第27話 恋人になる、届けは要らない
十月二十六日の昼下がり。秋の柔らかな日差しが、王都の運河の水面をキラキラと反射していた。
今日は私とシオンの二人が、散歩の約束に合わせて個人の休暇を取っていた日だ。役所自体は通常通り開庁している平日だが、私服姿の私たちは、調停所の重い空気から離れ、川沿いの石畳の道をゆっくりと並んで歩いていた。
数日前の夜。彼から「間違いを認めて直せる人と一緒にいたい」と真っ直ぐな告白を受け、私はその手を取り、次の休みの散歩を約束した。そして今、彼との約束通り、こうして隣を歩いている。
私の胸の奥には、まだ小さな淀みが残っていた。
私は離縁を成立させたばかりの女だ。もし彼と親しくしているところを職場や世間の誰かに見られれば、あることないこと噂を立てられるかもしれない。それに、私自身がまた思い込みで彼の心に勝手な出口を引き、彼を傷つけてしまうかもしれないという恐れがあった。
だが、隣を歩くシオンは、そんな私の不安を見透かしているかのように、いつもと変わらない静かな歩幅で私に合わせてくれていた。
ふいに、彼の手の甲が私の手に軽く触れた。
私は足を止め、彼を見上げた。灰色の瞳が、優しく私を待っている。
(怖いけれど……この手を、手放したくない)
私は深く息を吸い込み、自分の中に残る恐れを飲み込んだ。
「シオンさん」
私は、彼の目から視線を逸らさずに言った。
「私から、正式にお付き合いをお願いしてもよろしいでしょうか」
私が自分から踏み出した一歩に、シオンは少しだけ驚いたように目を見開き、やがてとても柔らかく、深く微笑んだ。
「……もちろん。喜んで」
彼はそう言って、私の右手をそっと握りしめた。彼の少しごつごつとした指が私の指と絡み合い、冷たい風の中でそこだけが熱を帯びているように感じた。
「恋人になるための届け出なんて、役所には要らないな」
シオンが冗談めかして言うと、私も思わず笑みをこぼした。
「ええ、離縁の合意書のような署名はいりません。でも……」
私は彼の手を握り返し、真顔に戻った。
「仕事に持ち込まないための申告は、必要ですね」
「ああ。同感だ」
私たちは同じ王都の行政機関に出入りし、待合室の改修という一つの公共案件で関わりを持っている。もし私的な関係を隠したまま仕事を進めれば、私が彼に便宜を図った、あるいは彼が私のために予算を優遇したと疑われかねない。
私たちは互いに頷き合い、今日の午後、それぞれの直属の上司に『私的関係の交際申告』を提出することを約束した。
その日の午後。私は休暇の私服のまま、調停所の裏口から入り、ディナ監督書記長の執務室を訪ねた。
「休暇中に何の用ですか、エステル」
ディナは怪訝そうな顔で顔を上げた。
「書記長。本日は私的な身上の報告で参りました」
私は背筋を伸ばし、書面を提出した。
「私、エステル・リンドは、王都営繕局の動線設計官シオン・ヴァレン氏と、本日より私的な交際を開始いたしました。本件に関して利益相反の疑念を招かぬよう、申告いたします」
ディナは私の提出した申告書を一読し、小さく息を吐いた。
「……なるほど。相手は営繕局の設計官ですか」
「はい」
「わかりました。申告を受理し、監査記録に残します」
ディナは書類に受理印を押し、冷徹な上司の顔に戻って私を真っ直ぐに見た。
「エステル。改修の見積もりや調達、検収の審査からは、あなたを外します。運用改善案の説明は引き続き担当しますが、費用と技術の説明は独立した担当者に委ねること。シオン設計官には、公開前の内部情報を渡さないように」
「はい。承知しております」
それは厳しい命令だったが、私にとっては最も欲しかった『盾』でもあった。この明確な利害の隔離があるからこそ、私は彼と対等な恋人として、誰に恥じることなく付き合っていくことができるのだ。
同じ頃、シオンもまた営繕局の直属の上司へ同様の申告を行っていたはずだ。彼は今後、調停所の予算審査の場に説明者として立つことはなくなり、別の積算担当者に引き継ぐことになるだろう。
ディナの部屋を退出して廊下に出ると、通常通り開庁している庁舎の正面掲示板に、何やら真新しい用紙が貼り出されているのが見えた。
近づいて確認すると、それは行政評議会事務局から発行された『公報』だった。
『十一月六日・調停所運用に関する定例審査の開催について』
そこには、グレゴール評議員が主導している『七日未補正終了』の暫定運用について、次回の定例会で追認か改善かを審議する旨が記されていた。そして、下段にはこう書き添えられていた。
『本審査においては、広く市民からの公開傍聴、および調停所利用者からの「任意証言」を募集する』と。
「エステル」
背後から声をかけられ、振り返るとディナ書記長が立っていた。
「公報を見ましたね。定例審査の日は十一月六日です。暫定運用である七日終了の扱いは十一月五日の末をもって一旦期限が切れます」
「はい。いよいよですね」
「私はこれから、別の指定担当者に命じて、十月七日から十一月四日までの新運用に関する三つの指標の件数を照合・集計するための欄立てを準備させます」
ディナは私に、鋭い視線を向けた。
「エステル。あなたは絶対に集計用の原票や旧番号に触れてはなりません。後日、指定担当者が作り上げた『個人が特定できない匿名合計表』が上がってきます。あなたは、それを議会で説明するための見出し資料の整理だけを担当しなさい」
「かしこまりました。集計目的では、担当事件の情報も使いません」
集計期間の終わりである十一月四日までは、まだ数日ある。最終的な数値がどうなるかはまだ誰にも確定していない。そして、一般案内を受けた人がその後戻ったか、諦めたかは、個人を識別する記録がないため測定不能のままだ。
すべてを証明することはできないかもしれない。だが、私には「待っている人をなかったことにはさせない」という信念がある。
私は、自分が戦うべき論理の準備を整えるため、大きく息を吸い込んだ。




