、調停所の心理的ケアを担う職員ではないのだ。厄介な女だと思われただろう。
しかし、シオンの反応は私の予想とは違っていた。
彼は顔をしかめるでもなく、冷笑するでもなく、ただ静かに私を見つめた。
「……なるほど。光や幅より、声が漏れないことの価値ですか」
シオンは測量糸をポケットにしまうと、私の横を通り抜けて待合席の長椅子に腰を下ろした。
「実際の案内窓口での受付動作を、普段の音量でやってみせてくれませんか」
「え?」
「紙の上の計算だけでは、現場の反響音は測れません。あなたが正しいと思う音量と動線で、模擬的な案内をしてください」
私は少し戸惑いながらも、席に戻った。そして、特定の相談者の秘密を一切漏らさないよう注意しながら、一般的な手続きの説明を行う定型文を読み上げた。
シオンは目を閉じ、待合席の様々な位置に移動しながら、私の声がどのように壁に当たり、どのように響くかを確認していた。
やがて彼が目を開け、私の窓口へと歩み寄ってきた。
「あなたの言う通りでした。僕の設計では、背後にいる人間に声の内容まで伝わってしまいます」
彼は何の衒いもなく、あっさりと自分の設計の不備を認めた。そこには、女性の感情論だと見下すような態度は微塵もなかった。私を「傷ついた相談者を過剰に庇う職員」としてではなく、現場を知り尽くした対等な専門職として扱い、その指摘を正面から受け止めたのだ。
「図面を引いた僕の落ち度です。今の案は破棄します」
「予算は……四十銀貨のままなのでしょう? どうするおつもりですか」
「遮音の機能を優先しつつ、安全基準を満たす配置を考え直します。今日のところは図面を持ち帰り、明日の朝、もう一度計測をさせてください」
シオンは図面を筒に収めると、深く一礼をして廊下の奥へと去っていった。
彼の背中を見送る私の胸には、静かな羞恥心が広がっていた。彼を、血の通っていない冷たい数字だけの男だと短絡的に決めつけていたのは私の方だった。職務に対する彼の誠実な態度に、私は小さな敬意を抱かずにはいられなかった。
夕方。窓口の閉庁時間が過ぎ、調停所に静寂が戻ってきた頃。
私は自席に残り、シオンが置いていった当初の改修図面の写しを整理していた。そこへ、見回りの警備員が小さな札を持ってやってきた。
「エステルさん。表に不動産屋の使いの者が来ていて、これをあなたに渡してくれと」
「ありがとうございます」
受け取ったその札を見て、私の心臓が小さく跳ねた。
それは、昨夜の別居の覚書を受けて、私が今日のお昼休みに手配しておいた、一人暮らし用の新しい賃貸部屋の空室連絡だった。物件の仮押さえが完了し、本契約へと進めるという報せだ。
私はその札を、机の上の改修図面の隣に置いた。
空間の改修。生活の変更。どちらも、もう頭の中の空想や、紙の上の計算ではない。現実に私の足元を動かし始めている。
改修図面の上に置かれた空室連絡の札。その二つの紙片は、私がこれまでの過去を捨て、新しい場所で生きていくための切符のように見えた。




