第23話 もう、業務の相手だけではない
十月十五日の朝、王都婚姻調停所の待合室に、乾いた足音と台車を押す音が響いた。
営繕局の職員たちが、木製の短い目隠しパネル数枚と、卓上に置くための新しい番号札を運び込んできたのだ。それらはすべて営繕局が保有する『貸出用在庫』であり、この一時的な設置に追加の購入費用は一切かかっていない。
「仮設備品の引き渡しリストです。数量と破損の有無をご確認ください」
シオン・ヴァレンとは別の、営繕局の検収担当者が事務的に書類を差し出し、ディナ監督書記長がそれに署名をしていく。
現在、シオンが作成した装飾費振替による『四十八銀貨の本改修計画』は、予算委員会に提出されたものの支出承認は保留されたままだ。今日の作業は本改修の工事検収ではなく、既存備品を利用した一般動線の運用テストである。前回の二人だけの配置確認から進み、今日は案内係や他の窓口の職員も、それぞれの持ち場について動きを確かめる。
検収担当者が引き上げると、シオンは袖をまくり、私とともにパネルの配置に取り掛かった。
「図面通りに角度を振って……よし。椅子を互い違いに置いてみてくれ」
私はシオンの指示に従い、待機用の長椅子をパネルの陰に設置した。
完成した空間は、以前のような「誰から見られているか分からない恐怖」を感じさせない、程よく視線が遮断されたものだった。法令で定められた避難有効幅も、しっかりと確保されている。
だが、案内係が別の来所者役を面談室へ導き、私も受付の椅子に座って書類に目を落とした時、一つの問題が浮上した。パネルの奥を見る職員が、誰もいなくなったのだ。
「……ヴァレン設計官。待合席の奥の角が、受付からは見えません。案内係が離れると、あそこを見ている人がいなくなってしまいます」
私が指摘すると、シオンは窓口側に回って私の目線の高さを確かめた。
「確かに……これでは、あの角で急病人が倒れたり、待機者同士のトラブルが起きたりしても、職員側からすぐに気づけないな」
シオンは腕を組み、難しそうな顔でパネルと通路を交互に見つめた。
「パネルの位置を数センチ下げるか。だが、そうすると今度は避難幅の規定に引っかかる」
「いえ、パネルや椅子の配置は今のままで大丈夫です」
私は立ち上がり、窓口の内側での動きを実演してみせた。
「ハードを変えるのではなく、運用でカバーします。案内係の立つ位置を変えて、待機席の奥を見渡せるようにします。受付書記官が席を離れる時も、誰が待合を見るかを決めておく。そうすれば、来所者同士の視線を遮りながら、安全の確認も続けられます」
それを聞いたシオンは、少し驚いたように目を見開き、やがて深く頷いた。
「……分かった。設備で補いきれない隙間を、現場の運用手順で埋めるということだな。それでいこう」
シオンは野帳を取り出し、貸出品の設置位置と、運用上の注意事項を補修記録として書き留めた。
開庁前にその手順を確かめてから、実際の窓口で試し始めた。こうして、十月十八日までの数日間をかけた動線の仮設テストは、大きな事故もなく運用軌道に乗った。
相変わらず調停所の掲示板には、グレゴール評議員が主導する『七日未補正で終了扱い』という暫定運用の紙が貼られたままだ。処理件数という数字のために相談者を切り捨てる試行は、十一月五日末まで容赦なく続く。
それでも、目の前の待合室には、怯える誰かが安心して座れる『片方を選ばせない椅子』が確かに存在していた。窓口の小さな改善が、確実に動き出していた。
「リンド書記官」
仮設の確認作業がすべて終わった十月十八日の夕刻。シオンが図面の筒を肩に担ぎ直し、私に向き直った。
「本改修の四十八銀貨の予算案は、まだ審査待ちのままだ。だが、ここから先、もし予算が下りたとしての正式な発注や検収手続きは、君を通さず、営繕局と調停所の上層部による独立した決裁ルートで進むことになる」
それは、公的な手続きの透明性を守るための、絶対的なルールだった。
「つまり、当所における君と僕との直接の業務調整は、これでひとまず終了ということだ」
「……はい。今まで、本当にありがとうございました」
私は深く頭を下げた。彼が私の意見を対等に聞いてくれたからこそ、この安全な空間が生まれたのだ。公的な仕事の区切りがついたことに一抹の寂しさを感じつつも、公私混同を徹底して避ける彼のやり方に、私は心からの敬意を抱いていた。
その日の退勤後。
私が秋の冷たい風に肩をすくめながら役所の裏口を出ると、ガス灯の下に深緑色の上着の影があった。
シオンは壁に寄りかかっていた背を離し、私に向かって静かに歩み寄ってきた。手にはもう、野帳も図面の筒も持っていない。
「エステル」
彼は私の名を、役職ではなく、ただの名前で呼んだ。
「直接の業務調整は終わった。……食事に行かないか」
それは、以前彼が誘ってくれた時、私が『あなたとの仕事が終わるまでは答えない』と期限付きで保留していた問いへの、あらためての誘いだった。
私は彼の灰色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。胸の奥で、小さく火が灯るような温かさを感じていた。
もう、私たちはただの業務の相手ではない。
「……はい。ご一緒させてください」
私がはっきりと頷くと、シオンの口元に柔らかく、ホッとしたような笑みが浮かんだ。
「よかった。実は、断られたらどうしようかと少しだけ考えていたんだ」
「私からお返事すると約束したではありませんか」
翌日の夕食を約束し、私たちは通りの角まで並んで歩いた。王都の石畳に響く二人の足音が、心地よく揃っていた。
翌、十月十九日。シオンが連れて行ってくれたのは、大通りから一本入ったところにある、静かで落ち着いた雰囲気のレストランだった。
テーブルに向かい合って座り、温かい料理と少しのワインを味わう。互いの仕事の失敗談や、王都の景色のことなど、たわいもない会話が静かに流れていく。
シオンは紳士的で、私の話に真剣に耳を傾けてくれた。その誠実さに触れるたび、私の中の彼に対する親愛の情は、誤魔化しようのないほど大きくなっていった。
だが、グラスの縁を指でなぞりながら、私の胸の中には一つの重い迷いが渦巻いていた。
彼は私に誠実に向き合ってくれている。ならば私も、彼に対して誠実でなければならない。
私は、つい最近までロラン・アレンの妻であったこと。窓口に夫の愛人が現れ、独力で証拠を集めて離縁を成立させたこと。職務で知ったことは話せない。その線を守りながら、私自身の離縁と今の気持ちを、どう伝えればいいのだろうか。
私的な事情を押し付けて彼を戸惑わせたくはない。だが、隠し事をしたまま新しい関係を始めることも、私にはできなかった。
揺れるワインの水面を見つめながら、私は自分のことをどこまで言葉にすべきか、深く迷っていた。




