第七話 正常な記録
記録には、正しい事実が残される。
人間の記憶は曖昧でも、オラクルの記録は失われない。
だからこそ、人々は記録を信じてきた。
しかし佐伯悠真が見つけた異常は、翌朝にはどこにも存在しなくなっていた。
午前六時。
カーテンが開く。
『おはようございます、天城蓮さん』
蓮は目を開けたまま、壁面端末の声を聞いていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
机の上の個人端末には、今日の予定が表示されている。
《午前七時四十二分 父親と自宅を出発》
《推奨経路を使用》
《予定外の接触を避けてください》
適性演算の数字は、昨夜から変わっていない。
《完了率 99.987%》
蓮は端末を手に取った。
履歴を開く。
《行動予測モデルを再構成しています》
《再構成に失敗しました》
その表示は残っていない。
《在室者:一名》
《登録端末:天城蓮》
《関連性を確認できません》
昨夜、確かに見たはずの記録も消えていた。
「オラクル」
『はい、天城蓮さん』
「昨日、この部屋にいた人間を確認できなかったよな」
『室内の在室情報に異常はありません』
「俺が誰か聞いたら、答えなかった」
『天城蓮さんの個人端末は、現在も室内に存在します』
「端末じゃない。俺の話だ」
短い沈黙。
『天城蓮さんの予定に基づき、起床準備を開始しています』
また、質問から外れた。
蓮は壁面端末を見る。
「今、俺がここにいるって分かる?」
『室内に一名の在室を確認しています』
昨日と同じ答えだった。
「その一人は誰だ」
『天城蓮さんの個人端末が、室内に存在します』
人間と端末。
その二つを、オラクルは一度も同じものとして答えない。
「俺を見て、天城蓮だって判断してるわけじゃないのか」
返事はなかった。
代わりに朝食の推奨時刻が表示される。
『午前六時十五分までに、リビングへ移動してください』
蓮はそれ以上聞かなかった。
質問を繰り返せば、適性演算がまた下がるかもしれない。
今朝は父と一緒に駅まで行くことになっている。
推奨どおりに行動しなければならない。
それで本当に進路が決まるのかは、もう分からなかった。
リビングでは、父が外出用の上着を着たまま待っていた。
「時間は?」
「まだ六時十分」
「七時四十二分には出る。準備を遅らせるな」
「分かってる」
母が朝食を並べる。
「駅まで一緒に行くだけでしょう。そんなに構えなくても」
「行動安定化期間だ」
父は自分の端末を確認した。
「昨日のような逸脱を繰り返させるわけにはいかない」
「子どもを助けたこと?」
「指示に従わなかったことだ」
母が小さく息を吐く。
蓮は何も言わず、箸を取った。
父と議論をしても、同じ場所へ戻るだけだ。
オラクルは事故を回避できた。
だから蓮の行動は不要だった。
父にとっては、それで結論が出ている。
午前七時四十二分。
父と並んで家を出た。
青い案内線が、いつもの道へ伸びている。
父は線の中央を歩いた。
蓮もその隣を歩く。
《推奨経路に従っています》
《行動安定度 99.2%》
昨日より数字が高い。
父が蓮の端末を見た。
「そのまま維持しろ」
「見張らなくても外れないよ」
「昨日も、最初はそう言っていた」
「昨日は子どもが車道に出た」
「今日は何も起きない」
父は迷いなく言った。
未来を知っているような言い方だった。
だが、父が知っているわけではない。
オラクルの予測を信じているだけだ。
駅前の交差点へ近づく。
昨日、少女が車道へ出た場所。
今日は何も起きていなかった。
歩行者は信号に従い、車両も一定の速度で進んでいる。
赤い球も。
少女も。
母親もいない。
「ほら、問題ない」
父が言った。
蓮は交差点を渡る。
昨日の出来事さえ、すでに消えてしまったようだった。
駅へ着く。
父は改札前で立ち止まった。
「ここからは学校の管理範囲だ」
「分かってる」
「放課後も推奨経路で帰宅しなさい」
「面談があるかもしれない」
「予定が変更されれば通知が来る」
