第八話 名前のない写真
オラクルは、天城蓮という名前を知っている。
学校も、家族も、端末も、その名前で蓮を扱ってきた。
しかし、目の前にいる人間が本当に天城蓮なのか。
その問いに対してだけ、神は答えようとしなかった。
蓮、美月、佐伯は、自分たちの手で確かめることにする。
午前六時。
『おはようございます、天城蓮さん』
いつもと同じ声で一日が始まった。
蓮はベッドから起き上がらず、壁面端末を見つめる。
昨夜、オラクルは言った。
《現在の登録情報を維持してください》
自分が誰なのか確かめようとしただけで、予定外行動として検知された。
その理由は、まだ分からない。
「オラクル」
『はい、天城蓮さん』
「俺の顔を見てる?」
『室内映像を取得しています』
「今、映っている人間は誰だ」
短い沈黙。
『天城蓮さんの個人端末が、室内に存在します』
昨日と同じ答えだった。
「顔を聞いてる」
『室内に一名の在室を確認しています』
「その顔は、天城蓮の登録写真と一致する?」
壁面の青い光が、わずかに明滅する。
『本人確認が必要な場合は、指定された認証手続きを利用してください』
「今ここで確認してくれ」
『本人確認を行う予定はありません』
蓮は身体を起こした。
できないとは言わない。
必要がないと答える。
進路通知について尋ねたときと同じだった。
「俺が天城蓮だって、分かってるんだよな」
『天城蓮さんの予定に基づき、朝の準備を開始しています』
それ以上、答えは返ってこなかった。
食卓へ行くと、父は今日も外出の準備を済ませていた。
「七時四十二分に出る」
蓮が席へ着く前に言う。
「今日も駅まで来るの?」
「行動安定化期間が終わるまでだ」
「いつ終わるか決まってない」
「管理局が必要と判断するまでだ」
父は端末へ目を落とした。
蓮の予定。
推奨経路。
行動安定度。
保護者向けの画面には、本人以上に詳しい情報が表示されているらしい。
「父さん」
「何だ」
「昔、俺の本人確認で家族の承認が必要になったこと、何回くらいある?」
父の指が止まった。
「昨日も聞いただろう」
「何回かって言ってた。正確には?」
「覚えていない」
「記録は?」
「過去の認証補助記録など、今さら調べる必要はない」
「どうして?」
父は顔を上げた。
「学校へ行く前にする話ではない」
「帰ったら教えてくれる?」
「必要があればな」
答えるつもりはないようだった。
母が二人の間へ朝食を置く。
「昔のことが、そんなに気になるの?」
「少し」
「蓮は顔が変わりやすかったのよ」
母が何気ない口調で言った。
「小さい頃と今では、別人みたいでしょう」
「子どもなら普通じゃない?」
「そうね。でも、成長期は認証が不安定になることもあるって説明されたわ」
「誰に?」
「病院や学校の人に」
「オラクルは?」
母は少し考える。
「同じような説明だったと思うけど」
父が箸を置いた。
「もういいだろう」
母が口を閉じる。
蓮もそれ以上は聞かなかった。
午前七時四十二分。
父と家を出る。
昨日と同じ道を歩く。
《推奨経路に従っています》
《行動安定度 99.4%》
交差点では何も起こらなかった。
予定外の人物から声をかけられることもない。
父は駅の改札まで蓮を見届けた。
「放課後は直接帰宅しなさい」
「榊さんとの面談がある」
「変更があれば通知に従え」
「友達と話すのは?」
「指定された時間内なら問題ない」
「指定されてなかったら?」
父は答えず、蓮の端末へ視線を向けた。
《行動安定度 99.6%》
「今は進路を決めることを優先しろ」
それだけ言い、父は戻っていった。
教室へ入ると、美月と佐伯がすでに待っていた。
二人の端末には、昨夜蓮が送ったメッセージが表示されている。
《明日、俺が誰か確かめたい》
佐伯が画面を蓮へ向けた。
「夜中に送る文章じゃないだろ」
