第28話 消えていたのは、解決ではない
十月二十九日。マレーネとオスカー夫妻は、新しい生活の拠点となる郊外の家の賃借契約写しを、無事に調停所へと提出した。
彼らの申立ては『生活協議のみ』であったため、この写しは受理の必須書類ではなく、あくまで合意書を作成するための「任意添付資料」に過ぎない。したがって、書類の準備に数日かかろうとも、彼らが再び七日未補正で終了扱いになるようなことはなかった。
そして十月三十一日。第三面談室において、担当調停官の確認の下、夫妻は『別居生活合意書』にそれぞれの名前を自署した。
彼らは夫婦という法的な枠組みを残したまま、別々の場所で自分たちのペースで生きることを選んだ。私は正規の担当書記としてその署名と案件の終結を記録したが、そこに私の感情や決裁は一切挟んでいない。彼らの人生は、彼ら自身の言葉で正しく着地したのだ。
十一月四日、個人の休暇を取った日の午後。
待ち合わせの場所で落ち合った私は、シオンと共に王都の河岸を歩いていた。お互いに私服姿で、職務を離れた「ただのエステル」と「ただのシオン」として。
公的な案件の詳細や、迫る公開審査の話題は一切口にしなかった。私たちはただ、秋の柔らかな日差しが降り注ぐ川面を眺めながら、川沿いのベンチに腰を下ろした。
風が冷たく心地よい。シオンの肩が、私の肩のすぐ近くにあった。
「……シオンさん」
私は膝の上で手を組み、川面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「私は、一度婚姻で失敗しています。自分の目も、相手の言葉も信じられなくなったことがある」
それは、私がどうしても彼に伝えておかなければならない、最後の弱音だった。
「だから、また同じ間違いをして、今度はあなたを傷つけてしまうのが怖いんです。私が勝手な思い込みで、あなたの大切な余白を奪ってしまうんじゃないかって」
シオンは私の言葉を否定しなかった。「そんなことはない」と安易な慰めを言うこともなく、ただ静かに私の隣に座っていた。
やがて彼は、ゆっくりと私の方へ向き直り、私の組んだ手の上に、自分の温かい手を重ねた。
「エステル。君が間違えたら、僕が図面を引き直す」
彼の灰色の瞳が、すぐ目の前で私を真っ直ぐに見つめていた。
「僕の引いた線が間違っていたら、君が現場から訂正印を押してくれればいい。僕たちは完璧じゃない。だからこそ、そうやって互いの不完全さを補い合えるはずだ」
その声の深さと確かな熱に、強張っていた指先から、少しずつ力が抜けていった。怖さが消えたわけではない。それでも、今はこの手を握り返したかった。
過去の傷を無かったことにはしない。不完全なままで、それでも一緒に直していくことを選んでくれる。
私は彼を見上げた。彼の瞳の奥に、私への静かで強い親愛が溢れているのが見えた。触れてもいいかと、言葉ではなく視線で問いかけ合う。
シオンの大きな手が、私の頬をそっと包み込んだ。少しだけ荒れた指先が、ひどく優しい。私は目を閉じ、彼の体温に身を委ねた。
川風の音だけが聞こえる中、私たちは初めての口づけを交わした。
焦りも、情熱に任せた衝動もない。ただ、凍えていたお互いの魂の輪郭を確かめ合うような、静かで温かい接触だった。唇が離れた後も、彼は私のおでこに自分の額をこつんと当て、そのまましばらく目を閉じていた。
過去の傷跡ごと、私という人間を丸ごと受け止めてくれる人がここにいる。その事実が、私にどれほどの勇気を与えてくれたか計り知れない。
翌十一月五日、出勤した私は集計担当から資料を受け取った。
あの案件を見届けた後も、私は行政集計の目的で彼らの旧受付番号や個人識別票を覗き見ることはしなかった。
ディナ監督書記長の厳格な管理の下、十一月四日の閉庁までの期間を区切ったデータ照合は、彼女が指定した別の担当者のみによって行われた。そして私の手元には、ディナが公表範囲を確認した『匿名合計表』だけが渡された。五件未満の細区分は実数を示さず、差し引きで個人が推定される表も除かれていた。
私は自席で、十一月六日の公開審査に向けてその数字を整理していた。
十月七日から十一月四日までの二十九日間。当所における新規の正式受付は九十六件。そのうち、必須書類が足りず『補正待ち』に入った案件は三十一件。
問題はここからだ。
補正待ちとなった三十一件のうち、グレゴール評議員の暫定運用によって『七日未補正で終了扱い』にされた案件は、なんと十八件にものぼっていた。
ただし、期間の終わり近くに受け付けた案件には、まだ七日を迎えていないものもある。単純な割合で、終了しやすさを決めつけることはできない。
そして、一度終了扱いにされた後、元の同一番号での再開を請求してきたケースが七件。さらに、新方式の受付票に設けられた任意欄で「過去に七日終了の経験がある」と申告した新番号での再来所が六件あった。
私はペンを止め、この数字の限界を箇条書きにしていく。
同一番号の再開請求(七件)と、新番号での任意申告(六件)の間に、同一人物の重複があるかどうかは匿名のままでは分からない。任意申告には無回答の人もいるだろう。また、一般案内窓口まで来て諦めて帰ってしまった人の数は、個人識別符号を残さないため『測定不能』だ。
これはわずか数週間の短期データであり、因果関係を証明するものでも、改善案の長期的な成功率を保証するものでもない。
だが、ただ一つだけ確かな事実がある。
『終了扱いにされた後にも、再開を望んで戻ってきた人がいる』ということだ。
数字の欠損も限界も、私はすべて正直に認めるつもりだ。効果を誇張せず、誠実な数字だけを武器にして戦う。消えていたのは書類上の案件だけであり、彼らの抱える問題が解決したわけではなかったのだから。
数字を追う間も、彼の指の温かさは心のどこかに残っていた。
私の机の上には、グレゴール評議員からの『定例審査の日程通知』が置かれていた。
添えられた審査の質問事項には、こう記されていた。
『保留案件の管理に要する事務時間、財源および待機日数の見通しを説明されたい』と。
戦いの日は、目前に迫っていた。




