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第三話 未来を持たない生徒

進路再検査は終了した。


しかし、演算は終わらなかった。


《完了率 99.999%》


残された〇・〇〇一パーセントを埋められないまま、天城蓮の未来は保留された。


神の答えを待つ少年に、翌朝届いたのは進路通知ではない。


これまで、この世界に存在しなかった扱いだった。

午前六時。


カーテンが開くより先に、蓮は目を覚ましていた。


薄暗い部屋の中で、机の上に置かれた個人端末だけが青く光っている。


《適性演算中》


《完了率 99.999%》


昨夜から数字は変わっていなかった。


蓮はベッドを出ると、端末を手に取った。


画面を閉じる。


もう一度開く。


《適性演算中》


《完了率 99.999%》


「故障してるんじゃないのか」


独り言に反応し、壁面端末が点灯した。


『おはようございます、天城蓮さん』


設定時刻は、午前六時。


カーテンが静かに開く。


『七月十九日、金曜日。本日の降水確率は七パーセントです』


「再検査の結果は?」


『適性演算を継続しています』


「いつまで?」


『演算完了時刻を算出できません』


昨日と同じ答えだった。


「完了率は?」


『九十九・九九九パーセントです』


「残りは?」


短い沈黙。


『適性演算を継続しています』


蓮は端末を机へ戻した。


一〇〇パーセントにならなければ、結果は出ない。


それは分かる。


だが、〇・〇〇一パーセントのために、どれほど待てばいいのかは誰にも分からなかった。


リビングへ入ると、父と母が食卓の前で並んで座っていた。


二人とも朝食には手をつけていない。


中央の端末に、大きな通知が表示されている。


《重要通知》


《天城蓮の進路指定を一時保留します》


蓮は立ち止まった。


「保留?」


母が端末を蓮へ向ける。


通知は、深夜に届いていたらしい。


《適性演算が完了していないため、進路指定を一時保留します》


《保留期間中は、通常の教育課程を継続してください》


《進学、就職、長期契約に関する新規手続きを制限します》


《次回再評価日:未定》


「未定って何だよ」


蓮がつぶやく。


父は腕を組んだまま、画面を見ていた。


「演算が終わるまで、今の学校に通えということだろう」


「卒業したあとも?」


「そこまで長引くとは書かれていない」


「再評価日も決まってない」


「管理局が対応している。今は従うしかない」


父の声は落ち着いていた。


だが、いつもより言葉が短い。


母は不安そうに蓮を見る。


「学校には行けるのよね?」


「通常の教育課程を継続って書いてあるから」


「それなら、今すぐ困ることはないわ」


母は自分に言い聞かせるように言った。


蓮は通知を読み返す。


進学できない。


就職できない。


長期契約もできない。


進路が決まらないだけだと思っていた。


だが、この世界では進路がなければ、その先にあるほとんどの手続きも始められない。


「保留になった人って、今までいたのかな」


母の問いに、父は答えなかった。


代わりに端末を操作する。


公開記録を検索しているようだった。


《該当する公開事例はありません》


画面にそう表示された。


「公開されてないだけかもしれない」


父が言う。


「すべての事例が一般公開されるわけじゃない」


蓮は父の横顔を見る。


昨日までなら、父はきっと言っていただろう。


そんな事例は存在しない、と。


今は、存在しないとは言わなかった。


午前七時四十二分。


いつもどおり家を出る。


視界には学校までの推奨経路が表示された。


電車の時刻も、乗車位置も変わらない。


それなのに、街が昨日とは違って見えた。


駅へ向かう人々には、それぞれ行き先がある。


職場。


学校。


研修施設。


病院。


本人が迷っていても、オラクルは目的地を知っている。


蓮にも今日の目的地はある。


だが、その先がない。


駅のホームに着くと、待機位置に名前が表示されていた。


《天城蓮》


昨日までなら、名前があることに安心した。


今日は、その文字が仮のものに見えた。


学校へ着き、認証ゲートを通る。


『天城蓮。認証しました』


名前を呼ばれる。


何も問題はない。


日常生活は続いている。


進路だけが存在しない。


教室へ入ると、会話の音が一瞬だけ弱くなった。


すぐに元へ戻ったが、蓮には分かった。


昨日までとは違う。


何人かがこちらを見ている。


進路が空白だったこと。


管理局で再検査を受けたこと。


結果が出なかったこと。


学校内ですでに広まっているらしい。


「おはよう」


美月が普段どおり声をかけた。


「おはよう」


「結果は?」


「まだ」


「演算中?」


蓮は端末を見せた。