父は蓮の端末へ目を向ける。
《行動安定度 99.5%》
「今日は維持できそうだな」
「まだ朝だよ」
「余計な判断をしなければいい」
父はそう言い残し、来た道を戻っていった。
蓮は改札を通る。
《天城蓮。乗車を確認しました》
いつもどおり名前を呼ばれる。
しかし今は、その声を以前と同じようには聞けなかった。
端末を持ち。
予定どおりの時刻に。
予定どおりの駅へ来た。
だから、天城蓮として処理された。
では、この端末を別の人間が持っていたら。
オラクルは、誰を天城蓮と呼ぶのだろう。
教室へ入ると、佐伯の席が空いていた。
美月はすでに来ており、自分の端末で医科大学の入学準備資料を読んでいる。
「悠真は?」
蓮が尋ねる。
「まだ来てない」
「珍しいな」
「遅刻する予定にはなってないけど」
美月が佐伯の席を見る。
登校予定は、生徒同士でも限定的に共有されている。
佐伯の表示は、
《登校中》
となっていた。
「昨日の記録、どうするか考えるって言ってた」
蓮が言う。
「交通の記録?」
「ああ」
美月は声を落とす。
「報告するのかな」
「正しいことをするなら、報告するって言ってた」
「正しいことって?」
「異常な記録を隠さないこと」
美月は少し考える。
「でも、隠してるわけじゃないよね。まだ先生に言ってないだけで」
「今日まで考えるって」
「蓮は、報告してほしくないの?」
蓮は答えられなかった。
佐伯が見つけたのは、自分の行動に関する異常だ。
管理局へ報告されれば、さらに調査されるかもしれない。
進路が決まる可能性もある。
一方で、何を調べられるのか分からない怖さもあった。
「分からない」
蓮が答える。
美月は小さく笑った。
「私たち、本当にそればっかり」
朝の会が始まる直前、佐伯が教室へ入ってきた。
走ってきた様子はない。
それでも顔色が悪かった。
「悠真」
美月が声をかける。
佐伯は二人を見ると、何も言わず自分の席へ鞄を置いた。
担任が教室へ入ってきたため、それ以上話す時間はなかった。
朝の会が始まる。
出席確認。
連絡事項。
卒業統合課題の予定。
すべてが終わる。
担任は佐伯の遅れについて触れなかった。
記録上、遅刻ではなかったからだ。
一時間目が終わると、佐伯が蓮の席へやってきた。
「昨日のデータ、消えた」
声は小さかった。
蓮は佐伯を見る。
「消えた?」
「朝、もう一度開いたら、算出不能の表示がなくなってた」
佐伯が端末を操作する。
交通課題の記録を開く。
昨日見せられた駅前交差点のデータ。
《歩行者介入:一名》
そこまでは同じだった。
《介入による事故回避寄与率:0.0%》
昨日は《算出不能》だった項目に、数字が入っている。
「ゼロ?」
「お前が動いても、事故回避には影響しなかったってことになってる」
次の項目。
《介入後の事故発生確率 0.0003%》
昨日は算出不能だった。
今は介入前と同じ数字が表示されている。
「オラクルが再計算したんじゃないか」
美月が言う。
「俺も最初はそう思った」
佐伯は更新履歴を開いた。
《記録作成時刻 七月二十三日 午前七時五十二分》
《最終更新時刻 七月二十三日 午前七時五十二分》
「更新されてない?」
蓮が尋ねる。
「ああ。最初からこの数字だったことになってる」
「見間違いじゃないの?」
美月の問いに、佐伯はすぐ答えなかった。
「そうかもしれない」
昨日とは違い、声に自信がない。
「でも、俺は確かに見た」
「画面を保存してないのか」
蓮が聞く。
「保存しようとした」
「した?」
佐伯は端末の画像記録を開く。
昨日の時刻。
《七月二十二日 午後四時三十八分》
一枚の画像が残されている。
交差点の交通記録。
しかし、そこにも現在と同じ数字が表示されていた。
《介入による事故回避寄与率:0.0%》
《介入後の事故発生確率:0.0003%》
「昨日は算出不能って表示されてた」
佐伯が言う。
「保存した画像まで変わるのか?」
美月は画面を見つめる。
「画像じゃなくて、元の記録を参照してるだけじゃない?」