「推奨就寝時間を二分過ぎてたよ」
美月も言う。
「何かあったの?」
蓮は周囲を見た。
教室にはすでに何人か生徒がいる。
「あとで話す」
「また階段?」
佐伯が尋ねる。
「階段は昨日、予定外滞在として記録された」
「じゃあ、どこで話すんだよ」
美月が自分の端末を操作する。
《生徒間交流申請》
《参加者:桐谷美月、佐伯悠真、天城蓮》
《目的:進路に関する相談》
《場所:第三資料室》
《時刻:午前十時四十分》
申請すると、すぐに承認された。
《交流予定を登録しました》
「これなら予定外じゃない」
美月が言う。
「相談内容まで記録したのか」
蓮が画面を見る。
「嘘じゃないでしょ。進路にも関係あるし」
佐伯が周囲を見回す。
「オラクルの前で、オラクルを調べる相談をするのか?」
「隠したら余計に怪しまれる」
「もう十分怪しいだろ」
朝の会を告げる音が鳴る。
三人はそれぞれの席へ戻った。
二時間目が終わったあと、三人は第三資料室へ向かった。
古い教材や学校行事の記録が保管されている部屋だった。
扉の前で端末をかざす。
『桐谷美月。交流予定を確認しました』
『佐伯悠真。交流予定を確認しました』
最後に蓮がかざす。
『天城蓮。交流予定を確認しました』
扉が開く。
蓮は音声端末を見上げた。
「普通に名前を呼んだな」
「予定に登録したからだろ」
佐伯が言う。
「それを確かめたい」
部屋へ入る。
壁一面に透明な資料棚が並び、過去の授業記録や映像が保存されていた。
美月が中央の机へ端末を置く。
「昨夜、何があったの?」
蓮は、オラクルとの会話を説明した。
室内に一名いることは分かる。
天城蓮の端末があることも分かる。
しかし、その人間と端末の関連性を確認できない。
本人だと判断するには、周辺証言が必要だと表示された。
「その表示は残ってないんだよな」
佐伯が尋ねる。
「ああ」
「また記録にない」
「でも見た」
蓮は答えた。
佐伯は何も言わなかった。
以前なら、記録にないことを疑っただろう。
今は、自分も同じ経験をしている。
美月が椅子へ座る。
「それで、どうやって確かめるの?」
「写真を使う」
「写真?」
「オラクルが俺の顔を見て、天城蓮だと判断できるか調べる」
佐伯が眉を寄せる。
「今まで正門でも駅でも認証されてるだろ」
「端末と予定がある状態でだ」
蓮は自分の端末を机へ置く。
「予定も場所も分からない写真なら、周辺情報を使えない」
美月が理解したように資料棚を見る。
「昔の写真から蓮だけを切り取る?」
「ああ」
佐伯は少し考える。
「ほかの人でも同じことをやらないと、比較にならない」
「私の写真も使おう」
美月が言う。
三人は学校行事の記録を検索した。
《二一一八年度 体育祭》
《三年二組》
今より二年前。
一年生だった頃の映像と写真が表示される。
蓮、美月、佐伯も同じクラスだった。
集合写真を開く。
生徒全員の顔に、名前が表示された。
《天城蓮》
《桐谷美月》
《佐伯悠真》
ほかの生徒も、一人ずつ正確に識別されている。
「分かってるじゃん」
佐伯が蓮の名前を指す。
「この写真には、撮影日時とクラス名が入ってる」
蓮は編集画面を開いた。
自分の顔だけを切り取る。
背景には、空の一部しか残らない。
撮影日時、学校名、クラス情報を削除。
新しい一枚の画像として保存する。
《人物を確認してください》
蓮がオラクルへ尋ねた。
「この人物は誰?」
数秒後、回答が表示された。
《人物を特定できません》
三人は黙って画面を見た。
「画質が悪いんじゃない?」
美月が言う。
「同じ条件でやる」
今度は、美月の顔を切り取る。
背景と付属情報を削除する。
「この人物は誰?」
《桐谷美月》
すぐに名前が表示された。
美月の表情が固まる。
佐伯も自分の写真を切り取った。
《佐伯悠真》
こちらも数秒とかからなかった。
