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離縁調停所の書記官ですが、今日の相談者は夫の愛人でした――仕事は辞めません。あなたとは別れます  作者: 他力本願寺


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第22話 図面の余白に、居場所を

十月十二日の午後。王都婚姻調停所の会議室には、重苦しい空気が立ち込めていた。


 私は記録係として部屋の隅に控え、テーブルの中央で広げられている二枚の大きな建築図面を見つめていた。


 一枚は、王都行政評議会から派遣されているグレゴール・ベルン評議員が推奨する、待合室の『装飾優先案』。もう一枚は、営繕局の動線設計官であるシオン・ヴァレンが引いた、『利用者保護優先案』だ。


「ヴァレン設計官。君の引いたこの図面だが、いささか質実剛健に過ぎるのではないかね」


 グレゴールは、シオンの図面を羽ペンでコツコツと叩きながら不満げに言った。


「王都の中央所には、市民が話し合いを任せようと思える威厳も必要だ。装飾費は、そのために別枠で確保した。簡素なパネルを増やせば、それだけ点検や補修も増えるのではないか」


 グレゴールの主張は、一見するともっともらしい。しかし、彼の言う「豪華なパネル少数」の案では、先日ユイが怯えていたような親子の分離待機や、イヴァのような保護案件の相談者が相手の視線を完全に遮断して待つための『壁』の数が、絶対的に足りなくなる。


 私はペンを握る手に力を込めた。口を挟みたくなる衝動を抑え、シオンの横顔を見守った。


 シオンは腕を組み、グレゴールの圧に微塵も怯むことなく、淡々とした声で反論した。


「ベルン評議員。公的機関の威厳とは、豪華な木彫りの装飾によって保たれるものでしょうか」


「なんだと?」


「助けを求めてここへ足を運んだ市民が、対立する相手からの視線という二次的な恐怖や圧迫を受けずに、安全に手続きを進められること。その最低限の機能が担保されて初めて、この場所は調停所としての威厳を保てるはずです。見栄えのために保護機能を削る設計は、営繕局の技師として承認できません」


 彼のその言葉は、技術者としての誇りそのものだった。


 特定の誰かの名前を出して同情を誘うのではなく、建物の『機能』という絶対的な基準で、現場の人間たちを守ろうとしてくれている。


「リンド書記官」


 不意にシオンから話を振られ、私は背筋を伸ばした。


「現場の運用として、分離待機用のパネルが少数で足りるか、意見を求む」


「……はい」


 私は立ち上がり、特定の相談者の秘密は一切伏せたまま、一般的な動線要件だけを簡潔に述べた。


「平常時の混雑状況において、安全上の非同席待機を要する案件が重なることは珍しくありません。パネルの数が不足すれば、結果として受付順を乱すか、待機者を危険に晒すことになります。装飾性よりも、物理的な視線の遮断と枚数の確保を優先した仕様を求めます」


 私が現場の事実として補足すると、グレゴールは忌々しげに顔をしかめた。


「現場の言い分はわかった。だが、君たちの要求するパネルの枚数と配置変更をすべて叶えようとすれば、既定の改修予算枠である四十銀貨には到底収まらないだろう。費用過大だ。却下するしかないな」


 グレゴールは積算表を閉じようとした。


 しかし、シオンはまったく動揺していなかった。彼は自分の鞄から、あらかじめ計算してあったもう一枚の書類――緻密な積算表をテーブルに滑らせた。


「費用なら、収まります」


 シオンは積算表の数字を指で弾いた。


「評議会が要求している装飾費の八銀貨。これを、実用的なパネルの枚数増加と配置変更の費用に『振替』として充当します。既定の改修枠四十銀貨に、この振替分八銀貨を合わせた総額四十八銀貨。これが、法令の避難有効幅を完全に満たしつつ、現場の求める分離待機空間を構築するための正式な改修案です」


 見栄えのための八銀貨を、人を守るための八銀貨へと変える。それが、彼が自身の責任で出した対案だった。


「なっ……装飾費を削るというのか! そんな勝手な予算の振替が――」


「技術的な合理性と、現場の安全要求を満たした正式な図面として、私の責任において提出します。これをどう審査するかは、予算委員会の判断です」


 シオンはきっぱりと言い切った。


 彼は職権を使って私に媚びているわけではない。私という一人の女のためではなく、この建物を正しく機能させるために、彼は独立したプロフェッショナルとして上層部に噛み付いてくれたのだ。


 その横顔の清々しさに、私はただ静かに胸を打たれていた。


 会議の後、予算委員会はシオンが提出した『四十八銀貨の正式改修案』を議案として受理した。


 しかし、グレゴール評議員の抵抗もあり、すぐさま四十八銀貨の支出が承認されたわけではなかった。審査は一旦保留となり、「まずは営繕局の既存の貸出備品を仮設し、開庁時間中の実際の来所者動線で運用テストを行う」という日程だけが先に決まった。


 その日の業務終了後。私は調停所の裏口で、帰路につこうとしていたシオンに声をかけた。


「ヴァレン設計官。今日は……本当にありがとうございました」


 シオンは立ち止まり、秋の夜風に髪を揺らした。


「礼には及ばない。僕は自分の引いた図面を通したかっただけだ」


「それでも。あなたが装飾費の振替を提案してくださらなければ、現場の声は切り捨てられていました」


 薄暗い街灯の下で、私たちは少しだけ言葉を交わした。


「……予算委員会の審査、通るでしょうか」


 私が不安をこぼすと、シオンは空を見上げた。


「分からない。行政の壁は厚いからな。僕たち技術者がいくら完璧な図面を引いても、決裁の判子一つでひっくり返されることはある。それでも、諦めて図面を引くのをやめるわけにはいかない」


「はい。私も、窓口で記録を取り続けます」


 私たちは互いの仕事の先行きに対する不安を共有しながらも、それ以上の言葉は交わさなかった。


 彼の目には、確かな熱があった。私の中にも、彼に触れたいという抑えきれない思いがある。だが、私たちは知っていた。


 四十八銀貨の改修案の仮設テストが終わり、調停所と営繕局の直接の業務調整が完了するまでは、互いの好意を前提にした交際へ進むべきではないということを。


 互いの仕事への敬意があるからこそ、今はその境界線を越えてはならない。


 夜風の中、シオンは「では、次の仮設テストで」とだけ言い残し、歩き去っていった。


 保留された議案と、保留された関係。それでも、私の足取りは決して重くはなかった。

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