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第六話 予測から外れた朝

決められた予定に従えば、未来は再び一つに戻る。


榊も、父も、オラクルも、そう考えていた。


天城蓮も、そのつもりだった。


余計な道を選ばない。


予定にない相手と話さない。


示された行動だけを、正しくなぞる。


しかし、人間の一日は、自分一人の意思だけでは決まらない。

午前六時。


カーテンが静かに開いた。


『おはようございます、天城蓮さん』


蓮は目を開け、机の上の個人端末を確認した。


《適性演算中》


《完了率 99.994%》


昨日の授業終了時から、数字は変わっていない。


昨夜表示された、


《分岐候補数が上限を超えました》


という警告は、履歴に残っていなかった。


夢ではない。


確かに見た。


だが、記録がなければ証明することはできない。


「オラクル」


『はい、天城蓮さん』


「昨日、分岐候補数が上限を超えたって出た」


短い沈黙。


『該当する通知履歴はありません』


「表示されたのは覚えてる」


『該当する通知履歴はありません』


「履歴にないだけだろ」


『保存されていない通知内容は確認できません』


蓮は端末を伏せた。


否定されたわけではない。


だが、認められたわけでもない。


オラクルは、自分が記録していないものについて答えられない。


第一話から、ずっと同じだった。


画面に今日の予定が表示される。


《午前七時四十二分 自宅を出発》


《推奨経路を使用》


《予定外の接触を避けてください》


《午前八時十九分 第三中央高等学校へ到着》


最後に、見慣れない項目が加わっていた。


《行動安定化期間 一日目》


「行動安定化期間?」


『適性演算への影響を確認するため、推奨予定への追従状況を測定します』


「何日間?」


『必要な期間を算出しています』


「また未定か」


『推奨予定に従ってください』


蓮はベッドから降りた。


今日は言われたとおりにする。


推奨された時刻に家を出る。


指定された道を歩く。


余計なことはしない。


それで演算が進むなら、一日くらい難しくない。


朝食の席では、父が何度も時刻を確認していた。


「今日は七時四十二分に出るんだな」


「ああ」


「経路も通常どおりに」


「分かってる」


父の端末にも、行動安定化期間の通知が届いているらしい。


母が焼き魚を皿へ移しながら、父を見る。


「そんなに確認しなくても、蓮は子どもじゃないでしょう」


「本人だけの問題ではない」


父が答える。


「進路が決まらなければ、学校にも管理局にも負担がかかる」


「俺がわざと決めさせないみたいに言うなよ」


「そうは言っていない」


「同じだろ」


「蓮」


母が穏やかな声で止めた。


「今日は普通に行けばいいのよ」


普通に。


その言葉が、今の蓮には妙に難しく聞こえた。


午前七時四十二分。


玄関を出る。


視界に青い案内線が表示された。


昨日とは違い、蓮は線から外れずに歩いた。


最初の交差点を直進する。


昨日曲がった左側の道は見ない。


公園にも寄らない。


朝の老人が今日も掃除をしているかどうか、確認しない。


《推奨経路に従っています》


端末へ小さな表示が出る。


《行動安定度 98.6%》


蓮は歩き続けた。


大通りへ出る。


歩行者は一定の間隔を保ち、同じ方向へ進んでいる。


信号が変わる数秒前には、人の流れが自然に止まる。


誰かが急いで走ることもない。


逆方向へ引き返す者もいない。


視界の端で、行動安定度が更新される。


《99.1%》


数字は上がっていた。


適性演算の完了率も確認する。


《99.994%》


こちらは変わらない。


駅前の交差点へ差しかかった。


蓮の進行方向の信号が青へ変わる。


歩行者が一斉に横断を始めた。


蓮も流れに合わせて歩く。


そのとき、右側から小さな音が聞こえた。


何かが転がる音。


見ると、赤い球が車道へ転がっていた。


歩道の端に、五歳くらいの少女が立っている。


球を追い、少女が一歩踏み出した。


『停止してください』


オラクルの声が交差点に響く。