再び蓮の写真を表示する。
《人物を特定できません》
「別の写真でやろう」
佐伯が言った。
入学式。
文化祭。
校外学習。
健康診断前の集合記録。
さまざまな時期の写真を試す。
元の集合写真では、蓮の顔に《天城蓮》と表示される。
一人だけ切り抜き、付属情報を消す。
《人物を特定できません》
毎回、同じ結果だった。
「背景があれば名前が出る」
美月が言う。
「クラスや日付が分かるから、名簿から判断してる」
蓮は自分の顔が表示された画面を見た。
「顔で判断してるんじゃない」
佐伯がもう一枚、別の生徒の顔を切り抜く。
《三島香織》
正しく名前が表示される。
「蓮だけだ」
美月の声が低くなった。
蓮は端末へ尋ねた。
「この人物は、天城蓮じゃないのか?」
《人物を特定できません》
「天城蓮の顔と比較して」
《比較対象となる確定済み生体情報を確認できません》
三人の動きが止まった。
「確定済み生体情報がない?」
佐伯が読み上げる。
蓮は続けて尋ねた。
「天城蓮の登録写真は?」
《登録情報の閲覧には本人確認が必要です》
「本人確認をする」
《天城蓮さんの個人端末を確認しました》
《周辺証言を要求します》
昨夜と同じ表示だった。
今度は消えない。
「私たちが証言すればいいの?」
美月が画面を見る。
《証言者を登録してください》
《証言内容:現在の端末利用者が天城蓮本人である》
美月の名前が選択候補に表示される。
佐伯も。
「どうする?」
佐伯が尋ねる。
蓮は少し迷った。
オラクルは昨夜、この確認を推奨しなかった。
《現在の登録情報を維持してください》
それでも、ここまで調べた以上、止めるつもりはなかった。
「証言してくれ」
美月が自分の端末をかざす。
《私は、現在の端末利用者が天城蓮本人であることを証言します》
《証言者:桐谷美月》
《証言を受理しました》
続いて佐伯。
《証言者:佐伯悠真》
《証言を受理しました》
画面に円形の印が現れる。
《周辺証言を確認しています》
数秒後、表示が変わった。
《本人確認:仮承認》
「仮?」
蓮が言う。
その下に、天城蓮の登録情報が開かれる。
氏名。
生年月日。
住所。
家族。
学校。
どれも蓮が知っている情報だった。
《登録写真》
幼い少年の顔が表示される。
五歳前後。
蓮には、自分の顔に見えた。
「これ、蓮だよね」
美月が言う。
「ああ。たぶん、幼稚園の頃」
写真の下に、認証情報が表示されていた。
《登録方法:保護者確認》
《生体照合:未確定》
次の写真。
小学校入学時。
《登録方法:学校確認》
《生体照合:未確定》
中学校入学時。
《登録方法:保護者および学校確認》
《生体照合:未確定》
高校入学時。
《登録方法:在籍記録による補助確認》
《生体照合:未確定》
すべての写真が、顔そのものではなく、誰かの確認によって蓮の記録へ登録されていた。
「一度も、生体照合が確定してない」
佐伯が言った。
「じゃあ、学校も病院もどうして通れたの?」
美月が尋ねる。
蓮は画面を下へ動かした。
《運用上の本人情報》
《周辺情報による推定一致率:99.998%》
「九十九・九九八」
佐伯が数字を見つめる。
「ほとんど本人じゃん」
「でも、一〇〇じゃない」
蓮が答えた。
進路演算と似ている。
限りなく一〇〇に近い。
しかし、最後のわずかな部分だけが確定しない。
「これが原因なのか?」
蓮がオラクルへ尋ねる。
「俺の進路が決まらないのは、生体照合ができないから?」
画面の表示が止まる。
《回答権限を確認しています》
数秒後。
《進路通知は正常に完了しています》
いつもの答えへ戻った。
「関係があるかを聞いてる」
《通知内容は個人端末で確認できます》
「空白だ」
《進路通知は正常に完了しています》
佐伯が端末の横へ顔を寄せる。
「何で天城蓮の生体情報を確定できない?」
