第20話 同じ部屋には、入れない
十月八日の朝。王都婚姻調停所の扉が開くと同時に、一人の若い女性が足早に入ってきた。
彼女は二十七歳のイヴァ。一昨日の夕刻、案内の箱に『夫と同じ部屋で話すのが怖いのです』という切実な便箋を投げ込んだ、その手紙の主だった。
「お手紙をくださったのは、あなたでしょうか」
私が窓口で小声で尋ねると、彼女は青ざめた顔で弾かれたように頷き、周囲を怯えたように見回した。
「はい……。夫のカイが仕事に出ている隙を突いて、急いで来ました。でも、いつ気づいて追いかけてくるか分からなくて……」
私はディナに知らせ、奥の空いた部屋へ彼女を案内した。イヴァの指先は小刻みに震えていた。彼女の申告によれば、夫からの暴力は直接的な殴打だけではないという。執拗な行動監視、交友関係の制限、そして日常的に浴びせられる「お前など一人では生きていけない」という言葉の暴力。精神をじわじわと削り取るような脅迫が、彼女から判断力と気力を奪っていた。
「早く離縁の手続きを済ませて、遠くへ逃げたいんです。でも……もし彼がここへ呼ばれて、同じ待合室に座らされたら……私は、彼の顔を見ただけで声が出なくなってしまいます」
彼女は机の縁を両手で強く握りしめ、懇願するように私を見た。
「どうか、彼と同じ部屋には入れないでください」
その震える声を聞きながら、私は奥歯を噛み締めた。
彼女の恐怖は痛いほど伝わってくる。一刻も早く手続きを進めて、彼女を安心させてあげたい。だが、王都婚姻調停所という機関の限界が、そこに立ちはだかっていた。
私たち調停所の職員には、強制的に夫を拘束したり、罰したりする権限はない。安全上の訴えを記録して保護の審査へつなぐことと、離縁そのものを確定することは、別の手続きだった。
そして何より危険なのは、焦って「非同席」の配慮が不十分なまま通常の日程を組んでしまうことだ。共通の待合室で夫と鉢合わせになれば、彼女の恐怖は頂点に達し、証言の自由は完全に奪われてしまう。最悪の場合、力ずくで連れ戻される可能性すらある。
「イヴァ様。深呼吸をしてください」
私は努めて冷静な、温かい声で彼女に語りかけた。
「あなたの『夫とは同席できない』という強いご希望と、安全上の懸念は、私が受付書記官として確実に書類に記録いたします。ですが、私たち調停所には、夫の接近を強制的に禁止する『保護命令』を出す権限がありません」
イヴァの顔に絶望の色が浮かびかけた。私はすぐに言葉を継いだ。
「その保護命令を出せるのは、婚姻裁判院です」
私は手元の用紙に素早く記録を書き込み、イヴァに申立ての内容と署名を確認してもらった。受け付けた書類を、ただちに奥の部屋にいる監督書記長のディナへと回付した。
書類を受け取ったディナは事態の緊急性を即座に理解し、本日の担当調停官と短い協議を行った。
数分後、ディナが部屋へ戻ってきた。
「エステル。調停官の判断により、本件は安全確保を最優先とし、受け付けた申立ては『安全上の延期』とします。相手方を呼ぶ日程は組まず、まず裁判院の保護手続きへつなぎます」
「はい、承知いたしました」
私は小さく頷いた。
この『延期』という措置は、彼女を救うための重要な盾となる。昨日からグレゴール評議員が始めた『七日未補正で終了扱い』にするという暫定運用は、あくまで「必須書類が揃わず、補正待ちになっている場合」に適用されるものだ。調停官が安全上の理由から意図的に手続きを止める『延期』は、書類の補正待ちとは性質が異なるため、七日終了の対象にはならない。
日程を急がないこと。手続きを一旦止めること。それが、イヴァを危険な同席へ進ませないための、最初の措置となるのだ。
「イヴァ様。安全を確かめるまで、相手方を呼ぶ日程は組みません。今日の申立ては安全上の延期として記録し、書類が遅れたことによる終了扱いにはしません」
私は彼女に、あらかじめ用意しておいた婚姻裁判院の『緊急保護窓口』への送付状を手渡した。
「まずはご自身の安全を確保することが先決です。この書類を持って、すぐに裁判院へ向かってください。あちらで必要な保護を審査してもらえます。連絡も入れますから、安全に移動できる方法を一緒に確認しましょう」
「……はい。ありがとうございます、本当に……」
イヴァは書類を胸に抱きしめ、何度も頭を下げた。
正面玄関から出れば夫の目に付くかもしれない。ディナが裁判院と連絡を取り、迎えの職員が裏口まで来てくれた。私は通路にほかの来所者がいないことを確かめ、イヴァを引き継いだ。
重い鉄の扉が閉まる音を聞いて、私は長く息を吐き出した。
調停所で裁けないものがある。それでも、正しい窓口へと確実に『繋ぐ』ことならできる。書記官としての自分の役割を、また一つ果たせたような気がした。
非常口が内側から開くことを確かめて振り向いた時、通路の薄暗い奥から足音が近づいてきた。
「リンド書記官」
現れたのは、片手に野帳を持った営繕局のシオン・ヴァレンだった。
「ヴァレン設計官。こんなところでどうされたんですか」
「一般的な夜間退避ルートの点検だ。この建物の非常口が、有事の際に規定通りの時間で開閉できるかを確認して回っている」
シオンは私の背後にある非常口の扉を一瞥した。彼には、たった今ここから怯えた相談者を逃がしたという個別の事情は一切伝わっていない。私は守秘義務に従い、イヴァの存在や保護案件であることについては完全に口を閉ざした。
彼は純粋な建物の点検として、扉の立て付けを調べ、蝶番に軽く触れた。
「扉の開閉自体には問題ない。だが……」
シオンは頭上を見上げ、低く唸った。
「リンド書記官。この非常口の頭上にある照明、いつから切れている?」
「え……?」
言われて見上げると、分厚いガラスに覆われたガス灯の光が完全に消えており、煤で真っ黒になっていた。
「昨年度の予算削減の影響で、切れたまま放置されている箇所がいくつかあると聞いていますが……ここは裏口なので、盲点になっていたのかもしれません」
シオンの灰色の瞳が、冷たい怒りを帯びたように鋭くなった。
「予算不足で放置だと? ふざけるな」
彼は忌々しげに野帳に書き込みをしながら言った。
「火災や緊急時に、来所者がパニックになってこの扉に殺到したとする。足元を照らす光がなければ、段差で転倒して致命的な事故に繋がる。夜間であればなおさらだ。ここは安全な退路ではなく、ただの危険な暗がりだぞ」
その言葉に、私はハッとした。
もし先ほどのイヴァが、夜間に夫から逃れるためにこの扉を使ったとしたら。暗闇の中で足をもつれさせ、逃げ遅れてしまっていたかもしれない。
制度を正しく運用しても、建物そのものが安全でなければ、相談者の命は守れないのだ。
「……すぐに直さなければなりませんね」
「ああ。営繕局の保守枠で交換できるか確認する。だが、もし配管自体が傷んでいたら、大掛かりな改修が必要になるかもしれない」
シオンは手帳を閉じ、私を真っ直ぐに見た。
「制度も建物も、ほころびは一番弱い人間から襲う。絶対に放置はしない」
私と彼の戦う場所は違う。けれど、目指している『人を守る』という目的は完全に一致していた。