少女は止まらなかった。


赤い球だけを見ている。


交差する車道から、一台の配送車両が近づいていた。


速度は落ちている。


無人車両は歩行者を検知すれば停止する。


事故になるはずはない。


蓮はそう考えた。


『歩道へ戻ってください』


少女はさらに一歩、車道へ出た。


配送車両が急減速する。


だが、その後ろにも複数の車両が続いている。


蓮の視界に警告が表示された。


《現在位置を維持してください》


《交通制御を実施しています》


オラクルが処理している。


自分が動く必要はない。


少女の近くにいる大人が助けるはずだ。


しかし、周囲の歩行者は警告に従って停止していた。


誰も動かない。


蓮の足も止まっている。


《現在位置を維持してください》


少女が赤い球へ手を伸ばす。


蓮は案内線から外れた。


数歩走り、少女の腕をつかむ。


「危ない」


少女を歩道側へ引き戻す。


ほぼ同時に、配送車両が少女のいた場所の手前で停止した。


距離は一メートル以上あった。


事故にはならなかった。


最初から、オラクルの制御だけで止まれたのかもしれない。


少女は蓮の手を振り払い、車道に残された球を指さした。


「取って」


「あとで機械が取るから」


「今がいい」


少女の母親らしい女性が駆け寄ってきた。


「すみません」


女性は少女を抱き寄せる。


「ありがとうございます」


「車は止まってました」


蓮は反射的に答えた。


「俺が何もしなくても、大丈夫だったと思います」


女性は少し困ったように笑った。


「それでも、ありがとうございました」


交差点の交通が再開される。


停止していた人々が、再び歩き始めた。


蓮の視界には警告が残っていた。


《推奨行動からの逸脱を検知しました》


《行動安定度 61.2%》


一度の行動で、数字が大きく下がっている。


「オラクル」


『はい、天城蓮さん』


「あの子を助けるのは、予定外だったのか」


『交通制御により、接触事故は回避される予定でした』


「予定?」


『事故発生確率は〇・〇〇〇三パーセントでした』


「ゼロじゃない」


『許容範囲内です』


蓮は停止した配送車両を見る。


すでに走り去っている。


少女も母親とともに駅の方向へ歩いていた。


何も起きなかった。


オラクルの予測どおりだった。


では、自分の行動には意味がなかったのか。


『予定列車への乗車余裕が減少しています』


蓮は時刻を見る。


立ち止まっていたのは一分にも満たない。


それでも、推奨予定からは外れてしまった。


駅へ着くと、ホームの待機位置へ急いだ。


指定された列車には間に合った。


扉が閉まり、車両が動き始める。


蓮は座席へ座り、端末を確認した。


《適性演算中》


《完了率 99.991%》


さらに〇・〇〇三パーセント下がっている。


昨日より大きな変化だった。


《行動安定化期間》


《判定:不成立》


たった一度、少女へ手を伸ばしただけで、今日の試みは失敗になった。


教室へ着くと、美月が蓮の顔を見てすぐに言った。


「また何かあった?」


「顔で分かるのか」


「最近ずっとそういう顔してる」


蓮は端末を見せる。


《完了率 99.991%》


「何したの?」


「車道に出た子どもを戻した」


美月は目を見開いた。


「事故?」


「車は止まった。オラクルも止まれって言ってた」


「じゃあ、よかったじゃん」


「行動安定化は失敗した」


「人を助けたから?」


「俺が動かなくても、事故は起きなかったらしい」


美月は少し考える。


「でも、そのときは分からなかったんでしょ」


「オラクルは分かってた」


「蓮はオラクルじゃないじゃん」


蓮は返事をしなかった。


美月は自分の席へ端末を置く。


「私でも動いたと思う」


「本当に?」


「たぶん」


「オラクルが待てって言っても?」


美月は口を閉じた。


数秒考えてから、正直に答える。


「分からない」


蓮は小さく笑った。


「最近、そればっかりだな」


「蓮のせいで考えることが増えたから」


「人のせいにするなよ」


「前は考えなくても答えがあったの」


美月は画面を見ながら続ける。