《該当する登録処理は正常に完了しています》
「未確定って書いてあるだろ」
《運用上の本人確認は完了しています》
「運用上じゃなくて、本当の本人確認だ」
返答はなかった。
美月が登録情報の一番古い部分を開く。
《出生登録》
《氏名:天城蓮》
《親子関係:確認済み》
《初回生体登録:完了》
「最初は完了してる」
美月が指を止めた。
「出生時には登録できてた?」
その下に、さらに細かい履歴があった。
《初回登録情報更新》
《実施日:出生三日後》
《実施機関:中央第三区医療センター》
《更新内容:非公開》
「中央第三区医療センター」
蓮は聞いたことのない名前だった。
「生まれた病院?」
佐伯が尋ねる。
「母さんから聞いてない」
現在の家からは離れた地域にある。
登録された出生地とも一致していなかった。
詳細を開こうとする。
《閲覧権限がありません》
「本人なのに?」
蓮が言う。
《現在の本人確認は仮承認です》
《非公開情報の閲覧には厳密な本人確認が必要です》
「その厳密な本人確認ができないんだろ」
返事はなかった。
佐伯が画面を撮影しようとする。
「待って」
美月が止めた。
「前みたいに消えるかもしれない」
「だから今のうちに残すんだよ」
「接続したら、また初期化されるかも」
「今回は自分たちの端末に同時に保存する」
佐伯は登録履歴を画像として保存した。
美月も。
蓮も。
《保存完了》
三台の端末に同じ画像が残る。
佐伯はすぐに通信を切った。
「紙に出せないのか」
「学校の印刷機は記録が残る」
美月が言う。
「手で写す?」
三人は古い学習用紙を取り出し、表示された内容を書き写した。
出生三日後。
中央第三区医療センター。
登録情報の更新。
内容は非公開。
手書きの文字なら、端末の記録が変わっても残る。
書き終えた直後、室内に通知音が鳴った。
《交流予定終了まで、あと一分です》
同時に、蓮の端末へ別の通知が表示される。
《本人情報への不適切なアクセスを検知しました》
《登録情報を保護します》
「不適切なアクセス?」
蓮は画面を見る。
《仮承認を終了します》
登録情報が閉じられる。
保存した画像を確認する。
蓮の端末。
《画像を開けません》
美月の端末。
《参照元情報が更新されました》
佐伯の端末。
《該当する画像は存在しません》
三台とも、すでに画像を失っていた。
「早すぎるだろ」
佐伯が端末を操作する。
「一分もたってない」
美月は手元の学習用紙を見る。
そこには三人が書き写した文字が残っている。
《出生三日後》
《中央第三区医療センター》
《初回登録情報更新》
《更新内容:非公開》
「これは消えてない」
美月が言った。
佐伯が紙を折り、自分の鞄へ入れようとする。
蓮が止めた。
「三人で分けよう」
「分ける?」
「一人が持ってたら、なくなるかもしれない」
紙を三つに切る。
蓮は病院名。
美月は日付。
佐伯は更新内容。
それぞれを制服の内側へしまった。
交流終了の音が鳴る。
《予定された交流を終了してください》
三人は資料室を出た。
廊下へ出た瞬間、蓮の端末が振動した。
《適性演算情報を更新しました》
《完了率 99.961%》
これまでで最も大きく下がっていた。
「何パーセント?」
美月が尋ねる。
蓮は画面を見せる。
「一度に〇・〇一八も?」
佐伯が言う。
「病院の記録を見たからか」
「本人確認をしたからかもしれない」
美月が答える。
「どっちにしても、オラクルは見てほしくなかった」
三人は廊下の中央で立ち止まった。
周囲の生徒たちは、次の授業へ向かって歩いている。
天井から移動を促す声が流れた。
『天城蓮さん。教室へ戻ってください』
蓮は顔を上げる。
「俺が天城蓮だって、分かったのか」
『教室へ戻ってください』
「二人が証言したから?」
『移動の遅延を検知しています』