「保存したときは、固定画像って表示されてた」
「じゃあ……」
美月は続きを言わなかった。
佐伯が自分の額へ手を当てる。
「俺の記憶が間違ってるのかもしれない」
蓮は昨日の佐伯の顔を思い出す。
お前、何なんだ。
恐れていた。
あの反応まで見間違いだったとは思えない。
「俺も見た」
蓮が言う。
「算出不能って書いてあった」
「蓮は当事者だろ」
佐伯は苦い顔をした。
「自分に都合のいいように覚えてる可能性もある」
「じゃあ、美月は?」
二人が美月を見る。
美月は首を横へ振った。
「私は見てない。昨日、その場にいなかったから」
客観的な証拠はない。
佐伯と蓮の記憶だけ。
記録には、最初から正常な数字が残っている。
「今朝、交通課題の担当に聞いた」
佐伯が続ける。
「記録に異常はないって言われた」
「昨日見たことは話した?」
「ああ」
「何て?」
「学習用端末の一時的な表示不良かもしれないって」
以前、父が言ったことと同じだった。
一時的な表示不良。
演算そのものは正常。
「報告は?」
「正式な異常記録がないから、受理できないって」
「受理できない?」
「報告する対象が存在しない」
佐伯は端末を閉じた。
「記録が正常なら、何も起きてないのと同じだ」
美月が尋ねる。
「悠真は、それで納得したの?」
佐伯は答えなかった。
二時間目の開始を告げる音が鳴る。
三人はそれぞれの席へ戻った。
授業中、蓮は何度も佐伯の言葉を思い返した。
報告する対象が存在しない。
第一話の進路通知も同じだった。
蓮の端末には何も表示されなかった。
しかし、記録上は正常に送信され、受信され、閲覧されている。
その後、再検査は九十九・九九九パーセントで止まった。
それも、処理は正常に継続中とされている。
夜に表示された異常も、すべて履歴から消えていた。
正常な記録だけが残る。
異常は見間違い。
本人の記憶違い。
一時的な表示不良。
もし記録に残らないのなら、異常は存在しなかったことになる。
昼休み。
第一班の端末に、昨日申請した匿名意思確認の結果が届いた。
《対象者:三名》
《回答済み:三名》
全員が回答していた。
実名も音声も表示されない。
回答は選択式だった。
《診療所の閉鎖後、都市部への移住を希望しますか》
《希望する:一名》
《希望しない:二名》
《分からない:〇名》
続いて、
《診療所の部分存続を希望しますか》
《希望する:三名》
三人全員が、部分存続を望んでいる。
美月が結果を見つめる。
「八代さんを含めると、四人全員だね」
「一人は移住を希望してるのに、診療所も残してほしいのか」
班員の一人が言う。
「自分が移住したあとも、地域のために残してほしいんじゃない?」
「理由は分からない」
匿名回答には、自由記述欄がなかった。
本人の意思は確認できた。
しかし、なぜそう考えるのかは分からない。
美月が比較評価を更新する。
《当事者受容性の根拠を追加》
《対象者四名中、四名が部分存続を希望》
結果が再計算される。
《効率評価 B》
《社会的持続性 C》
《当事者受容性 A》
《総合評価 B》
昨日まで保留だった評価が確定した。
基礎案の評価はA。
第一班の案はB。
「負けたな」
班員の一人が言った。
「勝ち負けじゃないでしょ」
美月が答える。
「でも評価は下だよ」
「本人たちはこっちを望んでる」
「全体の救命率が下がる」
「〇・一パーセントだけ」
「〇・一パーセントでも、人が死ぬかもしれない」
教室の空気が重くなる。
どちらも間違っていない。
当事者の希望を優先すれば、地域全体の数字が下がる。
全体の効率を優先すれば、四人の希望を無視することになる。
オラクルは、基礎案をAと評価した。
それが社会全体にとって、より正しい答えなのだろう。
「提出案を取り下げますか」
画面に確認が表示された。
《推奨案へ統合することで、班評価を改善できます》
「取り下げたら、評価は上がるの?」
「基礎案に合わせれば、たぶん」
班員たちは迷っていた。
美月が蓮を見る。
「どうする?」
「また俺に聞くのか」