「今は、答えが出ても、それでいいのかなって思うときがある」


「医者になることも?」


美月の指が止まる。


「それは……まだ分からない」


以前なら、オラクルが選んだなら大丈夫だと笑っていた。


今の美月は、同じ言葉を口にしなかった。


朝の会が始まる。


担任は連絡事項を読み上げたあと、蓮へ視線を向けた。


「天城。昼休みに面談室へ来なさい」


「榊さんですか?」


「ああ。予定が変更された」


本来の面談は放課後だった。


朝の行動は、すでに管理局へ伝わっている。


一時間目が終わる頃、学校内に新しい通知が配信された。


《卒業統合課題・比較評価》


第一班が提出した部分存続案の暫定結果だった。


生徒たちが一斉に端末を開く。


美月の画面に、二つの案が並ぶ。


《基礎案》


《山間第六診療所を閉鎖》


《地域全体予測救命率 94.8%》


《年間運用費 基準値》


その隣。


《第一班提出案》


《山間第六診療所を部分存続》


《地域全体予測救命率 94.7%》


《年間運用費 基準値比12.4%増》


数字だけを見れば、基礎案の方が優れている。


救命率も。


費用も。


医療従事者の負担も。


美月の班員の一人が、落胆したように言った。


「やっぱり基礎案の方がいいじゃん」


別の生徒もうなずく。


「評価、下がるかも」


画面の下には、総合評価が表示されていた。


《効率評価 B》


《社会的持続性 C》


《当事者受容性 A》


《総合評価 保留》


「保留?」


蓮が言う。


これまでオラクルの評価で、保留という言葉を何度も見てきた。


だが今度は、自分の進路ではない。


班全体の計画だった。


美月が詳細を開く。


《当事者の意思を含む追加情報が、従来の評価基準と一致しません》


《比較評価を継続します》


「八代さんの声が原因?」


美月がつぶやく。


「本人の希望を入れたら、評価できなくなったってことか」


蓮が言う。


「そんなことある?」


班員の一人が画面を見る。


「希望とか幸福度も、普段から計算に入ってるんでしょ」


「八代さんの希望は、もう知ってたはずだ」


蓮は答えた。


三か月前に公開掲示板へ投稿している。


オラクルが読めないはずはない。


それでも、閉鎖と移住が推奨されている。


美月は八代の音声をもう一度開いた。


再生はしなかった。


波形を見つめている。


「知ってることと、聞くことは違うのかな」


「どういう意味?」


「分からない」


美月は首を横へ振った。


「でも、私たちが八代さんの声を聞く前と後で、考え方が変わったでしょ」


「オラクルは変わらない」


「変わる必要がないくらい、最初から全部分かってるんじゃない?」


「だったら、何で保留になった」


美月は答えられなかった。


昼休み。


面談室へ入ると、壁面画面に榊の姿が映った。


今日は遠隔面談だった。


「今朝の行動について確認します」


挨拶もなく、榊が話し始める。


「午前七時五十二分、中央東駅前交差点で推奨位置を離れましたね」


「子どもが車道に出たからです」


「交通制御は正常に作動していました」


「俺には止まれるか分からなかった」


「オラクルから、現在位置を維持するよう指示があった」


「それでも動きました」


「なぜですか」


蓮は眉を寄せる。


「危ないと思ったから」


「事故発生確率は、許容範囲内でした」


「その数字を聞いたのは、助けたあとです」


「オラクルを信頼していれば、動く必要はありませんでした」


蓮は画面の中の榊を見る。


「榊さんなら動かなかったんですか」


「私の行動は関係ありません」


「いつもそう言いますね」


「今は、君の判断を確認している」


「俺も確認してるんです」


「何を?」


「オラクルが止まると言ったら、本当に何もしないのか」


榊はしばらく黙っていた。


「事故が起きなかった以上、結果として君の行動は不要でした」


「結果が分かる前に決めないといけなかった」


「オラクルは結果を予測している」


「でも、俺は予測できない」


「だから、指示に従う」


榊の答えに迷いはなかった。


しかし蓮には、それが答えになっていないように思えた。


「あの子が転んだら?」