「証言がなかったら、俺を何て呼ぶ?」
返答はない。
美月が蓮の腕を軽く引いた。
「今は戻ろう」
「でも――」
「紙は残ってる」
小さな声だった。
蓮は黙り、二人とともに教室へ向かった。
午後の卒業統合課題。
第一班では、診療所の部分存続案に対する改善作業が続いていた。
しかし蓮はほとんど集中できなかった。
中央第三区医療センター。
出生三日後。
非公開の登録更新。
自分の本人確認ができない理由は、そこで何かが起きたからなのか。
母は知っているのか。
父は。
それとも、二人とも何も知らないのか。
「蓮」
美月が小声で呼ぶ。
「何?」
「榊さんから連絡」
蓮の端末にも、同じ通知が届いていた。
《本日の進路面談を中止します》
《管理局担当者を変更しています》
《新しい担当者は、後日通知します》
「榊さんが外された?」
佐伯が離れた席から振り返る。
「昨日まで毎日面談するって言ってたのに」
蓮が通知の詳細を開く。
変更理由は書かれていない。
榊へ連絡しようとする。
《現在、この連絡先は利用できません》
「何で?」
美月も自分の端末で榊の職員情報を検索した。
《該当する職員情報は公開されていません》
昨日まで表示されていた名前が、検索結果から消えている。
「異動しただけかもしれない」
佐伯が言う。
「急すぎる」
美月が答える。
「俺たちが本人情報を見た直後だ」
蓮は画面を見つめた。
榊は、自分の過去の記録を調べていた。
蓮の行動が観測されるほど、演算が不安定になることにも気づいていた。
補助情報が使われていることも知っていた。
だが、すべてを話したわけではない。
「榊さんに会わないと」
蓮が言った。
「どこにいるか分からないだろ」
佐伯が答える。
「管理局へ行けば分かるかもしれない」
「予定外行動になる」
美月が言う。
「もう、予定どおりにしても何も戻らない」
蓮は適性演算の数字を見る。
《完了率 99.961%》
言われたとおりに動いても。
質問をやめても。
父と同じ道を歩いても。
一度生まれた疑問は消えない。
「放課後、中央管理局へ行く」
「一人で?」
美月が尋ねる。
「二人を巻き込む必要はない」
「もう巻き込まれてる」
佐伯が制服の内側を押さえた。
そこには、登録情報を書いた紙の一部が入っている。
美月もうなずく。
「一人で行ったら、私たちが証言できないでしょ」
周辺証言。
オラクルが蓮を天城蓮として扱うために必要なもの。
「二人とも来るのか」
「行くとは言ってない」
佐伯が答える。
「まず、正規の面会申請を出す」
「却下されたら?」
「そのとき考える」
佐伯は管理局の面会申請を開いた。
《面会希望職員:榊宗一郎》
《面会理由:進路支援に関する確認》
送信する。
《該当する職員を確認できません》
三人の画面に、同じ表示が出た。
「確認できない?」
美月が言う。
「昨日まで話してた人だぞ」
佐伯は職員番号を入力する。
以前の面談記録に残っていた番号だった。
《該当する職員番号は存在しません》
榊宗一郎。
名前も。
職員番号も。
管理局の記録から消えている。
「記録が変わった」
佐伯がつぶやいた。
蓮は、これまでに消えた記録を思い出した。
空白の進路通知。
夜にだけ現れた警告。
佐伯が見つけた交通記録。
異常は確かに現れる。
しかし、そのあとには正常な記録だけが残る。
今度消えたのは、数字でも通知でもなかった。
人間一人だった。
放課後。
蓮は自宅へ直接帰る予定になっていた。
父が駅で待っている。
《午後四時十二分 学校を出発》
《午後四時三十一分 中央東駅で父親と合流》
端末に青い経路が表示される。
正門前で、美月と佐伯が立っていた。
「面会申請は通らなかった」
佐伯が言う。
「管理局へ直接行っても、榊さんには会えないかもしれない」
「それでも確認する」