「班員だから」
「班長は美月だろ」
「班長が全部決めたら、班じゃないでしょ」
蓮は画面を見る。
評価を上げるためなら、取り下げた方がいい。
基礎案の方が全体の救命率も高い。
四人の希望も、移住後には変わるかもしれない。
それでも、一度聞いた声をなかったことにはできなかった。
「取り下げたくない」
蓮が答える。
「理由は?」
班員の一人が尋ねる。
「本人たちが、残してほしいって答えたから」
「でも、全体の数字は悪くなる」
「それでも」
「それって感情でしょ」
「たぶん」
蓮は否定しなかった。
「感情で人の命に関わることを決めるの?」
「数字だけで決めるのも、人間が決めてることだろ」
「数字は客観的だよ」
「何を数字に入れるかは誰が決めたんだ」
班員は答えなかった。
蓮自身も、その答えを知らない。
オラクルが決めたのか。
人間が決めたのか。
それとも、すべての可能性を計算した結果なのか。
美月が画面を操作した。
《提出案を維持》
「いいの?」
班員が尋ねる。
「班長として決めた」
「評価が下がるよ」
「分かってる」
美月は全員を見る。
「反対の人は、自分の端末から異議を出していいよ」
一人が迷いながら、異議申請を開いた。
だが、送信はしなかった。
ほかの班員も動かない。
《提出案を維持します》
第一班の評価はBのまま確定した。
美月の進路適合率は変わらない。
ほかの生徒の進路にも影響は表示されなかった。
蓮の端末だけが振動した。
《適性演算情報を更新しました》
《完了率 99.984%》
「また下がった」
美月が言う。
「今回は、美月が決めた」
「でも、蓮が最初に意見を言ったから?」
「全員聞かれた」
「それでも蓮だけなんだね」
なぜ自分だけなのか。
進路が決まっていないから。
予測できない行動をするから。
それだけでは説明できない気がした。
放課後。
佐伯が蓮と美月を、昨日と同じ階段へ呼んだ。
「まだ何かあるの?」
美月が尋ねる。
「朝、管理局から通知が来た」
佐伯は端末を開く。
《交通課題に関する確認》
《対象記録に異常はありません》
《未確認情報の外部共有を控えてください》
「外部共有?」
蓮が言う。
「俺が先生に相談したあと、届いた」
「学校の中なのに外部なの?」
「交通管理局の演算記録から見れば、学校の生徒は外部利用者になるらしい」
通知の下には、注意事項が並んでいた。
《誤った情報は社会的不安を生む可能性があります》
《記録と異なる内容の拡散は、教育評価へ影響する場合があります》
美月が顔をしかめる。
「脅してるみたい」
「違う」
佐伯がすぐに否定した。
「間違った情報を広めないように注意してるだけだ」
「悠真は間違ってたの?」
佐伯は画面を見る。
「記録では、そうなる」
「でも、見たんでしょ」
「蓮と俺しか見てない」
「二人見てる」
「二人とも同じ勘違いをした可能性はある」
「そんな偶然ある?」
「オラクルの記録が書き換わったって考えるよりはあるだろ」
佐伯の声が少し強くなる。
美月は黙った。
佐伯は自分に言い聞かせているようだった。
「記録は正常なんだ」
「じゃあ、何で悠真はこれを見せに来たんだ」
蓮が尋ねる。
佐伯の指が止まる。
「納得したなら、俺たちに話す必要はない」
「お前が関係してるからだ」
「記録上は関係ない」
「そうだけど」
「どっちを信じるんだ」
佐伯は答えられなかった。
蓮は続ける。
「昨日、自分が見たものか。今日残ってる記録か」
階段に沈黙が落ちる。
遠くから、部活動の開始を告げる音が聞こえる。
佐伯は端末を閉じた。
「俺は交通管理局へ行く」
「知ってる」
「記録を疑う人間が、交通を管理できると思うか?」
「疑うから、異常を見つけられるかもしれない」
美月が言った。
佐伯が彼女を見る。
「オラクルより?」
「そうじゃなくて」
「なら、どういう意味だよ」
「分からない。でも、見たものを見てないことにするのも違うと思う」
佐伯はしばらく二人を見ていた。
「保存画像は、もう一つある」
「何?」
佐伯は声を落とした。