「転倒確率も算出されている」


「車が故障したら?」


「車両状態は常時監視されている」


「オラクルが間違えたら?」


榊の表情がわずかに変わった。


「仮定に意味はありません」


「俺の進路は?」


蓮は即座に返した。


「正常に通知されたはずなのに、空白だった。再検査も終わらない。今までなかったことが起きてる」


「進路演算の問題と交通制御は別です」


「オラクルが間違えないって前提は同じでしょう」


榊は答えなかった。


蓮は続ける。


「結果を知ってる相手に任せるのは楽です。でも、間違わないって、どうやって分かるんですか」


「これまでの実績が証明しています」


「一度も?」


「重大な演算誤りは確認されていません」


「確認されてないだけかもしれない」


言った瞬間、榊の目が鋭くなった。


「不用意な発言は控えてください」


「何で?」


「根拠のない疑念は、社会的不安を生む」


「これは管理局との面談ですよね。外で言ってない」


「記録には残る」


蓮は画面の端を見る。


《面談内容を記録しています》


これまでの会話も、すべて残されている。


進路の希望。


オラクルへの質問。


推奨外行動の理由。


「俺の考えも演算に入るんですか」


「当然です」


「話すたびに完了率が下がるかもしれない?」


「可能性はある」


「それでも質問するんですね」


榊は少し間を置いた。


「君の考えを把握しなければ、支援できない」


「把握して、どうするんですか」


「適切な状態へ戻す」


蓮はその言葉を聞き逃さなかった。


「戻す?」


榊の表情が固まる。


「演算が安定する状態へ、という意味です」


「昔の俺みたいに?」


「推奨行動への追従率を上げる必要がある」


「それは俺の進路を決めるためですか」


「ああ」


「俺の考えを変えてでも?」


榊は答えなかった。


画面の向こうで、何かの通知を確認している。


数秒後、榊が話題を変えた。


「統合課題の比較評価が保留されました」


「知ってます」


「八代澄江さんの音声回答を、どのように受け止めましたか」


「本人は移住したくない」


「それだけですか」


「どういうことです?」


「彼女は、自分一人のために診療所を残してほしいとは言っていない」


「はい」


「基礎案へ反対しているわけでもない」


「でも、ここにいたいとは言った」


「相反する希望です」


榊が言う。


「診療所を残してほしい。しかし、自分のために他者へ負担をかけたくない。移住したくない。しかし、自分にとって何が幸福かは分からない」


「人間なら、それくらい迷うでしょう」


「演算には、明確な評価基準が必要です」


「迷ってる人は計算できないんですか」


榊は答えなかった。


画面の隅に、新しい通知が表示される。


榊だけが読める管理局側の情報らしい。


彼の視線が止まった。


「何ですか」


「適性演算が更新された」


蓮の端末へ通知が届く。


《適性演算中》


《完了率 99.989%》


また下がっている。


「今、何もしてない」


「面談内容が追加された」


「話すだけで?」


「君の判断傾向が更新されている」


「俺が質問したからですか」


「正確な原因は分からない」


「俺がオラクルを疑ったから?」


榊は口を閉じた。


「違うなら、違うって言ってください」


「現時点では判断できない」


「便利ですね、その答え」


蓮は端末を机へ置いた。


「俺が考えるたびに、未来が遠ざかる」


榊は何も言わない。


「じゃあ、何も考えない方がいいんですか」


「そうは言っていない」


「指示に従って、疑わず、予定外のことをしなければいいんでしょう」


「今は演算を安定させることが優先です」


「それが同じなんですよ」


蓮は立ち上がった。


「座ってください」


「面談は終わりですか」


「まだです」


「俺は終わりにします」


「天城君」


「予定外の行動ですか」


蓮が扉へ向かうと、壁面に警告が表示された。


《面談終了時刻前です》


《着席してください》


蓮は足を止めた。


画面の中で榊が見ている。


扉は開く。


鍵はかかっていない。


強制されているわけではない。