《完了率 99.999%》


美月は画面をじっと見つめた。


「あと少しじゃん」


「昨日からずっとこの数字」


「更新が遅れてるだけかも」


美月の言葉には、以前ほどの確信がなかった。


佐伯も自分の席からやってくる。


「管理局から何か来た?」


「進路指定を保留するって」


「保留?」


蓮は通知を見せた。


佐伯は一行ずつ読み、途中で顔をしかめた。


「長期契約を制限って、どういう意味だ?」


「進学とか就職の手続きを始められないらしい」


「じゃあ、卒業までに決まらなかったら?」


「分からない」


「そんなの困るだろ」


「俺に言うなよ」


蓮が答えると、佐伯は黙った。


美月が小さな声で尋ねる。


「先生には?」


「まだ話してない」


「たぶん学校にも通知が来てるよ」


その予想は当たった。


朝の会が始まると、担任は出席確認を済ませたあと、蓮の名前を呼んだ。


「天城。あとで進路指導室へ来なさい」


教室の視線が集まる。


「分かりました」


担任はすぐに次の連絡事項へ移った。


だが、蓮の端末には同時に別の表示が出ていた。


《進路未指定》


これまで空白だった進路欄に、初めて文字が入っている。


未来が示されたわけではない。


示されていないことが、正式な状態として登録されただけだった。


一時間目。


社会倫理の授業。


今日のテーマは、最適化社会における個人の役割だった。


正面の画面に文章が表示される。


《社会は、すべての人間が最適な役割を担うことで安定する》


教師が生徒たちを見渡した。


「オラクル導入以前、人々は自分に適していない職業を選び、長期的な不幸や社会的損失を生み出していました」


過去の失業率や離職率が表示される。


「現在では、個人の能力と社会の需要が正確に調整されています。これにより、誰もが必要とされる場所で生きることができます」


蓮は自分の端末へ目を落とした。


《進路未指定》


誰もが必要とされる場所で生きる。


では、場所を示されなかった人間は、どうすればいいのだろう。


「それでは問題です」


教師が画面を切り替える。


《オラクルの提示と本人の希望が一致しない場合、何を優先すべきか》


選択肢が表示される。


《本人の希望》


《オラクルの提示》


《第三者の判断》


ほとんどの生徒が迷わず《オラクルの提示》を選んだ。


蓮の指は止まった。


昨日の検査でも、似たような問いがあった。


そのとき蓮は《回答を保留する》を選んだ。


今、教室の問題には保留という選択肢がない。


端末が震える。


《回答してください》


蓮は《オラクルの提示》に触れた。


画面に正解を示す青い印がつく。


「当然ですね」


教師が言う。


「本人の希望は、現在の知識や感情に左右されます。一方、オラクルは将来の変化まで含めて判断します」


蓮は正解の印を見つめた。


間違ってはいない。


少なくとも、昨日まではそう思っていた。


授業が終わり、蓮は進路指導室へ向かった。


室内には担任と進路指導主任がいた。


昨日座った椅子へ腰を下ろす。


主任の端末にも、同じ通知が表示されていた。


《進路指定:一時保留》


「学校側の対応について説明する」


主任が話し始める。


「当面、お前は通常どおり授業を受ける。卒業要件にも変更はない」


「卒業後は?」


「管理局から指示が出ていない」


「進路が決まらなかったら、卒業しても何もできないんですか?」


「決まらないとは言っていない」


「再評価日は未定です」


主任は一度言葉を止めた。


「管理局が演算を続けている。結果が出るまで待つしかない」


「どのくらい?」


「分からない」


また、その言葉だった。


担任が口を開く。


「天城。学校としても、管理局へ早期対応を求める」


「求めたら早くなるんですか?」


「それは……」


担任は答えられなかった。


蓮は自分の膝を見る。


誰も悪くない。


教師も。


管理局も。


おそらくオラクルさえ、決められた処理を続けている。


それでも、自分の未来だけが止まっている。


「一つ確認したい」


主任が言った。


「昨日の再検査で、通常と異なる回答をしたか?」


蓮は顔を上げる。


「通常と異なる?」


「過去の適性検査とは、回答傾向が変わっていた可能性がある」


「最後の質問で、回答を保留しました」


「どんな質問だった?」


「提示された進路が希望と違っていたら、どうするか」


主任が端末を操作する。


「過去の回答は?」


画面には、中学時代に受けた適性検査の記録が表示された。


《提示された進路に従う》


蓮はその答えを覚えていなかった。


だが、以前の自分なら迷わずそう答えただろう。


「今回はなぜ保留にした?」


担任が尋ねる。


「自分の進路が空白だったからです」


「通知が正常なら、同じ回答をしていたか?」