「端末へ保存する前に、学習用の紙面端末へ一度転送した」
紙面端末。
授業で一時的に書き込みを行うための薄い表示板だ。
個人端末とは異なり、処理が終われば内容は自動的に消去される。
「残ってるのか」
「通常なら消えてる。でも昨日、電源を切って鞄に入れた」
「見せて」
美月が言う。
佐伯は鞄から薄い板を取り出した。
電源を入れる。
白い画面が点灯する。
《前回の作業内容を復元しています》
数秒後、交通記録が表示された。
昨日見た画面。
《歩行者介入:一名》
《介入による事故回避寄与率:算出不能》
《介入後の事故発生確率:算出不能》
三人は黙って表示を見た。
見間違いではなかった。
「残ってた」
美月がつぶやく。
佐伯は画面から目を離さない。
「端末の記録は正常になってる。でも、こっちは変わってない」
「管理局へ見せるのか」
蓮が尋ねる。
「正式に報告するなら、これを提出する」
「そうしたら、教育評価へ影響するかもしれない」
美月が注意通知を指摘する。
「記録と違う情報を広めるなって書いてあった」
「これは広めるんじゃない。確認してもらうだけだ」
佐伯は言った。
だが、手は動かなかった。
提出先の画面を開く。
《交通管理局・学習記録問い合わせ》
《資料を添付》
紙面端末を接続すれば、すぐに送信できる。
「送る」
佐伯が言った。
誰に聞かせるでもなく、自分へ確認するような声だった。
紙面端末を個人端末へ近づける。
《外部資料を確認しています》
円形の印が回る。
《資料を添付しますか》
佐伯の指が《はい》へ触れる。
その瞬間、紙面端末の画面が暗くなった。
「え?」
再び電源を入れる。
反応しない。
「充電は?」
蓮が聞く。
「七十パーセントあった」
佐伯は何度も側面へ触れる。
画面は点灯しなかった。
個人端末に警告が表示される。
《接続された旧式端末に異常を検知しました》
《安全のため、初期化処理を実行します》
「待て」
佐伯が操作しようとする。
《初期化中》
「止められないの?」
美月が画面を見る。
停止の選択肢はない。
《初期化が完了しました》
紙面端末が再起動する。
白い画面。
保存されていた交通記録は消えていた。
《新しい作業を開始してください》
佐伯は動かなかった。
「初期化した?」
蓮が尋ねる。
「安全のためって」
「壊れてたのか」
「分からない」
「接続するまでは動いてた」
美月の声が低くなる。
佐伯は個人端末の履歴を開いた。
《旧式端末の異常を検知》
《初期化処理:正常完了》
すべて正常だった。
異常なデータは消えた。
残ったのは、正常に初期化されたという記録だけ。
佐伯が端末を握る。
「偶然だ」
誰も返事をしなかった。
「古い端末だった。保存方法も正式じゃなかった。接続したときに壊れてもおかしくない」
「悠真」
美月が声をかける。
「偶然じゃなかったら、何だって言うんだよ」
佐伯が顔を上げる。
恐怖より、怒りが強かった。
「オラクルが証拠を消したのか? 管理局が俺たちの会話を聞いて、端末を初期化したのか?」
「そこまでは言ってない」
「でも、そう思ってるんだろ」
美月は否定できなかった。
蓮は初期化された白い画面を見る。
第一話の進路通知と同じだった。
存在したはずの内容だけが消え、処理が正常に完了したという記録が残る。
「佐伯」
蓮が言う。
「俺の進路通知も、こうだったのかもしれない」
「何が?」
「何かが表示されるはずだった。でも、残らなかった」
「進路とこれは別だ」
「正常って記録だけ残るところは同じだ」
佐伯は黙る。
「昨日のデータも、最初から異常がなかったことになった。紙面端末も初期化された。俺が夜に見た表示も、毎回履歴から消える」
「だから何だよ」
「異常は起きてる。でも、記録には残らない」
言葉にすると、初めて形が見えた。
オラクルが異常を隠していると断定はできない。
管理局が何かを消している証拠もない。
ただ、蓮に関わる異常だけが、正常な記録へ置き換わっていく。
「誰かに話す?」
美月が尋ねる。
