9.承諾
どれほど時間が経ったのか分からない.ガルドが気を持ち直して頭を上げると,ロビー端の応接スペースにラゼルトとフェルーザがいることに気付いた.いつからそこにいたのかは分からない.
ラゼルトはガルドに向かって軽く手を上げると,親指で外を示した.
少しためらったあと,ガルドは先に外へ出てラゼルトたちを待った.午後の風がガルドの気分をいくらか落ち着かせる.
ドアから出てきたラゼルトはガルドの肩を叩き,少しだけ前へ押して言った.
「近くに俺が借りてる事務所があるんだ」
近くというわりにはしばらく歩くとラゼルトの事務所に着いた.
簡素な石造りの建屋に入ると,飾り気のない外観同様に,まさに事務所といった設えになっていた.
真新しい椅子と木机が数脚に革張りのソファー.簡易的な炊事場.窓は大きく採光は十分.また,二重構造になっており,外の騒音はしっかりと遮断されている.ただ,機能的といえばそうだが,ガルドにとっては少々味気ない.
辺りを見回すガルドをよそに,事務所に着くなり,さっそくとばかりラゼルトが口を開いた.
「見てたぜ」そう言いながらラゼルトは炊事場の奥から瓶を取り出す.加護で冷えているのか,瓶の表面には水滴が浮いている.それを2つの金属製の杯に注ぐと,中で細かい気泡が絶えずはじける.
壁にもたれて自分の髪をいじるフェルーザの足元ではティオが周囲を見回している.
「実を言うとな,あの宿が大将のものじゃないってのは知ってた.それに所有権がロウェンだってのも事前に役場で調べてあった」
ラゼルトは椅子に腰かけると手にした杯のひとつをガルドの前に置いた.ガルドは手を出さない.
「ロウェンってのは商売やってる人間のあいだじゃそこそこ名の通ってる,いわゆる成功者で,今じゃそこらに別邸がいくつもあるらしい」ラゼルトは杯を傾けてから続ける.「たぶん,あんたの宿はそのひとつ,あるいはヤツがまだ小物だったころの根城かなんかじゃないか」
ガルドは黙って聞いている.眼前に置かれた杯に結露が浮かび,木机に小さな染みを広げていく.答えないガルドを見てラゼルトは推測を口にする.
「それで,あんたはそこらへん知ってか知らずか勝手に住み着いて商売を始めたってところか?」
「そうだ」
そう答えつつ,ガルドはティオとはじめて出会ったころを思い出していた.埃を被った宿.カウンター脇に佇む迷子の神様.
ぼんやりとした様子のガルドをラゼルトはしばらく観察していたが,軽く溜息をつくと何か言いかけてやめた.しかし,すぐに思い直したのかふたたび口を開いた.
「ついでに言うと,あんたが税を滞納してることも把握してる」ラゼルトはうっすらと笑みを浮かべている.場の空気に耐えかねたのか,フェルーザが炊事場の奥へと消える.「でだ,例の件,そろそろ返答を聞いてもいいか?」
宿をギルド拠点にするという話だろう.だが,立ち退きの決まった宿を手に入れてラゼルトになんの得がある.
「……遠くないうちに出ていかなきゃならないのにか?」ガルドが短く言い放つと,ラゼルトは少し呆けたあとに話し始めた.
「そういや詳しくは言ってなかったな.要は,俺にとっちゃ時間も所有権もたいした問題じゃねぇんだよ.とにかく形だけ整えて加護を授かれればそれで十分だ」
たしかに,宿の客をギルド登録者として架空計上するのがラゼルトの計画だった.当初,それはギルド設立のための力技とガルドは信じていた.
しかし,実はそれさえも入り口.実際には審査をごまかすどころか,神を騙して加護を詐取するのがラゼルトの計画だったということか.
「なにせ実際にギルドを利用するやつもいないんだからな,ダメになったら次を探すさ」ラゼルトは口を歪めて笑った.口ぶりから察するに,ラゼルトはすでに同じような手口を何度も経験しているのだろう.
「だけど大将,俺は立ち退きまでの賃料はきちんと払う.だから,あんたは少なくとも税の問題に関しちゃ心配が減る.違うか」
ティオの尻尾が毛羽立ち太くなっている.ガルドは頭を抱えてじっと動かない.
「……」
引き出しの封筒.帳簿の数字.宿へ落ち着く前のその日暮らしの生活.さまざまな光景がガルドの頭を巡った.
今度ばかりはラゼルトも辛抱強くガルドの返答を待つ.長い沈黙のあと,ようやくガルドが口を開いた.
「………引き受けよう」
そう短く言うと,ガルドは目の前の杯にゆっくりと手を伸ばし口を付けた.
苦い.麦が原料の飲料だ.
ガルドが杯を空けると,今度はラゼルトが威勢よく言い放った.
「交渉成立だな」
ラゼルトは言い終わると自分の杯を傾け,飲み干した.「心配すんな.たいしたことじゃねぇ」
ガルドが視線を上げると,そこにティオの姿はなかった.




