第3話 その言い訳に、署名を
夫の皿にスープをよそう前に、私は共同積立の帳簿を置いた。
少し色褪せた濃紺の表紙が、温かな湯気を立てる食卓の上でひどく場違いな影を落としていた。
向かいの席に座りかけたロランが、中腰のまま動きを止める。彼は織物商会の勘定役らしい、整ってはいるが少し線の細い顔に、困惑の皺を寄せた。
「エステル? 夕食の前に、家計の話かい?」
彼は軽く笑ってごまかそうとした。いつもの彼だ。波風が立つことを極端に嫌い、不都合なことには冗談めかして蓋をする。
私は自分の席に静かに腰を下ろし、真っ直ぐに夫の目を見た。
「あなたは、この婚姻を続けたいと思っているの?」
静寂が下りた。窓の外を通る馬車の車輪の音だけが、やけに大きく室内に響いた。
ロランの顔から微かな笑みが消え、警戒するような色に変わる。
「……突然、何を言い出すんだ。僕が君の働きに不満を言ったことなんてないだろう? 妻として不足はなかったし、食事だって毎日こうして――」
「そういう話をしているのではありません」
私は低い声で彼の言葉を遮った。彼が私をどう評価しているかなど、もうどうでもよかった。
「私は、あなたに、私とこのまま夫婦として暮らしていく意思があるのかと尋ねているのよ」
ロランは視線を泳がせ、やがて大きなため息をついて背もたれに寄りかかった。
「今日は商会で少し厄介な計算があって、疲れているんだ。少し考えたい。こんな大事な話を今すぐ決める必要はないだろう?」
先延ばしにする。それが彼の常套手段だった。
「それに、今月は商会の付き合いで出費が重なっているんだ。君の給与からの生活費が入らないと、家賃の支払いだって回らなくなる。話し合うにしても、商会の繁忙期が過ぎてからにしてくれないか」
私が働き、家計を支えることだけは、これからも変わらないと言わんばかりだった。夫婦としてどうしたいのか。私が聞いているのは、そのことなのに。
そのひどく虫のいい思考回路に、私は奇妙なほど冷静な怒りを覚えていた。
「私の給与は、私の労働によるものです」
私は食卓の上の帳簿に手を置いた。
「私の婚前の持参金も、個人名義の預金も、すべてあなたとは独立しています。家計を支えてほしいというだけでは、これからも夫婦でいられるかという問いの答えにはなりません」
「エステル!」
ロランが声を荒らげた。いつも穏やかな彼が、思い通りに動かない妻に対して初めて見せた苛立ちだった。
「共同積立金二百四十銀貨も、私が拠出した百四十四銀貨と、あなたが拠出した九十六銀貨の記録があります。これを曖昧なままにするつもりはありません」
家計の話に逃げても終わらないと分かったのか、ロランの顔色が変わった。彼は食い入るように私の顔を見つめ、やがて探るように目を細めた。
「……誰かに、何か聞いたのか」
低い、探るような声だった。自分が外で作っている「別の生活」の噂が、妻の耳に入ったのではないかと疑っているのだ。
胸の奥で、どす黒い衝動が頭をもたげた。
『一昨日、調停所の二番窓口に誰が来たと思う? 衣料用染料の匂いがする、若い女よ。奥さんとはもう別れる話が済んでいるなんて、よくもそんな嘘がつけたわね』
そう言ってやれば、どれほど痛快だろうか。彼がどれほど狼狽し、顔を青ざめさせるか、想像するだけで胸がすく思いだった。
しかし、私はテーブルの下で自分の膝を強くつねり、その言葉を喉の奥へ封じ込めた。
私は王都婚姻調停所の書記官だ。職務中に知り得た秘密を使って、個人の復讐を果たすような真似は絶対にしない。もし窓口の情報をここで口にすれば、私は夫の嘘を暴くのと引き換えに、自分自身の職業への誇りを永遠に失うことになる。
「私が何かを聞いたのかと、あなたは尋ねるのね」
私は真っ直ぐに彼を見据えたまま、帳簿の表紙をゆっくりと開いた。
「私が今、あなたに確かめたいのは、この帳簿と、あなたが帳簿から消した私の数字よ」
私が開いたページには、彼が鉛筆で乱暴に擦り、私の『拠出分:累計一四四』という数字を曖昧にぼかそうとした痕跡が生々しく残っていた。
ロランは視線を帳簿に落とした。
「僕のほうが毎月の生活費を多く出してきたんだ。残った積立くらい、半分ずつでいいと思った」
「それなら、書き換える前に話してほしかった。これは二人で署名してきた記録よ」
彼は口を開きかけ、また閉じた。家計の負担と積立の取り分を変えたいなら、私の同意が要る。その一言を、彼は飛ばしていた。
「……すまない」
長い沈黙の後、ロランは絞り出すように言った。
「君に不満があったわけじゃないんだ。ただ……その、別の人と、新しく暮らしたいと思うようになってしまって」
彼自身の口から、ついに別の女性の存在が語られた。私が私的な証拠だけを使って引き出した、最初の小さな勝利だった。
だが、ロランはまだ諦めてはいなかった。彼は急にすがるような目をして、身を乗り出してきた。
「でもエステル、よく考えてくれ。君は調停所で働いているんだろう? 他人の離縁を扱う書記官が、自分自身も離縁しただなんて職場で知られたら、君の立場がひどく悪くなるんじゃないか? 君の仕事のためにも、表面上だけでもしばらくはこのままで――」
私は呆れ果て、そして深く安堵した。ああ、私は本当にこの男を切り捨てていいのだと、心の底から納得できたからだ。
「仕事は辞めません。あなたとは別れます」
冷や水を浴びせるような私の宣告に、ロランは完全に押し黙った。
私はエプロンのポケットから、あらかじめ用意しておいた一枚の紙を取り出し、彼の手元に滑らせた。
「これは調停所の正式な申立書ではなく、私的な別居準備の覚書です。共同積立は清算までどちらも引き出さず、近日中に別居を開始するという合意。私が家を出る費用と手間は、私が引き受けます。旧居の負担は別居の日までに決めましょう。内容を読んで、同意するなら署名してください」
私が家を出ていくと聞き、ロランの瞳の奥に一瞬、安堵の光がよぎったのを見逃さなかった。面倒な手続きや引っ越しの負担を負わずに、この家で新しい恋人を迎えられると考えたのだろう。
彼は少しだけ迷う素振りを見せた後、食卓の横にあった羽根ペンを手に取った。
カツカツと、羊皮紙をこする乾いた音が室内に響く。
私の差し出した覚書の末尾に、『ロラン・アレン』という署名が記された。
私はその紙を引き寄せ、インクが乾くのをじっと見つめた。紙を押さえる自分の指先が、微かに震えているのがわかった。悲しみからではない。後戻りのできない道へ、自分自身の足で一歩を踏み出したという実感からくる震えだった。
これはただの私的な覚書に過ぎない。法的効力を持つ正式な離縁合意書は、まだ先だ。
(署名は終わりではない)
私は自分自身に強く言い聞かせた。冷え切ったスープの油膜を見つめながら、本当の闘いはこれから始まるのだと、静かに覚悟を決めた。




