第1話 窓口に来た、夫の愛人
「あの人に奥さんと別れてもらうには、どこへ行けばいいのでしょう」
九月一日の朝。窓口の向こう側で、若い女性が言った。
王都セルナの中心部に位置する王都婚姻調停所。その一階にある案内窓口は、朝からさまざまな事情を抱えた人々が訪れる。高い天井にはめ込まれた擦りガラスから柔らかな光が落ちるなか、私の目の前に立つ女性は、不安と微かな期待が入り交じったような目で私を見つめていた。
私の机上には、「二番窓口・エステル」とだけ書かれた木製の札が置かれている。
ここでは、来所者に職員の姓を掲示しない決まりになっている。私たちが扱うのは、夫婦の終わりという極めて個人的で繊細な問題だ。職員個人の身元を過度に晒さないための、古くからの配慮だった。
私は、案内札に伸ばしかけた指を空中で静かに止めた。
女性の口ぶりから察するに、彼女は離縁を望む夫婦のどちらかではない。相手の男性と婚姻関係にあるわけでもないのだろう。
「ここは、婚姻に関する合意のお手伝いをする場所です」
私はできるだけ穏やかな、事務的な声色を作って答えた。
「ご夫婦のどちらかでない方にも、一般的な手続きのご説明をすることは可能です。ですが、他人の婚姻関係を終わらせるための申立てを、第三者の方が直接行うことはできません」
「それは、わかっています」
女性は胸元で両手をぎゅっと握りしめた。年齢は二十代半ばといったところだろうか。身なりは清潔で、衣服を染めるための微かな染料の香りがした。
「私が何か手続きをするわけではありません。ただ、彼が奥さんと正式に別れるために、どのような書類をどこへ出せばいいのかを教えてあげたいんです。奥さんの方はもう離縁に同意していて、あとは書式の問題だけだと聞いていますから」
悪びれる様子もなく、ただ純粋に「彼」の手助けをしたいと願っているような声だった。
胸の奥で、微かな違和感が波打った。だが、案内窓口の書記官として、私は個人の感情を表情に出すことは許されない。
「では、ご本人が申立てをなさるご予定なのですね」
女性は少しだけほっとしたように息を吐き、そして、はっきりとした声で言った。
「はい、彼が申立てをします。ロラン・アレンという人で、織物商会に勤めています。こちらへ来ればよいのでしょうか」
周囲の空気が、一瞬にして凍りついたように感じた。
その先の言葉は、耳に入ってこなかった。いや、私にはその先の言葉を聞く資格がなかった。
ロラン・アレン。
四年前、王都の北区にある婚姻登録署で、私と肩を並べて誓いの署名をした男の名前だ。
私の夫だった。
女性の瞳に、私を試すような色は見えなかった。目の前に座っている『エステル』が、その男の妻だとは思ってもいないようだった。
胸の奥で、得体の知れない熱い塊が燃え上がった。怒り、悲しみ、それとも屈辱か。夫に裏切られたのかもしれないという思いが、重い鉛のように胃の腑に落ちていく。
『奥さんの方はもう離縁に同意していて』
彼女はそう言った。同意などしていない。そもそも、そんな協議すら持ちかけられていない。彼女の話が本当なら、夫は嘘をついている。
今ここで、「私がその妻です」と名乗り出たらどうなるだろうか。彼女は青ざめ、逃げ出すだろうか。夫の嘘をすべて暴露し、彼女を問い詰める権利が私にはあるのではないか。
だが、冷たい理性が私の行動を強く縛り付けた。
調停所は、誰かの人生を私的な感情で裁く場所ではない。私は受付書記官だ。職務中に知り得た相談者の情報を、私個人の復讐や、夫を追及するための材料として使うことは、明確な守秘義務違反であり、利益相反行為だった。
私はゆっくりと息を吸い込み、冷たくなった両足を床に踏みしめた。
「……申し訳ありません。担当を交代いたします」
「え?」
女性は突然の言葉に目を丸くした。私の顔を不思議そうに見つめたが、その瞳に「妻」を認識する光はない。
