第2話 秘密にしない、私の帳簿
私は自分の家の帳簿を、他人の相談記録のようには扱えなかった。
王都の空が白み始めたばかりの早朝。隣の寝室からは、夫であるロランの規則正しい寝息が微かに聞こえてくる。私は音を立てないように椅子を引き、自室の小さな机に向かった。
冷え切った空気の中で、手元に小さな灯りをともす。机の上に並べたのは、私が結婚以来、手元で管理し続けてきた書類の束だ。
昨日、私の勤務する調停所の窓口に、夫の名を口にする女性が現れた。彼女は「妻は離縁に同意している」と話していた。私は利益相反の規定に従い、その場で担当を外れた。職務中に得た情報を私生活の武器にすることは、書記官としての自分を殺すことと同義だ。
だから私は、職場の情報網も、相談者の声も使わない。一人の女として、自分の手元にある正当な証拠と資金だけを頼りに、夫と向き合う。続けられないと確かめたなら、この婚姻を終わらせる。
私はまず、厚い羊皮紙で包まれた封緘証書を手に取った。
赤い蝋でしっかりと封がされたそれは、私が四年前、結婚する際に実家から持参した百二十銀貨の預り証だ。王国の法律では、婚前の持参金は明確に本人の私有財産として保護される。夫の商会がどれほど資金繰りに苦しもうと、これに手を付けることだけは絶対に許さなかった。
次に、私個人の名義で作られている銀行の通帳を開く。
調停所の書記官としての私の給与は月二十八銀貨。生活費や積立金を差し引いて、少しずつ手元に残してきた現在の預金残高は、八十六銀貨だった。
頭の中で、昨日帰りがけに不動産屋の掲示板で見た賃貸物件の相場を思い浮かべる。王都の治安が悪くない区域で、一人用の小さな部屋を借りるための敷金がおよそ十六銀貨。そして初月の家賃が八銀貨。合わせて二十四銀貨だ。
八十六から二十四を引いても、手元にはまだ六十二銀貨が残る。日々の食費と細々とした生活費を賄うには十分な額だ。
安堵の息が、白く淀んでランプの光に溶けた。
私は、ロランの収入に依存していない。誰の援助がなくても、夫を不貞で訴えて慰謝料をむしり取ろうとしなくても、今日にでもこの家を出て自分の足で立つことができる。それがどれほど私に冷たい勇気を与えてくれたか、隣室で眠る男は一生理解できないだろう。
ふと、机の隅に置かれたままになっていた一通の手紙に目を落とした。
数日前に古い友人から届いたもので、日々の忙しさを理由に未開封のまま放置していた私信だ。私はペーパーナイフを滑らせ、封を切った。
『エステル、急な手紙でごめんなさい。実は先週、中央通りであなたの旦那様を見かけたの。若い女性と腕を組んで、とても親しげに歩いていたわ。見間違いであってほしいのだけれど……』
几帳面な友人の筆跡が、かすかに震えていた。
昨日の窓口での出来事が起こる前から、予兆は手元に届いていたのだ。私は手紙を静かに折りたたみ、引き出しの奥へとしまった。
この手紙を使えば、夫を問い詰める口実にはなるかもしれない。しかし、相手の女性の身元を探り出したり、彼女を糾弾したりするためにこの手紙を使うつもりはなかった。彼女が何を知っているのか、今の私には確かめようがない。まず向き合うべきなのは、私と暮らしている夫だった。
その日の昼休み。私は足早に職場を出て、王都の北区へと向かった。
私が勤務する中央所の調停所では、自分自身の婚姻問題を扱うことはできない。手続きを行うならば、管轄が独立している別の支所へ赴く必要があった。
北区婚姻登録署と、その隣にある婚姻調停支所。建物の造りは私たちが働く中央所とよく似ていたが、カウンターの向こう側に立つのは見知らぬ職員たちだ。
「離縁の申立てと、それに伴う別居合意書の書式をいただけますか」
私は書記官としての身分を明かすことなく、一般の来所者として窓口に立った。渡された用紙の冷たい感触が、自分が今、人生の重大な分岐点に立っていることを実感させる。手続きの手順は職務上知り尽くしている。話し合っても婚姻を続けられないと分かったなら、この用紙に当事者の署名を埋めることになる。
夜、帰宅した私は再び自室の机に向かい、最後に残った一冊の帳簿を開いた。
夫婦の共同積立台帳。婚姻期間の四年間、不測の事態に備えて二人で少しずつ出し合ってきた資金の記録だ。
現在の残高は二百四十銀貨。毎月の拠出額は、私が三銀貨、夫のロランが二銀貨。四十八ヶ月の積み重ねにより、私の拠出分が百四十四銀貨、夫の拠出分が九十六銀貨という内訳になっている。これも王国法に基づき、拠出割合に応じて正確に分割して清算されるべきものだ。
台帳のページをパラパラと捲り、最新の月の記録に視線を落としたとき、私の手はぴたりと止まった。
「……これは」
そこには、私が几帳面な字で書き入れていた『エステル拠出分:累計一四四』という数字の上に、乱暴に鉛筆が擦り付けられた跡があった。
その脇には、ロランの字で『家計からの積立につき折半』と書き足されていた。毎月の署名と拠出額は残っている。それでも、最後の清算欄だけを自分に都合よく書き換えれば、私が受け入れると思ったのだろうか。
友人の手紙では、外で別の女性と親しげに歩いていたという。その一方で、妻が働いて稼いだ金は当然のように自分の家計の財布に組み込もうとする。その身勝手な思考の痕跡が、黒鉛の汚れとなって紙の上に生々しく残っていた。
私は台帳のそのページをじっと見つめ、ゆっくりと息を吐き出した。
悲しみが消えたわけではなかった。ただ、私に確かめもせずこの線を引いた男と、何もなかったように食事を共にすることはできなかった。明日は、この書き込みの理由を聞く。