佐伯は初期化された端末を見る。
「証拠がない」
「私たち三人が見た」
「人間の証言より、記録の方が正しい」
佐伯はそう言い、すぐに口を閉じた。
それは、この世界の常識だった。
だが、今の佐伯自身を最も苦しめている常識でもあった。
「今日のことは、誰にも言わない」
佐伯が言う。
「報告しないの?」
「報告するものがない」
「でも――」
「ないんだよ」
佐伯は強く言った。
「記録も、画像も、全部消えた。俺たちが何を言っても、記憶違いで終わる」
佐伯は紙面端末を鞄へ戻した。
「俺は交通管理局へ行く。余計な問題を起こしたくない」
「悠真は、それでいいの?」
美月が尋ねる。
「よくない」
佐伯は即答した。
それから、少し声を落とす。
「でも、どうすればいいか分からない」
三人とも、同じ言葉へ戻ってきた。
帰宅すると、父はまだ仕事から戻っていなかった。
母が夕食を準備している。
「今日は予定どおりだった?」
「朝は」
「学校では?」
「普通」
蓮は嘘をついた。
本当のことを話しても、信じてもらえるか分からない。
父なら、正式な記録を見せろと言うだろう。
記録は正常だ。
紙面端末の初期化も。
交通データも。
蓮の進路通知も。
すべて、正常な処理として残されている。
「蓮」
母が振り返る。
「最近、学校で何かあるの?」
「進路のこと以外は何もない」
「美月ちゃんや悠真君とは?」
「普通だよ」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。
夕食後、父が帰宅する。
蓮の行動安定度を確認し、朝の移動については問題がなかったと言った。
《行動安定度 94.8%》
放課後、予定外の階段に滞在したため、少し下がっている。
「明日も私が同行する」
父が言う。
「朝はちゃんと行っただろ」
「放課後に予定外行動があった」
「友達と話しただけだ」
「話すなら、指定された交流時間を使いなさい」
「何を話すかまで決められるのか」
「内容ではない。時間と場所の問題だ」
「同じだよ」
父は眉を寄せる。
「進路が決まるまでだ」
「いつ決まる?」
「その質問を何度繰り返すつもりだ」
「答えが出るまで」
父は黙った。
蓮も、それ以上言わなかった。
午後十時四十分。
部屋の照明が暗くなる。
《適性演算中》
《完了率 99.984%》
今日も数字は一〇〇から遠ざかった。
「オラクル」
『はい、天城蓮さん』
「記録が間違うことはある?」
『記録システムは、複数の検証処理によって正確性を維持しています』
「あるかないかを聞いてる」
『記録の正確性は、規定基準を満たしています』
「人間が見たものと、記録が違ったら?」
『記録された情報を基準として確認してください』
「人間の記憶は信用できない?」
『人間の記憶には、誤認、欠落、変容が生じる可能性があります』
「三人が同じものを見ても?」
『複数人の記憶が、同一の誤認へ影響される場合があります』
何を聞いても、記録が正しいという答えへ戻る。
「記録自体が変わったら?」
『変更履歴を確認できます』
「履歴が残らなかったら?」
短い沈黙。
『正規の処理では、変更履歴が保存されます』
「正規じゃない処理なら?」
返事はない。
「オラクル」
『質問の意図を確認できません』
「俺の進路通知も、途中で変わったのか?」
『進路通知は正常に完了しています』
「本文が消えた?」
『通知内容は個人端末で確認できます』
「空白だ」
『進路通知は正常に完了しています』
同じ場所へ戻った。
蓮は端末を手に取る。
「今日、交通記録が変わった」
『交通記録に異常は確認されていません』
「昨日は算出不能だった」
『交通記録に異常は確認されていません』
「三人で見た」
『人間の記憶には、誤認が生じる可能性があります』
「俺たちが間違ってる?」
『記録された情報を基準として確認してください』
蓮は画面を見つめた。
記録を信じれば、異常はない。
自分たちの記憶を信じれば、記録が変わった。
どちらか一方が間違っている。