知らなくていい。今の私に許されている唯一の正しい行動は、彼女の事情をこれ以上聞かず、相談を適切な担当者へ引き渡すことだけだ。
私は、まだ何も書き込んでいない一般案内用の紙をパタンと閉じ、椅子から立ち上がった。女性に軽く一礼をすると、振り返ることなく窓口の奥にある監督書記長室へと向かった。
重厚な木製のドアをノックし、中へ入る。
監督書記長のディナは、机に山積みになった書類から顔を上げた。四十代半ばの彼女は、調停所の誰よりも規則と倫理に厳格な人物だった。
「どうしました、エステル。案内窓口の途中でしょう」
「申し訳ありません、書記長。利益相反の申告です」
私の声は、驚くほど平坦だった。
「現在二番窓口にいらしている方の相談案件は、私の夫に関するものです。これ以上の聴取は不適切と判断し、途中ですが席を立ちました」
ディナのペンがピタリと止まった。彼女は鋭い視線で私の顔を数秒見つめ、小さく頷いた。
「わかりました。よく自分で止めましたね。すぐに私が一般案内を引き継ぎます。エステル、あなたはこの案件に関する一切の担当から外れます。今後の記録に対する閲覧権限も閉じます。あなたは奥の資料室で、明日の点検作業をしていなさい」
「はい。ありがとうございます」
ディナが部屋を出ていくのを見送りながら、私は小さく息を吐いた。非公開の申告書には夫との婚姻関係と担当除外だけを記し、女性の言葉は書き写さなかった。
これで私は、あの女性がこの後何を話したのか、どんな手続きを案内されたのかを知ることはできない。担当除外は監査簿にも残される。夫の件に関して職務上の権限を使う道は、ここで閉じた。
それでよかったのだ。怒ることも、傷つくことも止められない。だからこそ、今はあの席に座り続けてはいけなかった。
その日の残りの勤務時間は、まるで分厚い水の中にいるような感覚だった。
手元の古い資料を整理しながらも、頭の中では様々な思考が渦巻いていた。夫のロランは、いつからあの女性と関係を持っていたのか。なぜ離縁に同意済みだなどと嘘をついたのか。
だが、職場で得た情報を私生活に持ち込むことはしないと、私は何度も自分に言い聞かせた。
夕刻、役所の重い扉を抜け、冷たい夜風を頬に受けながら家路についた。
王都の街並みは夕闇に包まれ、家々の窓には温かな灯りがともり始めている。私が帰るべき家にも、明かりが点いていた。
玄関の扉を開けると、パンの焼ける匂いと、スープの香りが漂ってきた。
「おかえり、エステル」
居間から顔を出したのは、ロランだった。
彼は上着を脱ぎ、リラックスした部屋着姿で私を出迎えた。その顔には、隠し事をしている男特有の緊張感も、罪悪感も微塵も感じられない。
「今日は少し早く帰れたから、僕が用意しておいたよ」
食卓には、丁寧に二膳の食器が向かい合わせに並べられていた。湯気を立てるシチューの鍋の横で、彼は無邪気な笑顔を浮かべている。
「さあ、着替えておいで。今日も一緒に食べよう」
その言葉の響きに、私は吐き気にも似た感情を覚えた。
今日の朝、あなたの恋人が私の窓口に来たのよ。あなたは私と別れると彼女に嘘をついている。
そう叫んでやりたかった。喉の奥まで出かかった言葉を、私は奥歯を噛み締めて飲み込んだ。
言ってはいけない。私は職務の境界線を越えない。調停所の窓口で知った事実を使って、彼を追い詰めるような真似はしない。
「……ありがとう。すぐに着替えてくるわ」
私は静かに答え、寝室へと向かった。
彼を問い詰める材料は、職場の秘密以外にあるはずだ。
寝室の引き出しの奥には、私が結婚以来ずっと管理し続けてきた共同積立の家計帳がしまってある。そして、数日前に古い友人から届き、まだ封を切っていなかった私的な手紙があった。
私は引き出しの取っ手にそっと手を触れた。
明日、私はこの帳簿を開こう。私が私自身の目で確かめ、集めた証拠だけを使って、彼と向き合うのだ。
窓口の相談者としてではなく、私自身の人生の当事者として。