ただ、出るべきではないと表示されている。


蓮は扉へ手を伸ばした。


「天城君」


榊の声が低くなる。


「今ここで退出すれば、行動安定化の判定に影響する」


蓮の手が止まる。


適性演算。


進路。


卒業後の生活。


自分の未来が、また遠ざかる。


蓮はゆっくりと手を下ろした。


椅子へ戻る。


榊がわずかに息を吐いた。


「面談を続けます」


蓮は何も答えなかった。


言われたとおりに座った。


それなのに、胸の内側には、退出したときより強い違和感が残っていた。


放課後。


卒業統合課題の時間になると、第一班には新しい指示が届いた。


《部分存続案の再評価に必要な情報を追加してください》


《当事者受容性の評価根拠を示してください》


美月が画面を読む。


「八代さん一人の意見じゃ足りないってことかな」


「四人全員に聞く?」


班員の一人が言う。


「外部接触の警告がまた出るよ」


別の生徒が不安そうに答える。


美月は蓮を見る。


「どう思う?」


「俺に聞くなよ」


「最初に聞こうって言ったのは蓮でしょ」


「だからって、全部俺が決めるのは違う」


「じゃあ、班で決めよう」


前回と同じように話し合いが始まる。


残り三人へも質問するべきか。


掲示板を利用していいのか。


本人の希望だけで計画を変えるべきか。


結論は割れた。


「今回はやめた方がいいと思う」


班員の一人が言う。


「八代さんの話を聞いたから、私たちの評価が保留になったんでしょ」


「評価のためにやめるの?」


美月が聞き返す。


「課題なんだから、評価は大事でしょ」


「でも、当事者受容性の根拠を追加しろって書いてある」


「公開データで足りるかもしれない」


「本人に聞く方が確実じゃない?」


「オラクルは必要な情報をもう持ってるよ」


会話が行き詰まる。


蓮は黙って聞いていた。


全員の意見に理由がある。


外部接触には警告が出る。


評価も下がる可能性がある。


残り三人が話したくない可能性もある。


聞けばいい、というほど単純ではなかった。


「蓮は?」


美月が再び尋ねる。


「分からない」


「それで終わり?」


「話したくない人に無理に聞くのは違う。でも、聞かないまま移住を決めるのも違う」


「じゃあ、どうする?」


蓮は掲示板の機能を見る。


公開質問。


個別回答。


匿名回答。


そこに、《回答拒否》という項目もある。


「聞くかどうかを、本人に選んでもらえばいい」


「どういうこと?」


「話してくださいじゃなくて、話してもいいと思ったら答えてくださいって送る」


「同じじゃない?」


「断ってもいいって最初から書く」


班員たちは画面を見る。


美月がうなずいた。


「それなら、強制にはならないかも」


質問文を作り始める。


私たちは山間第六診療所の今後について調査しています。

移住や診療所の閉鎖について、現在の考えを伺いたいと思っています。

回答を希望しない場合は、返信する必要はありません。


送信前に、今回も警告が表示された。


《推奨されない外部接触です》


《対象者へ心理的負担を与える可能性があります》


前回とは違う警告だった。


「心理的負担」


美月が読み上げる。


「やめた方がいいのかな」


「可能性があるだけだろ」


蓮が言う。


「でも、負担になったら?」


班員の一人が尋ねる。


蓮は答えられなかった。


良かれと思って送った質問が、相手を苦しめるかもしれない。


本人の意思を尊重したいという行動が、本人へ余計な負担を与える可能性もある。


何が正しいのか、簡単には決められない。


オラクルなら、心理的負担の確率も、その後の影響も計算できる。


自分たちにはできない。


「警告どおり、やめる?」


美月が聞いた。


誰も答えない。


数秒後、端末に新しい項目が現れた。


《代替案》


《管理局を通じて、匿名の意思確認を実施できます》


《回答者への接触情報は開示されません》


「これなら?」


美月が言う。


直接の会話はできない。


声も聞けない。


しかし、相手は回答するかどうかを選べる。


心理的負担も、管理局側が調整するのだろう。


班員たちは次々に同意した。


蓮も承認する。