蓮は考えた。


「たぶん」


「つまり、今回の異常が、お前の回答を変えた」


主任が言う。


「それが何か?」


「演算結果に影響した可能性はある」


蓮は眉を寄せた。


「俺が答えを変えたから、進路が決まらないってことですか?」


「そう断定しているわけではない」


「じゃあ、何を言いたいんです?」


主任は黙った。


担任が慎重に口を挟む。


「再検査を受ける前のお前と、受けたあとのお前では、判断傾向が変わっているということだ」


「一日で?」


「人間の判断は、経験で変化する」


それは当たり前のことだった。


だが、オラクルはその変化も含めて未来を予測するはずだ。


変化したから計算できないというのなら、他の人間だって同じではないのか。


「俺が迷ったことが問題なんですか」


主任は否定しなかった。


「今は、管理局の判断を待ちなさい」


面談はそれで終わった。


教室へ戻る途中、蓮は廊下の窓際で足を止めた。


校庭では、一年生たちが職業体験の案内を受けている。


それぞれの適性に合わせて、体験先が割り振られていた。


誰も迷わない。


誰も立ち止まらない。


自分だけが、透明な壁の外へ押し出されたようだった。


「蓮」


振り返ると、美月が立っていた。


「授業は?」


「移動教室。今から行くところ」


美月は蓮の隣まで来る。


「先生、何て?」


「待てって」


「それだけ?」


「進路が出るまで普通に授業を受けろって」


「じゃあ、今までと同じだね」


美月はそう言ったあと、すぐに言い直した。


「ごめん。同じじゃないよね」


蓮は窓の外を見る。


「同じだよ。今日も学校に来て、授業を受けて、家に帰る」


「でも?」


「その先がない」


美月は答えなかった。


しばらく二人で校庭を見ていた。


「医者になるの、楽しみ?」


蓮が尋ねる。


「急に何?」


「昨日聞いたときは、嫌じゃないって言ってただろ」


「うん」


「今は?」


美月は少し考えた。


「まだ実感はない」


「血が苦手なのに?」


「それ、何回聞くの」


「気になるから」


美月は小さく息を吐く。


「怖いとは思う。でも、向いてるって言われたから」


「言われなかったら?」


「医者にはならなかったと思う」


「じゃあ、本当は何がしたかった?」


美月は口を開きかけ、閉じた。


「分からない」


蓮は美月を見る。


彼女自身も、少し驚いた顔をしていた。


「考えたことなかった」


「俺もだ」


「蓮は今、考えてるの?」


「答えが出なかったから」


美月は視線を落とした。


「答えがない方が、自分で考えるんだね」


廊下の端末が授業開始を告げる。


『桐谷美月さん。移動を開始してください』


美月が顔を上げた。


「行かないと」


「ああ」


数歩進んだあと、美月が振り返る。


「考えすぎない方がいいよ」


「オラクルみたいなこと言うな」


「そういう意味じゃない」


美月は困ったように笑った。


「まだ何も決まってないなら、悪い結果とも限らないでしょ」


「そうだな」


美月は今度こそ廊下を去った。


蓮はその背中を見送る。


まだ何も決まっていない。


それは恐ろしいことだった。


同時に、ほんの少しだけ別の感情もあった。


名前のつけられない、小さな感覚。


それが何なのか、蓮にはまだ分からなかった。


昼休み。


蓮の端末に新しい通知が届いた。


進路結果ではない。


《進路保留者向け支援プログラム》


《一時相談担当者を設定しました》


《担当:中央管理局教育適性部 榊宗一郎》


《初回面談:本日午後四時》


佐伯が画面をのぞき込む。


「保留者向けって、そんな制度あるのか?」


「俺も初めて見た」


「さっき検索したけど、出てこなかったぞ」


「公開されてない制度なのかも」


美月が言う。


「今回のために作ったんじゃない?」


佐伯の言葉に、三人とも黙った。


蓮一人のために、新しい制度が作られた。


そう考えると、背中が冷たくなった。


午後四時。


授業を終えた蓮は、学校内の面談室に入った。


壁面画面へ、榊の姿が表示される。


管理局からの遠隔面談だった。


「学校から説明を受けましたか」


「待つように言われました」


「現時点では、それが正式な対応です」


「演算はまだ九十九・九九九パーセントです」


「ああ」


「残りの〇・〇〇一パーセントは何ですか?」


榊は少し黙った。


「適性演算の内訳は公開されていません」


「管理局の人にも?」


「必要な範囲しか開示されない」


「誰なら分かるんですか?」


「オラクルです」


「そのオラクルが答えない」


榊の表情は変わらない。


だが、否定もしなかった。


「今日から、毎日一度面談を行います」


「何を話すんです?」


「生活上の問題、心理的な負担、進路に関する希望などです」


