第25話 別の家で、夫婦のまま
十月二十一日の朝。私が担当する調停所の二番窓口に、マレーネとオスカーという初老の夫婦が並んで腰を下ろした。
二人の手には、新しく発行された正式受付票が握られている。そして、その受付票には、ディナ監督書記長の権限で十月七日から新たに設けられた『以前に七日終了扱いになったことがある』という任意申告欄にチェックが入り、以前の受付番号が几帳面な字で記されていた。
私は担当書記としてその票を受理業務上確認し、息を呑んだ。
二人が持参した終了通知と、今回の申立ての説明を照らし合わせた。彼らは十月十一日に別の担当者へ申立てを行っていた。その際の申立てには「現在の共同賃貸契約の名義変更」が含まれており、受理のために現契約書の写しが『必須』とされていた。手元の契約書を紛失しており、遠方の貸主から写しを取り寄せるには十日ほどかかると言われたという。書類の補正が間に合わず、十月十八日にグレゴール評議員の暫定運用によって「七日未補正による終了扱い」の通知を受けていたのだ。
「あの……」
妻のマレーネが、膝の上で手を組み、ひどく沈んだ声で言った。
「私たち、書類が遅れたせいで、一度相談を断られてしまったの。お役所に見捨てられたような気がして落ち込んだわ。でも、やっぱりもう一度きちんとお話ししたくて、最後尾から並び直しました」
胸の奥がギュッと締め付けられた。
終了扱いは法的権利を奪うものではないと、上層部は言う。しかし、窓口に立つ市民からすれば、終了通知は「不受理」であり「拒絶」に他ならない。結果として彼らは再来所の旅費を払い、面談の順番を取り直さなければならなかったのだ。数字上の処理件数を稼ぐ『七日未補正終了』の制度が、どれほど残酷な実害を生んでいるかを、私は目の前で痛感していた。
「マレーネ様、オスカー様。ご足労をおかけして申し訳ありません」
私は一度終了した記録を窓口で取り消すことはできない。だが、今日の彼らを正しく導くことはできる。
「本日の新しい申立てについて確認させてください。お二人は、どのような結論をご希望ですか」
「私たちは、互いを嫌いになったわけではないんです」
夫のオスカーが、隣の妻を気遣うようにちらりと見てから言った。
「ただ、妻は便利な街での暮らしを望み、私は静かな郊外で土いじりをしたい。老後のペースが合わなくなってしまった。だから、離縁はせずに、別々に暮らすための生活上の合意をしたいのです。今の家の名義変更はもう求めません。私が新しく郊外の小さな家を借りて、そこへ移ります」
彼らは自ら、申立ての対象を『互いの住居と面会の生活協議』だけに絞って再申立てをしていた。
「……承知いたしました」
私は手元の要件一覧を確認し、はっきりと告げた。
「今回、今のお住まいの契約変更を求めないので、その契約写しを補正する必要はありません。また、新居の契約写しも、生活上の協議を受理するための必須条件ではありません。後日、合意書を作成するための『任意添付資料』として、十月二十九日の面談日までにゆっくり揃えていただければ結構です。本日の申立ては、ご本人の署名等の受理要件を完全に満たしています」
二人の顔に、パッと明るい光が差した。
「つまり、もう『補正待ち』には入りません。七日で終了扱いになることもありませんから、どうか安心してください」
私がそう言うと、マレーネは目頭を押さえ、オスカーも深く息を吐き出して安堵した。
二人は、別居しても月に一度は食事を共にしたいと話した。私はその希望を記し、面談は新しい受付順で十月二十九日になると伝えた。
「今の家の名義は変えず、貸主との契約上の責任もそのままでよいのですね」
「ええ。家賃は二人の年金から出し続けます。その上で、私が別に借ります」
オスカーが答え、マレーネも頷いた。二人の合意だけで貸主の権利を変えないことを確認し、私は資料を調停官へ回した。
「今度こそ、最後まで自分たちの言葉で決めたいと思います」
次の面談日を選んで帰っていく彼らの背中を見送りながら、私は制度の危うさを改めて噛み締めていた。
その日の夜。
私は退勤後にシオンと落ち合い、小さな定食屋で向かい合って夕食をとっていた。
こうして食事をするのは二度目だ。今日の相談の話はせず、私は自分が暮らしに求めていたものについて考えていた。
「前は、一緒に食卓を囲んでいれば、夫婦でいられると思っていたんです。でも、本当は同じ場所にいるだけでは足りなかった」
私の言葉を聞いていたシオンは、手元のグラスを見つめたまま、少しだけ目を伏せた。
「……僕の両親は、世間体や『夫婦という形』にひどく固執する人たちだった」
シオンが自分から家族の過去を口にしたのは、これが初めてだった。
「愛情はとうに冷え切っていたのに、同じ屋根の下に住み続け、結果として互いを深く傷つけ合った。僕が公共建物の設計において『声が漏れない場所』にこだわるのは、幼い頃、薄い壁の向こうや廊下で、両親が罵り合う声を聞き続けたからかもしれない」
シオンの灰色の瞳には、過去の古傷を静かに見つめるような暗い色があった。
「だから、夫婦が離れて暮らすことで互いの尊厳を保てるのなら、それは一つの立派な関係の設計だと思う。一つの結論を強いる必要はない」
彼の言葉は、私の心を深く打った。
彼は自分の弱さや痛みを隠さない。そして、他人の生き方に白黒の決着を強要しない。その価値観の根底にある優しさに触れ、私は彼という人間をますます大切に思い始めていた。
「今は、静かに食事ができていますか」
私が尋ねると、シオンはしばらく黙ってから、グラスを置いた。
「一人の部屋は静かだよ。でも、こうして話しながら食べるのも、悪くない」
「私もです」
私が微笑むと、彼もまた、ほんの少しだけ口角を上げて頷き返してくれた。
帰宅した私は、静かな自室の机に向かい、ランプの灯りを頼りに羊皮紙へペンを走らせていた。
十一月六日の行政評議会定例審査に向けた、制度改善の代案の作成。
私は今日、マレーネ夫妻の担当書記として彼らの『任意申告欄』と旧番号を合法的に閲覧したが、その個別の識別事項を自分の改善説明のために流用するような規程違反は絶対にしない。集計処理はディナ監督書記長の指定した別担当者に委ね、私はあくまで全体の手順と匿名の論理だけで戦う。
だが、窓口で「断られた」と誤認して肩を落としていた彼らの姿は、間違いなく私の原動力になっていた。
書類が遅れたというだけで、相談者を数字の裏に隠してしまう、処理件数のための効率化。それは解決などではない。
私は、七日終了案に代わる、本人が選べる『保留票』の文面を下書きした。家に持ち帰ったのは白紙だけで、案件票も集計資料もない。翌日、職場で正式な案に整えるつもりだった。
その下書きの余白に、私は強い筆圧で、自分自身への戒めのように書き留めた。
『待っている人が、いなかったことになる』
そんな調停所にしてはいけない。彼らの切実な声をなかったことにはさせない。
次の面談に向けて動き出した老夫婦の姿を思い浮かべながら、私はペンを置いた。