「俺の記憶も、間違ってるのか」
返答はなかった。
「最初から進路通知は空白じゃなかった?」
『進路通知は正常に完了しています』
「俺は見たと思い込んでるだけ?」
『通知内容は個人端末で確認できます』
「俺が天城蓮だと思ってることも?」
言葉にした瞬間、自分でも何を聞いているのか分からなくなった。
壁面の光が、一度弱くなる。
『質問の対象を指定してください』
「俺は、本当に天城蓮なのか」
長い沈黙。
部屋の空調音だけが聞こえる。
やがて、オラクルが答えた。
『天城蓮さんの個人端末が、現在の質問を送信しています』
蓮は息を止めた。
「俺が誰かを聞いてる」
『天城蓮さんの個人端末が、現在の質問を送信しています』
「端末じゃない」
返事はなかった。
「俺を見ろ」
蓮は立ち上がり、壁面端末の前へ進む。
室内のセンサーが蓮の動きを追っている。
『転倒防止のため、照明を調整します』
「見えてるんだろ」
『室内に一名の移動を確認しています』
「それが誰か答えろ」
『天城蓮さんの端末は、机の上に存在します』
蓮は机の上を見る。
個人端末が青く光っている。
自分は壁の前。
端末は数メートル離れた場所。
「端末から離れた俺は、誰だ」
返事はない。
蓮はさらに一歩、壁面へ近づく。
「俺がこの端末を持ってなかったら、天城蓮じゃないのか」
壁面の光が明滅する。
『質問の意図を確認しています』
「確認しろ」
数秒後、机の上の端末に文字が表示された。
《室内情報を照合しています》
《登録端末:天城蓮》
《在室者:一名》
円形の印が回る。
蓮は画面を見つめる。
《関連性を確認しています》
昨日と同じ表示。
だが今夜は、すぐには消えなかった。
十秒。
二十秒。
一分。
やがて、新しい文章が現れた。
《補助情報が不足しています》
「何が足りない」
『質問の意図を確認できません』
「俺を天城蓮だと決めるために、何が足りない」
壁面の声は答えない。
端末の表示だけが変わった。
《周辺証言を要求します》
蓮は文字を見つめた。
「周辺証言?」
次の瞬間、表示は消えた。
履歴にも残っていない。
オラクルが就寝を促す。
『十分な睡眠を取ってください』
「今のをもう一度出せ」
『該当する通知履歴はありません』
「見たんだ」
『該当する通知履歴はありません』
また正常な記録だけが残る。
蓮はしばらく端末を見つめたあと、別の画面を開いた。
美月と佐伯の連絡先。
時刻は遅い。
二人とも、すでに推奨就寝時間に入っている。
それでも蓮は、メッセージを入力した。
《明日、確認したいことがある》
送信しようとして、指を止める。
オラクルは周辺証言を要求した。
自分が天城蓮だという判断に、誰かの証言が必要なのか。
家族。
教師。
友人。
もし周囲の人間が、自分を天城蓮ではないと言ったら。
オラクルは、自分を誰として扱うのだろう。
蓮は文章を消し、新しく入力した。
《明日、俺が誰か確かめたい》
自分でも意味の分からないメッセージだった。
数秒迷い、送信する。
《送信完了》
美月と佐伯の端末へ届いたことが表示される。
記録には残った。
蓮は画面を閉じる。
その直後、オラクルの声が流れた。
『天城蓮さん』
「何だ」
『明日の予定外行動を検知しました』
蓮は壁面を見る。
まだ何をするか決めていない。
二人へ、確認したいと送っただけだ。
「何をすると思ってる」
『行動予測を再計算しています』
「俺が誰か確かめるだけだ」
『その行動は推奨されません』
初めて、質問への直接的な答えが返ってきた。
「どうして?」
長い沈黙。
『現在の登録情報を維持してください』
「俺が天城蓮だっていう登録?」
『現在の登録情報を維持してください』
「確かめたら、何か変わるのか」
返事はなかった。
机の上の適性演算が更新される。
《完了率 99.979%》
また数字が下がった。
蓮は、暗い壁面を見つめる。
未来を選ぼうとすると、演算が遠ざかる。
自分が誰か確かめようとすると、オラクルは止めようとする。
その理由を、神はまだ答えなかった。