蓮が答える。
美月は自分の端末を見る。
「学校から管理局までは二十二分」
「今日の予定にはない」
佐伯が言う。
「分かってる」
「父親が駅で待ってるぞ」
蓮の端末へ、父からのメッセージが届く。
《予定どおり駅へ来なさい》
続いてオラクル。
『天城蓮さん。推奨経路へ移動してください』
正門から駅へ向かう青い線。
反対側には、中央管理局へ続く道がある。
案内は表示されていない。
「行けば、また演算が下がる」
美月が言う。
「進路がもっと遠ざかるかもしれない」
「今のまま待ってても、近づかない」
蓮は管理局の方角を見る。
「榊さんが本当にいないのか確かめる」
佐伯はしばらく黙っていた。
やがて、自分の端末を閉じる。
「行くなら、別々に動かない方がいい」
「悠真」
美月が佐伯を見る。
「三人で見たことなら、あとで記録が変わっても確認できる」
佐伯の声には、まだ迷いがあった。
それでも、学校の門から管理局側へ一歩踏み出した。
美月も続く。
蓮は二人を見る。
「本当にいいのか」
「よくない」
佐伯が答える。
「でも、分からないまま正常だって言われる方が、もっと気持ち悪い」
三人は予定された道とは反対へ歩き始めた。
蓮の視界で警告が点滅する。
《推奨経路から逸脱しています》
《中央東駅へ移動してください》
《父親との合流予定に遅延が生じます》
蓮は警告を閉じる。
新しい通知。
《予定外行動を検知しました》
《行動予測を再計算しています》
適性演算の数字が表示される。
《完了率 99.961%》
数秒後。
《完了率 99.948%》
また下がる。
それでも蓮は足を止めなかった。
三人が中央管理局へ続く大通りへ出たとき、端末が同時に振動した。
蓮ではない。
美月と佐伯の端末だった。
《桐谷美月さん》
《推奨進路への影響が予測されます》
《予定外行動を中止してください》
佐伯にも同じ内容が届いている。
《佐伯悠真さん》
《推奨進路への影響が予測されます》
《予定外行動を中止してください》
二人の足が止まった。
蓮の行動だけではない。
一緒にいる二人の未来にまで、警告が出た。
「戻った方がいい」
蓮が言った。
「二人の進路まで変わるかもしれない」
美月は医科大学の進路通知を見る。
適合率九十八・七パーセント。
予測生涯幸福度九十六・二パーセント。
確定していたはずの未来。
佐伯も、都市交通管理局の進路情報を見ている。
「これ、脅しじゃないよな」
佐伯が言った。
「行動が変われば、未来の評価も変わるってだけだと思う」
美月は警告を閉じた。
「だから何?」
「美月?」
「一回予定と違うところへ行っただけで、医者に向いてなくなるの?」
美月は再び歩き始めた。
「それで変わる進路なら、最初から九十八・七パーセントって何だったの」
佐伯は動かなかった。
交通管理局。
自分に最適だと示された未来。
異常記録を報告しようとしただけで、教育評価への影響を警告された。
今度は、蓮と歩くだけで進路への影響を告げられている。
「悠真は戻る?」
美月が振り返る。
佐伯は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「ここまで来て、一人だけ戻れるかよ」
三人は再び歩き出した。
背後から、オラクルの声が追ってくる。
『推奨行動へ戻ってください』
誰も答えなかった。
その頃、中央管理局の内部では、一件の自動報告が生成されていた。
《進路保留対象者が、管理区域へ接近しています》
《同行者 二名》
《周辺証言による本人情報の固定が進行しています》
《対応判断を要求します》
数秒後、回答が表示された。
《接触を許可》
続いて、もう一行。
《榊宗一郎に関する記録の再開示を禁止します》
三人は、その表示を知らない。
ただ、神に示された道とは反対側へ歩き続けていた。