《匿名意思確認を申請しました》


《結果通知まで二十四時間》


今回は警告が出なかった。


「最初から、これを出してくれればよかったのに」


班員の一人が言う。


蓮も同じことを思った。


なぜ、前回は八代本人へ直接質問できたのか。


なぜ今回は、代替案が表示されたのか。


オラクルが状況に応じて学習したのか。


それとも、前回の接触を受けて、人間の管理局が新しい方法を作ったのか。


授業終了後、蓮が教室を出ようとすると、佐伯が追いかけてきた。


「少し時間あるか」


「何だよ」


「見せたいものがある」


佐伯は周囲を確認し、蓮を人気の少ない階段へ連れていった。


自分の端末を開く。


「昨日、統合課題の交通データを調べてたんだ」


「それが?」


「今朝の駅前交差点の記録が入ってた」


蓮は画面を見る。


佐伯の班は、緊急時の交通対応を扱っている。


今朝、少女が車道へ出たことで、一時的な急制御が行われた。


配送車両の速度。


停止距離。


後続車両の回避。


歩行者の移動。


すべてが記録されている。


「事故は回避されたんだろ」


「ああ。オラクルの予測どおり」


佐伯は記録を拡大する。


「でも、これ見ろ」


《歩行者介入:一名》


《介入による事故回避寄与率:算出不能》


蓮は文字を見つめた。


「算出不能?」


「お前が子どもを戻したことが、事故を防いだかどうか計算できないらしい」


「車は止まってたから、必要なかったんだろ」


「たぶん。でも」


佐伯が次の項目を開く。


《介入がなかった場合の予測》


《事故発生確率 0.0003%》


「オラクルが言ってた数字だ」


「そう。次が、お前が介入した場合」


《介入後の事故発生確率》


《算出不能》


蓮は眉を寄せる。


「俺が動いたせいで、分からなくなった?」


「普通なら、人が一人動いたくらいで再計算できる」


佐伯は交通管理局への進路が決まってから、授業で交通予測の仕組みを学び始めている。


「車両の速度も、歩行者の位置も全部記録されてる。お前が子どもを引いた時刻も分かってる。それなのに、結果への影響だけが出てない」


「故障じゃないのか」


「同じ交差点のほかの人は全部出てる」


画面には、周囲の歩行者が停止したことで交通へ与えた影響が表示されている。


遅延。


流量。


危険回避への寄与。


一人ひとりの行動が数値化されていた。


蓮の行動だけが、算出不能。


「先生には?」


蓮が尋ねる。


「まだ言ってない」


「何で俺に見せた」


佐伯は端末を閉じた。


「分からないから」


「オラクルに聞けばいいだろ」


「聞いた」


「何て?」


「記録は正常だって」


第一話から何度も聞いた答えだった。


正常。


何も問題はない。


ただし、内容は分からない。


「蓮」


佐伯の声が低くなる。


「お前、何なんだ?」


蓮は答えられなかった。


自分が一番知りたかった。


「ただの人間だよ」


ようやくそう答える。


「それは知ってる」


「じゃあ、それ以上何を聞くんだ」


「オラクルが分からないものが、何で普通なんだよ」


佐伯の顔には、恐れがあった。


蓮に対してなのか。


オラクルに対してなのか。


あるいは、答えのない状況そのものに対してなのかは分からない。


「誰かに話すのか」


蓮が尋ねる。


「分からない」


佐伯は端末を握った。


「でも、交通管理局に行くなら、記録の異常を隠すのは駄目だと思う」


「俺のことを報告する?」


「お前のことじゃない。データのことだ」


「同じだろ」


「違う」


佐伯は強く言った。


だが、すぐに視線を落とす。


「違うと思いたい」


階段の向こうから足音が聞こえた。


佐伯は端末をしまう。


「明日まで考える」


「何を?」


「報告するかどうか」


「オラクルに聞けば、正しい方を教えてくれるんじゃないのか」


蓮が言うと、佐伯は苦い顔をした。


「今、それを聞くなよ」


佐伯は先に階段を下りていった。


蓮は一人でその場に残る。


佐伯も、迷い始めている。


美月も。


榊も、少しずつ自分の言葉を口にするようになった。


自分の空白が、周囲の人間にも問いを生み始めている。


