↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁調停所の書記官ですが、今日の相談者は夫の愛人でした――仕事は辞めません。あなたとは別れます  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/27

第21話 急ぐより、帰れる道

非常口の照明が壊れていることが発覚した翌日、十月九日の朝。


 私は始業の鐘が鳴るのと同時に、ディナ監督書記長の部屋を訪れていた。


「書記長。昨日、営繕局のヴァレン設計官による点検で、裏の非常口の照明が完全に機能していないことが判明しました。暗所での転倒や、緊急時の退避に重大な支障を来す恐れがあります。早急な修理の手配をお願いいたします」


 私は手元のメモを見ながら報告した。


 ディナは私の目をじっと見返し、ペンを取った。


「昨日、あなたが裏口から逃がした『イヴァ』という相談者のための修理、ではないわね?」


「はい。イヴァ様の名前も、保護を要する暴力や脅迫に関する案件であるという事実も、ヴァレン設計官には一切伝えていません」


 私は真っ直ぐに答えた。


「これは、当所を利用する『すべての来所者および職員』の、夜間・緊急時における安全な退路を確保するための一般的な修理要請です」


「よろしい」


 ディナは短く頷くと、定型の手順に従って『一般安全報告書』を書き上げ、正式なルートで営繕局へと提出した。


 イヴァの危険には、保護の手続きで急いで対応する。修理の要請に必要なのは、彼女の事情ではなく、照明の故障と退避時の危険だ。特定の事情を伏せたまま、施設の標準的な安全として当たり前に直す。それが、調停所という公的機関の倫理であり、私たちの戦い方だった。


 翌、十月十日の昼下がり。


 非常口の薄暗い通路に、金属が擦れる音が響いた。


 営繕局のシオンが、肩に工具箱を提げ、新しいガス灯の部品を持って現れたのだ。


「ヴァレン設計官。修理に来てくださったんですね」


「ああ。破損状況が酷かったからな」


 シオンは脚立を立て、古い煤けたガラスカバーを取り外し始めた。


「この照明の交換費用は、営繕局が普段から持っている『既存保守枠』から捻出した。日常の維持管理のための予算だから、今、君たちの待合室の改修のために申請している『四十八銀貨』の本改修計画とは別会計になる。あちらの予算を先食いすることはないから、安心しろ」


 彼は手を動かしながら、費用に関する法的な線引きを明確にしてくれた。私が心配していたことを、先回りして潰してくれたのだ。


「ありがとうございます……。本当に、助かりました」


 私が安堵の息を吐くと、シオンはガラスカバーを丁寧に拭き上げながら、ちらりと私を見下ろした。


「点検で危険が分かった以上、使う人の事情にかかわらず直さなければならない」


「……」


「修理が済むまでは、夜間の利用に補助の灯りと誘導を付けてもらうよう、書記長にも頼んでおいた。設備の故障を、使う人の注意だけで埋めるわけにはいかないからな」


 シオンは新しい部品をカチリとはめ込み、ガス管のバルブを慎重に開いた。


 シュッという短い音とともに、温かなオレンジ色の光が、薄暗かった非常口の足元を明るく照らし出した。


「でも、普通に安全な場所を作るのが、僕の仕事だ」


 光に照らされた彼の横顔は、誇り高き技術者のそれだった。


 私は胸の奥が熱くなるのを必死に堪えた。彼は私の秘密を暴こうとしない。私の抱える重責に無理に踏み込もうともしない。ただ、彼自身の職責を全うすることで、私と、顔も知らない相談者の命綱を繋いでくれたのだ。


 彼への信頼が、私の中で確固たるものとして根を下ろした瞬間だった。


 その日の午後。


 窓口にいた私の元に、見知らぬ配達人が一通の封書を届けてくれた。


 宛名はない。だが、開いて中身を見た瞬間、私は小さく息を呑んだ。


『エステル書記官様。婚姻裁判院の窓口で、無事に一時接近禁止の保護命令の審査日が通知されました。今は裁判院から紹介された一時避難先にいます。ここで審査を待てると分かり、少しだけ安心して眠ることができます。あの時、調停の手続きを急がずに止めてくれて、本当にありがとうございました』


 それは、イヴァからの短い、けれど命を繋いだ手紙だった。


 私には、夫に裁きを下す権限も、彼女の身を直接守る権限もない。だが、安全上の希望を記録し、調停官の延期判断へつなぐ手続きと、あの非常口の扉が、彼女を確実に正しい場所へと導いたのだ。


 私はその手紙を丁寧に折りたたみ、深い安堵とともに引き出しの奥へしまった。


 しかし、その安堵は長くは続かなかった。


 夕刻。ディナ監督書記長の部屋から出てきた先輩書記官が、ひどく沈んだ顔で私に耳打ちをした。


「エステル……グレゴール評議員が、また難癖をつけてきたわ」


「難癖、ですか?」


「ええ。待合室の根本的な動線を直すための『本改修計画』の申請書よ。シオン設計官が予算委員会に上げる前に、評議員の事前確認に回していた分」


 私は嫌な予感がして、身を乗り出した。


「まさか、差し戻されたのですか?」


「『費用過大』だって。たった四十八銀貨なのに、今の調停所にはそんな余裕はないって、突き返されたそうよ」


 非常口の照明は、営繕局の保守枠という別会計でなんとか直せた。しかし、ユイのような子どもたちを守るための、待合室の椅子と目隠しパネルを新設する本改修は、まだ一銀貨も承認されていないのだ。


 待たせる日数を減らしたいという彼の要求も、消えたわけではない。安全を守るための費用と時間を、どう説明するか。私たちはもう一度、その問いに向き合うことになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。