第24話 私が話せることだけ
その夕食の席で。
大通りから少し離れた静かなレストランで、私はシオンと向かい合っていた。テーブルには温かいスープと、半分ほど空いたワイングラスが置かれている。
他愛のない仕事の話が途切れた時、私はゆっくりと背筋を伸ばし、グラスの縁から手を離した。
「シオンさん」
私が初めて改まった声で呼ぶと、彼はグラスを置き、静かに私の目を見た。
「私から、一つだけお話ししておきたいことがあります」
胸の奥で、心臓が少しだけ速く打つのがわかった。彼に対して誠実でありたい。しかし、私には絶対に超えてはならない職業上の境界線がある。
「私は調停所の書記官です。仕事柄、誰が窓口で何を話したか、私がそこで何を知ったかという具体的な事情は、たとえ相手があなたであっても、一生お話しすることはできません」
シオンは瞬きもせず、私の言葉を待っていた。
「……話せないことがあります。不誠実に見えるかもしれません。それでも、私自身のことはあなたに話したいのです」
私は小さく息を吸い込み、告げた。
「私は、つい先日まで婚姻関係にありました。相手との合意が成立し、完全に離縁を終えたばかりです」
彼に伝えたのは、本当にその事実だけだった。窓口で夫の交際相手と遭遇したことや、独力で証拠を集めたことなど、何も語っていない。相手からすれば、事情を隠されたまま重い過去だけを突きつけられたように感じるかもしれない。
しかしシオンは、動揺する素振りも見せず、ただ小さく一度だけ頷いた。
「……そうか。話してくれてありがとう」
「理由は……聞かないのですか?」
「君が『話せないことがある』と言った。ならば、無理に詮索するのは野暮というものだろう」
シオンは再び自分のグラスを手に取り、微かに微笑んだ。
「旧姓に戻ったと聞いた時、そうかもしれないとは思った。でも、君が話してくれるまでは決めつけたくなかった。今、言葉にしてくれたことが嬉しい」
その言葉に、私は肩からふっと力が抜けるのを感じた。
彼は私が引いた境界線を、無理に踏み越えようとはしなかった。夕食の席での彼のその節度ある態度が、私にどれほど深い安堵と「正直に話せる自由」を与えてくれたか。私は改めて、彼という人間への信頼を深く噛み締めていた。
その夜、新居に帰宅した私は、郵便受けに一通の手紙が入っているのを見つけた。
封筒を裏返すと、差出人は「ノエラ・グラン」とあった。初めて見る名だった。十月十六日の日付で私の旧住所――ロランと暮らしていたあの家宛てに投函され、郵便局の転送手続きを経て、十月十九日の今日、この新居へと届いたものだった。
封を開けると、少し震えたような文字が便箋を埋めていた。
『突然のお手紙をお許しください。私は、ロラン・アレン氏と交際していた者です。彼から別居の書面を見せられ、自分が騙されていたことに気づきました。どうしても、あなたに直接お会いして謝罪したいのです』
ロランの嘘が崩れ、彼女が真実に辿り着いたのだと分かった。
無視することもできた。だが、私は手紙を机に置き、すぐに短い返事を書き始めた。会わずに終えることもできる。それでも、今度は職務の席ではなく、一人の当事者として彼女の言葉を聞いてみたいと思った。ただし、新しい住所は明かさず、中立な場所を指定した。翌朝、私信の届け先へ使いを頼み、午後に会えるという返事を受け取った。私は午後の休暇を申請し、窓口の引き継ぎを済ませた。
翌、十月二十日。
王都の喧騒から少し外れた、静かな喫茶店。
シオンにはこの面会のことは話していない。これは私個人の、過去の清算だからだ。
約束の時間に現れたノエラは、あの日、私の窓口にやって来た時の無邪気な明るさを完全に失っていた。顔色は青ざめ、目元には濃い疲労の色が浮かんでいる。
彼女は私の向かいに座ると、膝の上で手をきつく握りしめ、震える声で真っ先に言った。
「……あの日、窓口で席を立ったのは、あなたでしたね」
ロランから私の職業を聞き、すべてが繋がったのだろう。彼女の目には、強い罪悪感と怯えがあった。
私はテーブルの上に手を重ね、毅然とした声で答えた。
「ノエラ様。私は調停所の書記官です。窓口で伺ったお話の内容を、私的な面会の席で確かめ直すことはできません」
ノエラがハッとして私を見た。
「私自身の対応としてお伝えできるのは、規定に従って担当を外れたということです。その後の案内には関わっていませんし、記録も見ていません」
言葉を選ぶ間、ノエラは唇を噛んで待っていた。私がどう対応したかと、窓口で何が語られたかは、分けておかなければならない。
「私個人の暮らしについてお伝えしたいのは、彼との婚姻はすでに終えた、ということです」
ノエラは大きく息を吸い込み、やがてポロポロと涙をこぼし始めた。
「私は……彼から、交際前から妻とは別居していて、離縁の同意も済んでいると聞かされていました。でも、彼が見せた別居確認書の日付は、私たちが付き合い始めたずっと後でした。問いただすと、あなたに離縁の話をしたのも交際後だったと認めたんです」
彼女は涙を拭い、顔を上げた。
「婚姻が続いていることは知っていました。でも、夫婦の話し合いが済んでいるという彼の言葉を、それ以上確かめずに信じてしまいました。あなたは何も知らなかったと気づき……私は、彼との婚約の約束を解消しました。彼の言葉だけで安心し、あなたをひどく傷つけてしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
彼女は深く頭を下げた。
私はその謝罪を、静かに受け取った。彼女もまた、夫の都合の良い嘘に巻き込まれた被害者の一人だったのだ。
だが、私は彼女に「気になさらないで」と安っぽい同情をかけたり、「これからは友人に」と手を握ったりすることはしなかった。私たちは、同じ男に騙され、そしてそれぞれ自分の足で歩き出すことを決めた、異なる立場にいる自立した女だ。謝罪を聞くことと、親しくなれることは、私の中ではまだ別だった。
「頭を上げてください。謝罪は、確かに受け取りました。私たちはお互いに、もう彼とは無関係です」
私がそう告げると、ノエラは泣きはらした顔で、少しだけスッキリとしたように頷いた。
喫茶店を出て、私たちは店先で短い会釈を交わし、別々の方向へと歩き出した。
私は振り返らなかった。彼女がこれからどんな人生を歩むのか、私が知る必要はない。
あの人がどこへ帰ったかは、私が知らなくていい。
秋の空は高く、澄み切っていた。会えば何もかも消えるわけではない。それでも、聞きたかった言葉を聞き、私は私の暮らしへ戻っていける。明日も窓口に座ろうと思った。