帰宅後。


父はまだ仕事から戻っていなかった。


母は夕食の支度をしながら、朝の出来事を尋ねた。


「交差点で子どもを助けたんですって?」


「管理局から聞いたの?」


「学校から連絡があったの。けがはなかったのよね」


「ああ」


「よかった」


母はそれだけ言い、鍋へ視線を戻した。


「行動安定化は失敗した」


蓮が言う。


「それは残念だけど」


母は少し考える。


「目の前で危ない子がいたら、仕方ないんじゃない?」


「オラクルは大丈夫だって分かってた」


「蓮には分からなかったんでしょう?」


美月と同じ答えだった。


「父さんなら、余計なことをするなって言うと思う」


「お父さんは心配してるのよ」


「分かってる」


「進路が早く決まってほしいだけ」


母は火を弱める。


「でも、助けたことまで悪いとは思わないわ」


蓮は母を見る。


「オラクルの指示に反したのに?」


母の手が止まった。


「反したっていうほどのことじゃないでしょう」


「現在位置を維持しろって言われた」


「それでも、身体が動いたのね」


「うん」


母は少し笑った。


「なら、それが蓮だったんでしょう」


「どういう意味?」


「分からない」


母は困ったように笑い直す。


「でも、そう思っただけ」


その夜、父はいつもより遅く帰宅した。


夕食後、蓮をリビングへ呼ぶ。


父の端末には、管理局からの通知が表示されていた。


《行動安定化期間の延長》


《保護者による生活指導を推奨します》


「明日から、私がお前と一緒に駅まで行く」


父が言った。


「必要ない」


「今日の結果を見ただろう」


「子どもを助けただけだ」


「問題は行動の内容ではない。指示に従えなかったことだ」


「助けるなって言うのか」


「オラクルの制御を信じろと言っている」


「もし止まらなかったら?」


「止まる」


「何で言い切れる」


「止まったからだ」


蓮は父を見る。


結果が正しかったから、判断も正しかった。


父はそう考えている。


「じゃあ、事故が起きたら、そのとき初めて間違いだったって言うのか」


「起きていない事故を議論する意味はない」


「進路通知も、本当は問題ないって言うのか」


父の表情が硬くなった。


「その話を混ぜるな」


「同じだよ」


「違う」


「どっちも、オラクルが正常だって言ってる」


「蓮」


父が声を強める。


「最近のお前は、何でも疑おうとしている」


「疑ってるんじゃない。分からないから聞いてるだけだ」


「答えが出るまで待て」


「いつまで?」


父は黙った。


「誰も分からないんだろ」


「だからこそ、余計な行動を控えるんだ」


「俺が何もしなければ、オラクルが決められる?」


「その可能性が高い」


「何も考えず、何も選ばず、言われたとおりに動けば?」


「極端な言い方をするな」


「同じだろ」


母が二人の間へ入った。


「今日はもうやめましょう」


「明日の朝、七時四十二分に出る」


父は蓮から視線を外さない。


「私も同行する」


話はそれで終わった。


午後十時四十分。


蓮はベッドへ横になった。


壁面には明日の予定が表示されている。


《午前七時四十二分 父親と自宅を出発》


《午前七時五十八分 中央東駅へ到着》


《予定外の接触を避けてください》


「オラクル」


『はい、天城蓮さん』


「今朝、俺が動かなかったら、あの子は本当に無事だった?」


『交通制御により、事故は回避される予定でした』


「確実に?」


『事故発生確率は〇・〇〇〇三パーセントでした』


「ゼロじゃない」


『社会運用上、許容される危険率です』


「その〇・〇〇〇三パーセントに入った人は、どうなる」


返答はなかった。


「事故が起きたら、その人には百パーセントだろ」


『統計的危険率と個別事象は、異なる評価基準を使用します』


「意味が分からない」


『必要であれば、統計学習資料を表示します』


「そういうことじゃない」


蓮は天井を見つめた。


「八代さんも、統計では少ない側なんだよな」


『質問の対象を指定してください』


「診療所を残さなくても、全体では救命率が上がる。でも、困る人が四人いる」