「俺が何を希望するか、管理局が聞くんですか?」


「問題がありますか」


「オラクルが決めるんじゃないんですか」


榊は椅子へ深く座り直した。


「演算が完了するまでの補助情報として扱います」


「俺が答えたことも、演算に使う?」


「その可能性はあります」


「じゃあ、俺の答え次第で進路が変わるんですか?」


「適性演算は、多数の情報を総合して行われます」


また、はっきりしない回答だった。


蓮は机へ両肘をつく。


「昨日まで、オラクルは俺のことを全部知ってると思ってました」


榊は黙って聞いている。


「でも今は、俺に何が向いてるのかも分からない。だから俺に聞くんですか?」


「君の進路が決まっていない理由は、まだ分かっていません」


「じゃあ、何で面談するんです?」


「何もしないよりはいい」


意外な答えだった。


管理局の人間らしくない。


「オラクルの指示ですか?」


「支援プログラムの設置は、管理局の判断です」


「人間が決めた?」


「そうです」


蓮は榊の顔を見る。


この世界では、重要な決定のほとんどをオラクルが行う。


だが今、オラクルが答えを出せないために、人間が暫定的な仕組みを作っている。


「最初の質問です」


榊が端末を見る。


「君は今、どんな進路を希望していますか」


蓮は笑いそうになった。


「分かりません」


「何でも構いません」


「だから、分からないんです」


「興味のあることは?」


「特にない」


「避けたいことは?」


蓮は少し考えた。


「自分に合ってない仕事」


「それを判断するためのオラクルです」


「そのオラクルが決められない」


榊は口を閉じた。


蓮は続ける。


「俺が決めても、間違えるかもしれない。オラクルに任せても、答えが出ない。どうすればいいんですか」


画面越しに、榊と目が合う。


「それを考えるための面談です」


「榊さんは、何になりたかったんですか?」


「質問するのはこちらです」


「答えられない?」


榊の目がわずかに細くなった。


「教育適性部を希望していたわけではありません」


蓮は驚いた。


「じゃあ、何になりたかったんです?」


「考えたことはありません」


美月と同じ答えだった。


佐伯とも。


自分とも。


「オラクルに言われたから?」


「適合率は九十七・四パーセントでした」


「幸せですか?」


榊はすぐには答えなかった。


面談室の時計だけが進んでいく。


「業務への満足度は、基準値を上回っています」


「それ、幸せって意味ですか」


「今日の面談は終了します」


榊は一方的に通信を切った。


画面が暗くなる。


蓮は一人で椅子に座っていた。


最後の質問には答えなかった。


あるいは、答えられなかったのかもしれない。


帰宅すると、父がまだ仕事から戻っていなかった。


母は蓮のために夕食を温めながら、進路のことを何度も尋ねた。


蓮は、まだ演算中だとだけ答えた。


榊との会話は話さなかった。


午後十時四十分。


部屋の照明が暗くなる。


机の上の端末には、同じ数字が表示されていた。


《完了率 99.999%》


「オラクル」


『はい、天城蓮さん』


「今日、保留者になった」


『進路指定は一時保留されています』


「俺以外にも保留者はいる?」


『個人情報に関する質問には回答できません』


「制度の公開記録がない」


『必要な支援は提供されています』


「俺のために作ったのか?」


返事はない。


「残りの〇・〇〇一パーセントは何だ?」


『適性演算を継続しています』


「俺が何を望んでいるか?」


『適性演算を継続しています』


「自分で決めろってことか?」


長い沈黙。


壁面端末の青い光が、かすかに揺れた。


『質問の意図を確認できません』


蓮はその言葉を聞き、しばらく黙っていた。


オラクルは、答えを拒んだのではない。


今の質問を理解できなかった。


少なくとも、そう聞こえた。


「おやすみ」


蓮が先に言った。


一拍遅れて、オラクルが答える。


『おやすみなさい、天城蓮さん』


画面が暗くなる。


蓮はベッドへ横になった。


今日、何人もの人間に質問された。


何を望むのか。


何がしたいのか。


どんな未来を選びたいのか。


一度も考えたことのない問いばかりだった。


神が答えを示す世界では、必要のなかった問い。


蓮は目を閉じる。


眠りにつく直前、端末が小さく振動した。


《適性演算中》


《完了率 99.999%》


数字は変わらない。


だが、その下に新しい表示が加わっていた。


《不足情報を確認しています》


蓮は眠りに落ち、表示を見ることはなかった。


数秒後、文章は消える。


再び残ったのは、九十九・九九九パーセントという数字だけだった。

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