第26話 いない人には署名できない
十月二十四日。マレーネとオスカーの再申立てを受けてから、三日が経っていた。
二番窓口に、ひどく思いつめた顔をした女性がやってきた。年齢は私と同じくらい、二十八歳だという彼女の名前はフローラ。
「どうか、お願いです。すぐにでも夫と離縁させてください」
フローラは、カウンターに身を乗り出すようにして訴えた。
「夫は、一年前に突然家を出て行ったきり戻りません。その上、彼が残した借金の取り立てが、毎日のように私のところへ来るんです。もう払えません。彼と離縁さえできれば、私は借金を返さなくてもよくなるんですよね?」
彼女の目には、すがるような光があった。
私は手元の羊皮紙を見つめ、ゆっくりと息を吸い込んだ。彼女の窮状には同情する。一刻も早く夫との関係を断ち切って、安全な生活を取り戻させてあげたいと思う。
だが、私は調停所の書記官だ。私が扱うのは、魔法の杖ではなく法律の書類なのだ。
「フローラ様。大変心苦しいのですが、この調停所では、ご主人が所在不明のまま離縁を確定する手続きは扱えません」
「え……? どうしてですか。私はこんなに困っているのに!」
「調停所は、当事者の意思を確かめ、合意できるかを話し合う場所です。ご主人が不在のままでは、意思の確認も、合意書への自筆の署名も不可能です。いない人には、署名できないのです」
フローラの顔から、すーっと血の気が引いていくのがわかった。
「それに、離縁が成立したからといって、借金の責任が自動的に変わるわけでもありません。そもそもフローラ様に支払う義務があるかは、借入れや保証の書面を確かめる必要があります。妻だから払わなければならない、と今ここで決めることはできません」
「そんな……じゃあ、私はこのまま、帰ってこない夫の借金に潰されるのを待つしかないって言うんですか……?」
彼女の目から、絶望の涙がこぼれ落ちそうになった。
「いいえ、そうではありません」
私は毅然とした声で言い、新しい用紙を引き寄せた。
「調停所では扱えませんが、裁判院であれば対応可能です」
私は、フローラ本人の請求に基づき、婚姻裁判院の『所在不明者に関する離縁』の窓口と、『債務保全』の窓口へ繋ぐための所定の送付状を書き上げた。
「この送付状を持って、裁判院へ行ってください。あちらで、ご主人の所在の調査や、離縁・債務に関する手続きを確認できます。催促の期限も伝えて、保全が必要か審査してもらってください」
私は送付状を彼女の手に握らせた。
「これで借金が明日すぐになくなるわけではありません。期限内の解決はお約束できません。ですが、あなたが次に叩くべき扉は、ここではなく裁判院です。あなたは、何もできないわけではないのです」
フローラは手の中の送付状と、私の顔を交互に見つめ、やがて涙を拭って深く頷いた。
「……はい。裁判院ですね。行ってみます。ありがとうございました」
彼女の背中が窓口から離れていくのを見送りながら、私は少しだけホッとしていた。
すべてを自分の手で救うことはできない。けれど、限界を正しく示し、適切な場所へ繋ぐことはできる。それもまた、立派な窓口の仕事なのだ。
その日の退勤後。
私は庁舎の裏口で、営繕局のシオン・ヴァレンと待ち合わせていた。
秋の深まりを感じさせる冷たい夜風の中、私たちは大通りを並んで歩いていた。街灯の光が、二人の影を石畳に長く伸ばしている。
「……今日は、少し疲れた?」
「ええ。自分にできることの限界を伝えるのは、何度やっても難しいですね」
案件のことは話さず、私は息を吐いた。シオンは静かに頷いた。
「君の言う通りだ。自分の引けない図面にしがみつくより、引ける人間に任せる方が、結果的に相手を救うことになる」
彼は足を止め、私に向き直った。
周囲には誰もいない。ガス灯の柔らかな光だけが、私たちを照らしていた。
「エステル」
シオンの灰色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「君が以前、僕に話してくれたことがあっただろう。『自分が他人の心に勝手な出口を引いて、間違えてしまった』と」
「……はい。自分の記録を、訂正した時のことです」
「間違えたことを、隠さずに僕に話してくれた。自分の弱さや過ちをごまかさない君の姿勢を、僕はとても美しいと思った」
シオンは一歩だけ、私に近づいた。
「僕も図面を間違えた。測り直して初めて、椅子を置いた時の幅が足りないと分かった。そこから一緒に配置を考えてくれたね。……間違いを認めて、それを二人で一緒に直していける人と、僕はこれからも一緒にいたい」
彼の声は低く、しかしこれ以上ないほど明瞭だった。
「あなたが好きです、エステル」
ごまかしのない、真っ直ぐな言葉。
胸の奥で、せき止めていた感情が温かい波となって押し寄せてくる。私も彼に惹かれている。彼の誠実さと、技術者としての誇りを心から尊敬している。
だが、だからこそ、私は彼にだけは安易な嘘をつきたくなかった。
「……私も、シオンさんのことが好きです」
私は両手を胸の前で軽く握り、彼の目を見つめ返した。
「でも……私は、まだ『結婚』という言葉の枠組みに入るのが、少し怖いです。一度失敗して、ようやく自分の名前を取り戻したばかりだから。また誰かと一つの家に入って、名前を変えることに……どうしても足がすくんでしまうんです」
私は、自分が担当してきた複雑な相談者たちの事情や、過去の傷を言い訳にはしなかった。ただ、今の自分自身の正直な感情として、彼に伝えた。
シオンは私の言葉を聞き、少しだけ目を伏せ、やがて優しく微笑んだ。
「……そうか。今すぐ、結婚の返事がほしいわけじゃないんだ」
彼は同情して私を抱きしめようとはしなかった。私の恐れを正当なものとして尊重し、無理に結論を急ぐことはしなかったのだ。
「でも、あなたと一緒にいる時間は、手放したくありません」
私がそう付け加えると、シオンの表情がパッと明るくなった。
「分かった。結婚という結論は、今はまだ図面の隅に置いておこう」
シオンは、私に向けて静かに右手を差し出した。
「では、結婚ではなく、次の休みの散歩から始めないか」
私は彼のその不器用な提案に、思わず小さく吹き出してしまった。
差し出された彼の手に、私は自分の手をゆっくりと重ねた。冷たい夜風の中で、彼の体温だけが確かな熱を持って私に伝わってきた。