『山間第六診療所の閉鎖は、地域全体の医療効率を改善します』


「四人は?」


『移住により、予測幸福度の向上が見込まれます』


「本人は嫌だと言ってる」


『長期的幸福度は、本人の現在の希望と一致しない場合があります』


「じゃあ、本人の希望は必要ないのか」


長い沈黙。


『個人の希望は、適性演算に使用される情報の一つです』


「一つでしかない?」


『はい』


「最後に決めるのは誰だ」


『オラクルが、最も幸福度の高い選択を提示します』


蓮は目を閉じた。


オラクルは八代の希望を知らないわけではない。


知った上で、ほかの情報より小さく扱っている。


蓮の行動も同じなのかもしれない。


助けたいと思ったこと。


疑問に感じたこと。


自分で選ぼうとしたこと。


すべては情報の一つとして取り込まれ、より大きな最適解の中に消えていく。


「オラクル」


『はい』


「俺が、絶対に従いたくないって思ったら?」


『その判断も適性演算に使用されます』


「それでも、俺の未来を決める?」


『最も幸福度の高い進路を提示します』


「俺が拒否しても?」


『拒否によって生じる結果を含め、再演算します』


どこまで逃げても、予測の中に戻される。


拒否することさえ、オラクルの計算材料になる。


蓮はしばらく黙った。


机の上の端末が光る。


《適性演算情報を更新しました》


《完了率 99.987%》


また下がった。


蓮が疑問を口にするたび、数字は一〇〇から遠ざかる。


その下に、新しい表示が現れた。


《行動予測モデルを再構成しています》


円形の印が回る。


数秒。


十秒。


一分。


やがて、表示が変わった。


《再構成に失敗しました》


蓮は身体を起こした。


「オラクル」


返答がない。


「今のは何だ?」


壁面の青い光が消えている。


部屋の温度調整も。


明日の予定表示も。


就寝用の環境音も止まっていた。


完全な静寂。


停電ではない。


机の端末は動いている。


蓮はもう一度呼びかける。


「オラクル」


数秒後、壁面に光が戻った。


『はい、天城蓮さん』


声は、いつもと同じだった。


「一度、応答しなかった」


『音声応答に異常はありません』


「行動予測モデルの再構成に失敗したって出た」


『該当する処理記録はありません』


また、記録にない。


「見たんだよ」


『該当する処理記録はありません』


蓮は端末の画面を確認する。


《適性演算中》


《完了率 99.987%》


失敗の表示は、すでに消えていた。


「お前は、本当に俺のことを見てるのか」


蓮は尋ねた。


短い沈黙。


『質問の意図を確認しています』


「天城蓮って名前じゃない。今、ここにいる俺を見てるのか」


壁面の光が、かすかに揺れた。


『室内に一名の在室を確認しています』


蓮は息を止めた。


いつもなら、天城蓮さんと答える。


「その一人は誰だ」


『天城蓮さんの個人端末が、室内に存在します』


「人間の方を聞いてる」


『室内に一名の在室を確認しています』


「それが俺だと分からないのか」


返事はない。


青い光が、一度だけ弱くなった。


『十分な睡眠を取ってください』


「答えてない」


『明日の予定を表示します』


壁面に、予定表が戻る。


《午前七時四十二分 父親と自宅を出発》


《推奨経路を使用》


《予定外の接触を避けてください》


何事もなかったように、一日が並べられる。


蓮は画面を見つめた。


オラクルは室内に人間がいることを知っている。


天城蓮の端末があることも知っている。


それでも、その二つを同じものとして答えなかった。


「おやすみなさい、天城蓮さん」


オラクルの声が流れる。


蓮は返事をしなかった。


画面が暗くなったあとも、目を閉じることができなかった。


しばらくして、机の上の個人端末が一度だけ光る。


《在室者:一名》


《登録端末:天城蓮》


《関連性を確認しています》


円形の印が回り始める。


《関連性を確認できません》


表示は数秒で消えた。


その記録もまた、どこにも残らなかった。

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